女の言葉はどれが真実かわからない
気がつくと、知らないものが増えていた。自分の趣味ではないアーティストのCD、家に無かったサイドテーブルとその上に置かれた化粧品、洗面所にはコップと歯ブラシ、バスルームには新しいシャンプーとトリートメント。クローゼットに至っては、俺の服を押しのけて、女物の服が並んでいた。
まるで同棲だ。と楽しそうにノブナガをじゃらす野島を見ながらうなだれた。俺がいままで頑なに女の子との同棲を拒絶していた理由がこれだ。俺の生活の絶対条件は、家は憩いのスペースでなくてはならない、だ。
仕事で疲れて帰ってきたときに、誰に気を使うこともなく、好きな音楽をかけ、酒を飲める。時にはAVを見たり、時には女の子を呼んで実践したり。時には友達を呼んでバカ騒ぎしたり。それができてこその家だ。
それが、どうだ。この落ち着きぶりは。休日の昼間からソファに座って猫と遊ぶ女の子を見つめる。なんてことがあっていいのか。俺は急激に焦りを感じた。このままでは自分がダメになると本気で思った。何とかしなくては。
「おい野島。お前元彼をギャフンと言わせるんじゃなかったのか? ここに来てもう一週間になるが、まだ何にもしてないじゃないか」
「え? うん。もちろんギャフンと言わせるよ」
「具体的にどうするんだよ」
「うーん、どうしようね」
ノブナガをじゃらしながら目を合わせようとしない野島にイラッとする。
「お前ちゃんと考えてんのかよ。何も考えなしに言ってるんじゃないだろうな。大体休みの日に家で猫と遊んでるひまがあったら、元彼の動向でも探ってこいよ」
「あたし探偵じゃないんだけど」
「そう言うことを言ってるんじゃねーよ、お前が元彼をギャフンと言わせるのを手伝って欲しいって言ったんだろうが、ちゃんと考えろって言ってるんだ」
「何よ、ちゃんと考えてるよ。行ってくれば良いんでしょ。岩崎君に言われなくたってね、ちゃんとやることやってやるんだから」
言い方が悪かったのか、急に怒り出した野島は財布と携帯だけ持って出て行ってしまった。力任せに打ちつけられた玄関ドアは壊れるんじゃないかと思うほどの轟音を上げた。あっけにとられたまま、残されたノブナガと目が合う。まるで遊び相手を奪った俺を非難するかのような恨みがましい眼差しに見えた。
「そんな目で見るなよ」俺が悪いわけじゃないだろ?
なんにせよ、貴重な一人の時間を得た俺は、休みを満喫する為にワインラックを開けた。以前知り合いにうまいと教えてもらった2本のうち、値段の安かった方を取り出し、コルクを抜く、食器棚からワイングラスを取り注ぐと、鮮やかな赤色がグラスの中で揺れた。
くるりとグラスを回すと、芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。思わず笑みがこぼれた。さすがワイン通に教えてもらっただけのことはある。
「やっぱり、休みはこうじゃなくちゃな」
昼間から酒を飲みながら、映画を見る。友達と遊んだり、女の子と甘い時間をすごす他に、これ以上の休日の過ごし方があるものか。と言うことで、俺は先日レンタルしたDVDをプレイヤーに流し込んだ。
ワインの残りが半分を切り、映画を2本見終わって、外を見るとすでに夕暮れを過ぎ、名残惜しそうに夕焼けの残りが少しだけ空を紫に染めていた。反射的に時計を見るとすでに7時を回っている。
「あいつ……なにやってんだろ」
怒って出て行ったきり、野島から何の連絡もなかった。
電話しようかと携帯を開くが、アドレスを開いたところで手が止まる。
「なんで俺が連絡しなくちゃいけないんだ。これじゃまるで帰ってきて欲しいみたいじゃねーか」
あいつのことなんか知るか、と携帯を閉じると同時に手の中で携帯が鳴り出した。野島かと思い、着信を見ると、飲み仲間の吉田からだった。
「……なんだよ、何か用か?」
「あらら、ごあいさつね。あたしの方から誘ってやってるのに」
「どうせ相手がいないだけだろ」
「そんなこと言うなよ。いつものバーに居るから、気が向いたら来いよ」
一方的に用件だけを伝えて電話が切れた。吉田はこのカラッとした性格が俺と良くあった。異性で性的な対象としてじゃなく、純粋に友達と呼べる数少ないうちの一人だった。
さて、どうしたものか。出かけることを野島に伝えるべきか、と考えたが、思いなおす。そこまで野島に気を使うこともないだろう、あいつは俺の家に居候しているだけで、別に同棲してるわけでも、ましてや俺の彼女でもなんでもないのだから、俺がどこでなにをしようと俺の勝手だ。
