言葉は考えて発しないと痛い目にあう
朝、愛猫のロシアンブルー、ノブナガに顔を舐められて起こされる。いつもの朝のおねだりだ。カーテンの隙間から朝日が差し込み、部屋を柔らかく照らしている。ノブナガが俺を起こすのは7時と決まっていた。
俺はいつものように、起き上がり、いつものようにノブナガの頭を撫で、いつものようにご飯を与える。
そして、いつものように歯を磨き、眠気で回転の遅い頭のエンジンをかける。
いつもと違うのは、俺が寝ていたのはベッドではなく、リビングのソファで、いつも俺が寝ているベッドには野島が堂々と寝ていることくらいだ。
昨日唐突にやってきた野島春奈は一方的に自分の主張を貫き、「あたしがいるからって、襲うなよ」と言い残し当たり前のように俺からベッドを奪った。
タオルで口元を拭きながらリビングに戻ってくる。俺自身、部屋をドアで区切るのが嫌いなため、部屋を仕切るドアは一切取ってしまっている。そのため、このリビングから野島の寝ている寝室は丸見えだった。
「おい、起きろ」寝室の壁をコンコンと叩きながら野島に声をかける。いつまで寝てるつもりだ、と。
「ん……あれ?」
のろのろとベッドから這い出した野島の第一声は「ここ、どこだっけ?」だった。
「お前、仕事は?」
家の中でドアで仕切ってある数少ない場所の一つ、脱衣所で着替えをして、朝食のトーストをかじりながらまだ眠そうにソファに座っている野島に訊ねた。
「ん~、今日は休みぃ……」
低血圧なのか、野島は起きているのかどうかも怪しかった。
「とにかく、俺はもう仕事行くけど、今日は家に帰れよ。合鍵置いとくから、これで鍵かけて、後で返しに来い」
合鍵をテーブルの上に置き、ソファで船を漕ぐ野島を横目に俺は仕事に向かった。もっと強く言ってやろうかとも思ったが、昨日の野島の泣き顔を思い出し、思いとどまった。それが俺にとって良かったのか、悪かったのかは、今の時点では知る由もない。
「それで? そのまま居座っちゃったの、野島さん」
なじみの定食屋で昼飯を食べながら、同僚の山田は目を丸くした。
山田とは子供の頃からの付き合いで、常に近くに居たため、当然野島の事は知っていた。まぁ、ある事情から、喋ることはほとんどなかったが。そのことは今回は省かせてもらう。
「最悪だよ。一体何のつもりなんだか」
ため息交じりに呟くと、山田はご愁傷さまと茶化すように笑った。
「笑い事じゃねぇよ、ちゃんと帰ってくれてればいいんだけど、あのままじゃ女の子を家に連れて行くことも出来やしない」
「それは特定の彼女を作らないでいつまでも身を固めない岩さんが悪い。この際だから岩さんも彼女作ればいいんだよ」
「はぁ? お前はいつからそんな偉そうなことを言うようになったんだ? 俺の性格を承知の上で言ってるのか?」
言いながら可愛い後輩でもある山田が幸せそうにしていることが嬉しかった。去年ようやく出来た彼女とうまくいっている証拠だ。
「で? どうするの?」
とんかつの横に盛られたキャベツの千切りを口に頬張りながら山田が訊ねる。
「どうするもなにも、帰ってもらわなきゃ困る」
俺はそばつゆにそば湯を入れて飲み干した。
「でもさ、なんで野島さんは岩さんの家に住む、なんて言いだしたんだろうね」
そんなこと知るか、と思いながら、昨日の野島の動転振りが頭に浮かんだ。
夏の夕暮れは遅い。時計の針は両方とも真下を向いてたが、太陽は未だに沈むまいと空に掴まって引きずり降ろされるのをじっと耐えていた。
オフィスのあるビルを出ると、近くの公園からセミの鳴き声が聞こえた。それでも昼間の大合唱を騒がしい協奏曲に例えるなら、今は幾分穏やかな夜想曲と言ったところか。
耳に張り付くようなセミの声を聴いていると、気が重くなって行くような気がした。
帰りの電車の中でも、駅から自宅へと歩いている時も気が気ではなかった。ちゃんと帰っているだろうか、いつものようにノブナガのお出迎えで気持ちいい帰宅となるだろうか。そればかりが心配だった。
自宅のあるマンションがだんだんと近づいていくにつれ、無意識に部屋のある辺りを目で探す。残念なことに明かりがついている。ということは野島がいるということか……無意識にため息が漏れる。
