前世の呪いはちゃんと供養したほうがいい
「ねぇ岩崎君、頼みがあるんだけど」と野島が口にしたのは、吉田の後輩の三浦に絶対面白いと強く勧められてレンタルした時代劇を見始めて、物語もいよいよクライマックスに差し掛かった頃だった。ちなみに三浦とは少し前にちょっとした事件で知り合いになったのだが、それは今回は省かせてもらう。
「その言い方、ろくな感じがしないな」俺はDVDを一時停止にして野島に向き直った。
「あのね――」
「俺は聞くとは言ってないぞ」
話そうとしたところを遮ると野島は眉をひそめて不機嫌をあらわにしたが、それもすぐに消え、小さく肩を落として「聞いてよ」と口をとがらせた。
「なんだよ」
「あのね、こないだ仲のいい同僚にあたしが別れた事を話したら、店長に伝わったらしくて、なんかね、みんなが言うには店長、前からあたしのこと狙ってたみたいで、ここぞとばかりにしつこく誘ってくるの」
「おお、軽い自慢か」
「そんなんじゃないよ、困ってるの」野島は眉をハの字に曲げ、語調を強めた。
「ホントは断りたいんだけど相手は店長だから、角が立つと、あたしあの店に居られなくなっちゃうし、だから岩崎君に彼氏のふりしてほしいんだけど……」
「で? 俺にその店長から恨まれろ、と」
「ダメ?」野島は恐る恐る、と言った感じで俺の顔を覗き込む。
「別にその店長に恨まれるのは構わねぇよ。どうせ会うこともないしな。ただ、そんなことをするメリットが俺にはまるで無い」と、俺は大げさに手を広げた。
「ちゃんとお礼はするよ。だから、お願い」
手を合わせて拝む野島に「じゃあ」と身を乗り出して「飯でもおごってもらうか、高級なお店の」と意地悪く笑って見せた。
野島はうう、とうなり声をあげ少しの間黙ったが、やがて観念したように「わかったよ」と言った。
野島の話はこうだった。
実は何度も誘われ、とうとう断りきれなくなった野島はそれなら、とせめて二人きりではなくみんなで飲み会を開く。と最大限の譲歩をして、とうとうOKしてしまったらしい。そこで、『飲み会』にはしっかり参加して、頃合いを見計らって俺が『彼氏』として登場すれば、店長もあきらめがつくし、本人が直接断るよりは、角が立たない。とのことだった。
「拓実……たーくーみ!」
聡美に呼ばれて我に帰る。頭の中の俺は午前中の仕事を一切放棄し、パソコンに向かったまま「なんで俺はあんな面倒くさい頼みを断らなかったんだろう?」とそればかりを考えていた。
振り返ると、聡美が険しい顔で立っていた。何事かと、聡美の視線の先を見ると、なるほど、電源をつけたまま一切何も開いていないパソコンの画面を凝視していた俺を訝しんでいるのだと気付いた。
「――どうした? 何か用か」
「何か用か。じゃないでしょ。あんた何やってんの? 報告書もまだだし、新規獲得キャンペーンの原案も今日までだよ。ぼーっとしてる暇なんてないと、思うんだけど?」
嫌味交じりに冷たい目を向ける聡美は、本心と言うよりも、室長としての仕事を全うしてるように見えた。恐らく本心を口にするなら「どうした? 珍しくぼーっとして。何か悩みがあるなら聞くけど」ってところか。
「ああ、悪いな。考え事してたんだよ。仕事はしっかりやるさ。心配すんな」
そう言うと、安心したのか、聡美は「そう、ならいいんだけど」と満足そうな顔で自分のデスクに帰って行った。
「珍しいね、岩さんが考え事なんて。野島さんのこと?」
隣のデスクから山田が首を伸ばす。パソコンの画面を覗くと、なるほど、と一言呟いてにやりと笑った。
「ああ、昨日ちょっと面倒くさい頼まれごとをされてな」俺は小さく首をすぼめる。
「でもなんだかんだ言って、頼まれちゃうんだ。岩さん、優しいから」