部屋に鍵をかけて俺はバーへと向かった。
「ああ、いらっしゃい岩崎君。吉田さんがお待ちかねだよ」
入口の重厚なドアを開けると、マスターが気さくに声をかけてきた。40も後半を過ぎたにも関わらず、その眼差しは鋭敏さを少しも損なわず、一見すると堅気には思えない風貌も、口を開くと一転、穏やかなしゃべり口で柔和なイメージを聴く者に与える。
凛とした立ち居振る舞いが人生経験の深さを匂わせた。このギャップで女の子はメロメロになるんだよ。とマスターは常日頃うそぶいている。
「相変わらず入ってないな、この店は」
「この静かさが、うちの魅力だよ」
そう言って白い歯を見せるマスターは閑散とした店内に微塵も憂いを感じてはいないようだった。
「おう、来たな岩崎。こっちこっち」カウンターの端で吉田が手を挙げる。
「あいかわらず男っぷりのいい飲み方してるな。お前、男よりも女にもてるだろ」
俺は吉田の隣に座り、マスターにオススメのカクテルを注文した。
「わかる? あたし男には誘われないんだけど、若いOLに人気があって、今じゃ男連中から若い子を誘うだしにされてるよ」
「そんなんだから彼氏の一人も出来ないんだよ」
「お前に言われたくないね。お前もいい年なんだからいつまでも遊んでると結婚できなくなるよ」
「その言葉、そっくりお前に返すよ」
吉田はお世辞ではなく美人だった。だが、勝気で言いたいことを言わずにいられない性格と、人類の誰もかなわないのではないかと思わせるほどの知識量で、どんなに頭のいい男も子供同然に扱ってしまうため、三十三になった今も独り身だった。本人曰く、「人間は必ずしも結婚に縛られなくてはならないわけではない」らしい。それでいていつも恋人候補は探していると言うのだから、おかしなものだ。俺は吉田のそんなところが楽しくて仕方がなかった。
カウンターの向こうでシェイカーを振っていたマスターが、ブルーの液体を2つのグラスに注いで差し出す。「わたしから二人に。わたしのオリジナル『マーベラス・ライフ』です」
俺たちは差し出されたカクテルを受け取り、示し合わせたように
「嫌味?」と声をそろえた。
「最近、楽しいことは無いの?」
飲み始めて一時間も経つと、話題のなくなってきた吉田がお約束の言葉を口にした。
「楽しいことなんてねぇよ。こないだから知り合いが家に転がり込んできてな。一人の自由な時間が無いんだ」
「へぇ、女?」吉田は俺の頭の中を覗こうと目の奥を輝かせた。
「お前はそうやって言う前からなんでもわかってる風だから男が寄ってこないんだ」
「面白いじゃん。好意は無いのか? お互いに」
「無いよ。ただの友達だ」野島の顔が浮かぶが、邪魔だ、と振り払う。
吉田は「へぇ」と意味ありげに笑みを見せると「友達から恋人になることなんて世間じゃありふれてるよ」と言った。
「バーカ、あり得ねぇよ。あいつとは付き合いが古すぎてそんな気になるはずがない。それにあいつはまだ振られたばっかりだ」
昼間、突然怒り出して財布と携帯だけ持って出て行った野島の姿を思い出す。ホントに元彼の動向を探っているのだろうか。こんな時間までご苦労なこった、と時計を見る。時刻は夜の9時を過ぎていた。
不意に妙な感覚が頭をよぎった。何かを忘れているような、重大なミスをしたような、嫌な感覚だった。奥歯に何かが挟まったようで気持ちが悪い。
人間とは不思議なもので、一旦気になると何のことなのか思い出さずにはいられないものだ。吉田が横で何かごちゃごちゃ言っていたが、俺は必死に頭をひねっていた。すると入口のドアが開いて、男が一人入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「いやぁ、参ったよ。急に降られちゃってね、ゲリラ雷雨ってやつ? もうすごいよ」
入店してきた男は背広の肩をびしょびしょに濡らしていた。店内は防音のため気がつかなかったが、外は雷が鳴っているらしい。それならさすがに野島も帰っているだろうと思った。
その瞬間探していたパズルのピースがはまった。さっきのいい方をするなら、奥歯に挟まったものが取れた。まさか、とあわてて携帯を取り出す。
野島の携帯を呼び出したが、電源を切っているのか、電池が無いのか、繋がらなかった。
「どうした? 何かあったのか?」吉田が不思議そうな顔で訊ねる。