自慢じゃないが俺は女に困ったことは無い。この歳まで、いつだって気ままで楽しい生活をしていただけに、家で女が帰りを待っているという事実に身震いした。それが特に異性として好意を持っている相手じゃないことがさらに気を重くさせる。
「あ、お帰り、早かったね。岩崎君の仕事ってこんなに早く終わるんだ」
玄関のドアを開けるなり野島が明るい声を出した。
キッチンからは香ばしい匂いが立ちこめ、テーブルには様々な手料理が並んでいた。
「今日は一日暇だったから、料理作ってみたんだ」と、自慢げに話す野島を軽く無視してノブナガのお出迎えがないな、と辺りを探すと、満足そうな顔をしてソファで寝転ぶ灰色の塊が目に入った。
「あ、ネコちゃんのご飯はさっきあげたばかりだから、心配しないで」
知らない人からご飯をもらって満足そうな顔をするなよ、とノブナガを非難したくなるが、所詮猫は猫か、とあきらめが顔をのぞかせた。変わりに怒りにも似た感情が湧きあがってくる。寝室に見たこともない大きめのトラベルバッグを発見したからだ。
「お前……帰れって言ったよな、朝。なんで荷物が置いてあるんだよ」
「あたしの方こそ、昨日言ったよね、ここに住むって」
「俺は認めてない」
今度こそはっきり言ってやろうと口を開きかけたところで野島が「そんなことより、食べようよ」と茶碗を差し出した。
さぁ、食べよう。と箸を片手に笑顔を向ける野島に、俺は冷ややかな視線を送りながら右手を差し出した。
「何? あ、おかず? 何か取ろうか?」
「違う、鍵だ」
「カキ? 今日のおかずにカキは無いよ」
「違う、合鍵だ」
「愛か義? 何それ映画のタイトル?」
「バカ、違うって、朝渡した鍵だよ」
「若々した高木?」
「それはちょっと無理があるな。いいから返せ」
毅然とした態度で言い放つと、観念した野島はポケットから鍵を取り出し、渋々手渡した。
俺は鍵を受け取ると、どっと押し寄せた疲れに、大きなため息をひとつ吐き、「帰れ」と一言だけ言った。
野島は俯いたまましばらく黙っていたが、やがて消え入りそうな声で「帰る場所、無い」と呟いた。
「……あいつと3年付き合って、2年目から一緒に住んでた」
「でも、別れを切り出したのは彼氏の方なんだろ?」
「でも、追い出されたの『出て行ってくれないか?』って。あたし頭に来て、『出て行ってやるよ』って啖呵切って出てきちゃった」
思いがけずもう一度ため息が出た。どうしようもないなと思いつつ、このぶつけようのない怒りに頭の中の俺が「酒だ、酒を持ってこい」と暴れ出した。無性にのどが渇いて、何か飲むものは無いかと周りを見るとお椀に注がれた味噌汁が目に入る。こんな物でも無いよりはましか、と一口すすった。
「……うまいな」思いがけず本音が零れた。お世辞でも何でもなくホントにうまかった。
「ホント?」目を輝かせて野島が訊ねる。
「ああ、これならいい嫁さんになる」
言った途端空気が張り詰めて心臓が縮こまった。しまったと思った時にはもう遅く、恐る恐る野島の顔を見やるとすでに涙をためていた。
「ひどいよ……今のあたしにそれ、言っちゃうんだ」
あふれる涙を目いっぱい溜めて野島はあからさまな非難の目を向けた。
これほどバツが悪い事があるだろうか、とはいえ、言ってしまった俺が悪いのは百も承知だ。口の軽い俺は、昔からこうしていらぬことを言っては、数々の女から非難され、蔑まれ、恨まれ、時には殴られた。
人間って、成長しないな。としみじみ思う。のは俺だけか?
「悪かった、今のは失言だった。謝るよ。ゴメン」
自分の非を認め、真摯に謝る。素直にこうすることが出来るようになっただけでも、ちょっとは成長してるかな。
「じゃぁ、」野島は涙をぬぐうと怪しく目を光らせ「悪いと思うなら」と続けた。
先が読めるだけにその先は言わないでほしかった。今の俺に断る資格はあるのか?
「ここに住まわせてよね」……やっぱり言われた。
普段信じてもいない神様に訊ねたくなる。これは罰ですか? いままで散々好き勝手やってきた俺に神様が怒って罰を与えているんですか?
どうか教えてくれ、この状況をどうやったら良いものに変えられるんだ?
断ることも出来ずに押し黙る俺を見て、したり顔で見つめる野島が恨めしかった。
続く