「そんなんじゃ、ねぇよ」と言いながらもやはり頭の中の俺は「なんで受けたんだよ」と不満の声を荒げていた。扉を閉めるイメージで頭の中の俺をシャットアウトして、時計を見る。
予定では7時頃から飲み会が始まるはずだから、8時くらいに行けばいいか、とぼんやり考えた。それまでにさっき言われた仕事を片づけないと。俺は今度こそまじめにパソコンへと向かった。
まじめにやろうとすると邪魔が入るのは世の常か、それとも前世の行いが悪かった為か、とにかく俺はまじめにやろうとすると必ず何かしらの邪魔が入った。
今回の邪魔は、まず悲鳴から入った。パソコン越しに向かいのデスクに目をやると、新人の、と言ってもこのオフィスに入って2年目だが、篠原知美が頭を抱えていた。
それなりに大きい悲鳴だった為、トラブルはコチラとアナウンスしているようなものだ。
「急に大きい声を出すなよ。どしたの?」
「パソコンが急にフリーズしちゃって、色々いじってたら、データが飛んじゃいました」
篠原は困惑した顔で、一週間かけたデータが。と嘆いた。
本来なら、これはもう仕方のないことだ、とあきらめて、また一から作り直してもらうのだが、「拓実に復元してもらいなよ」との室長様のお言葉に耳を疑った。
俺はもちろん、消えたデータの復元にどれほど時間がかかると思ってるんだ、と抗議したが、「知美がかわいそうでしょ」の一言であっさりと却下された。
お昼の休憩を返上して篠原のパソコンに向かい、データを復旧できたのが3時間後の午後2時だった。必死に謝り、何度もお礼を言う篠原に「気にするな」と声をかけて、カッコよく自分の席に戻る。頼れる男は楽じゃないな、と自分の労をねぎらいながら、ようやく自分の仕事に取り掛かった。
順調に報告書をまとめ、新規獲得キャンペーンと銘打った、いわゆる割引サービスの原案の作成を、まさしく始めようとしたところで、次の邪魔が入った。どうやら前世の俺は重罪人だったらしい。今度の邪魔は、自然が相手だった。
夕方前にしては暗いな、と外に目をやった時にはもうすでに空を隆々とした黒い雲が覆っており、太陽の光を一切遮るソレは、地響きを巻き起こす轟音とともに滝のような豪雨を辺りにまき散らした。今年に入って何回目かのゲリラ雷雨だ。
「あ~、また来たねぇ……一応停電に備えて、バックアップしとくんだよ」と言った聡美には予知能力でもあったのか、パソコンの電源を落とした数分後には、辺りを白い光が包み、そして次の瞬間には暗闇に放り出されていた。
「落ちた?」暗闇の中、誰に訊くとでもなく聡美が呟いた。
「隣のビルは電気点いてますよ」
「えぇ? じゃあここだけ停電したの?」
「大方ここの避雷針に落ちたんだろ……あぁ、これじゃしばらく仕事は無理だな」
時計を見る。すでに5時を過ぎている。このまま停電が長引くと8時には間に合いそうもないな。
ようやく電気が戻ったのはそれから1時間半が経過した午後6時40分だった。
ここから昨日野島に聞いた『飲み会』の場所までの距離を考えると、頑張っても20分はかかってしまう。頼むからもう邪魔をしないでくれよ。と誰かに、たぶん神様にお願いをして、仕事に取り掛かる。もう残された時間は1時間しかない。
幸い、それからは邪魔は入らなかったものの、元々1時間で終わるはずもなく、ようやくまとめに入った頃にはとっくに時刻は8時を過ぎていた。
まぁ、1時間後と決めたのはあまり遅くならないうちに、と俺が決めたことだから、一般的に考えても1時間でお開きになる『飲み会』はまずないだろう。と高をくくっていた。だが、腹の底がむずむずするのはなぜだろう。