「いや……」と口にするが、どうしたものか迷った。あり得ないと思いつつ、繋がらない携帯を見つめる。思いすごしだ、と不安を振り払う。
「あんな奴のことなんか知るか、携帯が繋がらないのが悪いんだ」と頭の中の俺が喚く。「楽しく飲んでるんだから、ほっとけばいいじゃないか」
お前の言うとおりだよ。頭の中の俺を肯定しつつ、現実の俺は「悪ぃ、今日は帰るわ」と吉田にあいさつをして、店を出ていた。
店を出ると、雨は小ぶりになっていたが、依然として空には光が走り、怒りの声をあげていた。
急いで帰ろうと、駅へと向かうが、入口で駅員に止められた。なんでも変電所に雷が落ちたらしく、電車が動かないらしい。仕方なく二駅分の距離を歩いて帰るはめになった。タクシーでも来れば捕まえようと思ったが、こういう時に限って、なかなか通らない。
どうしてこんな思いまでして帰らなくてはいけないんだ、と野島に悪態をつきつつ、俺は無意識に早足になっていた。
1時間以上かけてようやくマンションにたどり着いた時には時計の針は11時を指していた。切れる息もそのままにエレベーターに乗り込み、5階のボタンを押す。上って行くエレベーター内で昼間の光景が眼前に広がった。
あの時、怒って出て行った野島は、財布と携帯しか持って行かなかった。しっかりと合鍵をバッグの中に残したまま。
チンとひとつ音を出して、5階に止まる。ドアが両側にスライドすると、正面に通路が伸びている。その途中に小さく座り込む人影が見えた。一目で野島だとわかった。
ため息交じりに近づくと、野島は顔をあげ、恨めしそうに俺を睨み、「どうして家に居ないのよ」と不満の声をあげた。
「俺がどこに行こうと俺の勝手だろ。まったく、鍵を持って出ないのが悪いんだ。携帯も繋がらないし」
「仕方ないじゃない。電池切れちゃったんだから」
「ならマンガ喫茶かどこかで時間をつぶしてれば良かったじゃねぇか」
「この辺のマンガ喫茶なんてどこにあるのか知らないもん」
ぶつぶつ文句を言う野島を後目に俺は鍵を開け、野島を立たせる。「とにかく、風呂に入れ、びしょ濡れじゃねえか」
「はぁ、さっぱりした」
濡れた髪をタオルで拭きながら、野島は岩崎君も浴びたら? とバスルームを指差した。
「言われなくても入るよ。お前は早く寝ろよ。風邪ひくぞ」
そう言い残し、歩き疲れた足を引きずりながらバスルームに向かうと、背中越しに「ねぇ」と呼び止められた。
「なんだよ」不機嫌気味に振り返ると、野島は後ろを向いたまま。少しの間をおいて「エッチしようか」と呟いた。
「何言ってんだ、バカ!」突然何を言い出すのかと、野島の背中を伺いながらも、自分の意志とは関係なく心臓は高鳴った。足元がふわっと浮くような感じがしてまるで現実感がない。
「冗談だよ。やっぱり引っ掛からなかったか」振り返りながら、あははと笑う野島に、少しの苛立ちをこめて、早く寝ちまえ。と悪態をついた。
シャワーを浴びながらも、早くなっている鼓動に、自分が少し期待してしまった事を知り、がっかりした。「好意は無いのか?」吉田の質問を思い出す。「あるわけがない」と自答する。昔からの友達を、今さらセックスの対象として見られるか。
「あーもう、腹が立つ!」大口を開けて叫ぶと、シャワーから噴き出るお湯が口の中に入り込んでむせた。
バスルームを後にすると、ノブナガが文字通り猫なで声でご飯をねだり、すり寄ってきた。頭と体を冷やそうと長めにシャワーを浴びていたため、少し待たせすぎたようだ。寝室に目をやると、野島はすでに明かりを消して眠っているようだった。
キャットフードをトレイに入れ、ノブナガがおいしそうに食べるのを確認して、野島が来てからの俺のベッド、ソファに横になる。リビングの灯りを消して、目をつぶると静寂が部屋全体を覆い尽くした。
窓の外の遠くの方で、時間を間違えたセミが場違いな声を出しているのが聞こえる。別段聞くつもりもなかったのだが、一度耳に入った音は執拗に鼓膜を刺激して、眠気を奪っていく。しばらく目を閉じたまま横になっていたのだが、一向に眠れる気配のなかった俺は起き上がり、野島のいる寝室へと向かった。
ベッドの脇に腰を下ろすと、野島の寝顔がすぐそばにあった。
そっと髪に触れると、生乾きの髪がすこし指にまとわりついた。野島は小さく声を出すと、寝がえりをうった、顔がコチラに向く。その閉じた瞳には涙がにじんでいた。
「……なにが『エッチしようか』だ、バカ。未練たらたらじゃねぇか」
寝室を後にしながら、俺は少しだけこの旧友の精神状態が心配になった。
続く