実際これ以上遅れるわけにもいかない。野島がどうこう、と言うよりも、高級レストランの食事がかかっているし、なにより一度約束したことを自分から反故にするのは許せなかった。
急いでプリントアウトして、出来あがった書類を聡美に投げつけ気味にわたしながら
「終わった。悪ぃ、帰る。それについての話は明日な」と言い残し、ポカンと口を開ける室長様を後目に足早にオフィスを出た。
野島が来てから、何かと歩いたり走ったりが多いな。息を切らせながらそんなことを考えた。「別にそこまで義理だてすることもないんじゃないか?」「結局間に合わなかったとしても、野島が自分で断ればすむことじゃないか」と一度は黙らせた頭の中の俺がドアをこじ開けてまた喚いた。うるさいな、高級レストランの為だ。
野島から聞いた居酒屋のある路地が目の前に迫る頃には、久しぶりに走った俺の足腰はすっかり悲鳴を上げていた。運動不足を実感する。これからはジムにでも通って運動しよう。と強く決心したところで、声が耳に入った。よくは聞こえなかったが、女の声だった。
路地を曲がると、居酒屋の前で男と女がもみ合いになっていた。女の方は間違いなく野島だ。
「離してください! あたし帰りますから」
「いいじゃないか、俺は本気だよ」
遠くて詳細は分からなかったが、男が無理やり野島の腕を引っ張っていることだけはわかった。野島は必死に踏ん張って耐えている。男の力がよほど強いのか、引き離せないでいた。あれ? 結構やばい状況なのか? 俺は一層速度を上げながら、これって間に合ったって言うのかな、と思った。
「てめぇ!」野島と男の間に割り込み、息も絶え絶えながら、男を睨みつけた。背中越しに野島の驚いた声が聞こえたが、俺は男から目を離さず「気安く俺の女に触るんじゃねぇ」と睨みを利かせた。息がこれほど上がっていなければ、それなりに効果的だったと思う。
男は何事か理解が出来ない様子で、キョトンとしていた。振り返れば、野島も同じような顔で立っていたわけだが、俺はお構いなしに、野島の腕をつかむと、そのまま歩きだした。
「ほら、帰るぞ」
「う、うん」
「ちょっと遅かったじゃない」
夜の国道沿いを歩き始めて10分もすると、野島は落ち着きを取り戻し、危なかったんだから。と口をとがらせた。
「悪かったな……間に合ったんだからいいじゃねぇか。一応『彼氏』もアピールしたしな」
遅くなったことは、ほんの少しだけ、頭の片隅程度に申し訳ないと思っていたので、一応謝る。
野島はフンと鼻を鳴らすと横を向いて黙り込んだ。
「怒ってんのか?」
状況は最高とは言えなかったが、作戦は成功したのだから、結果オーライのはずだ。感謝されることはあっても怒られるいわれは無い。が、重苦しい雰囲気に仕方なく俺も黙るしかなかった。
しばらくは二人とも黙ったまま、等間隔に並ぶ街路灯の下をリズムよく、くぐっていたのだが、やがて沈黙に耐えきれなくなった俺はもう一度謝ることにした。非常に不本意だが。
「……なに黙ってんだよ。ったく、遅くなったのは謝るよ。悪かった」これで効果なしなら俺は打つ手なしで投了するしかない。
野島は初めこそは押し黙ったままだったが、小刻みに震えだしたかと思うと、あはは、と笑いだした。
「岩崎君が2回も謝るなんてね。明日雪でも降るんじゃない?」
「はぁ? お前バカにしてんのか」
「――どこに行く?」
不意に訊ねられた俺はわけがわからず、何の話だ?と訊き返すしかない。野島は笑顔を崩さずに「高級レストラン」と言うと「ちゃんとごちそうするよ。お礼に」と『お礼に』の部分を強調した。
「当たり前だ。俺はちゃんと仕事を果たしたんだからな」
俺は、そうだな、と熟考して、思いつく限りのレストランを列挙した。
続く