時間は頭を悩ませる
「あたし、たぶん移動になると思うんだ」
朝になり、素肌の上にシャツを着ただけの姿で軽い朝食をとっている最中、ぽつりと野島が呟くように言った。ホットミルクを息をかけて冷ましながら、だ。
「移動? 転勤するってことか?」俺はトーストを食べるために空けた口でトーストを入れる前に訊ねた。
「うん。まだ本決まりじゃないんだけど、もしかしたら来月か再来月辺りには」
あまりにもこともなげに、さらりと言うものだから、俺も大して驚くこともなく「何処に?」と訊けた。
「福岡。博多の方にお店オープンするらしくて、その店長にってさ」
「博多、ね」
頭の中で博多のイメージをしてみる。明太子? キャナルシティ―? 中州? などの有名どころは出てくるものの、そこがどんな街なのかは想像できなかった。東京~九州間の漠然とした距離だけ、大体1500キロくらいと浮かんだ。
「で? 行くの?」
「そりゃ、ね。行くよ」
「そっか」
朝食を食べ終わり、帰る前にシャワー浴びてこ、と立ちあがった野島のシャツの裾からキレイなお尻が見えて、思わず目をそらした。さっきまで、さんざん見ていたにもかかわらず、改めてみるとなぜか赤面する。高校生か、と頭の中の俺が笑った。
シャワーを出た野島は、淡々と支度をして、「じゃあね」と笑顔を見せて帰った。
俺も俺でさっぱりしたもので名残惜しい、とかもう少し一緒にいたい、なんてこともなく「ああ、またな」と言って見送った。
やっぱりな、と案の定抑えてしまった感情を思って、苦笑した。寝室に残る昨日の熱さの余韻が妙に滑稽だった。
なんとなく気恥ずかしさを覚えてベッドを直す。その際、ふわりと舞った匂いが一瞬だけ昨日のような熱い想いをよみがえらせたが、すぐに匂いと共に消えた。
さて、どうするか。とソファに腰をおろし、休日の予定を立てるために、というか遊ぶ仲間を探す為に携帯を開く。山田を無理やり誘うのもいいし、三浦と篠原のデートを邪魔するのもいい。どうせ一人でいるであろう吉田を飲みに誘ってもいいし、最近始めた、という聡美の料理勉強に付き合うのも悪くない。
携帯のアドレスをスクロールさせながらかける相手を探していると『野島』の名前が目に入った。「移動になると思う」と言った言葉が頭に響く。
どうして今日それを言ったんだ。昨日『何かあったのか?』と訊いた時に『別に』と言いながらも何か言いたげな顔をしていたのはそれを言うべきかどうか迷っていたからなのか。
携帯を開いたまま、スクロールさせる指は止まっていた。
昨日何度も互いを求めあったのはいつか会えなくなるからだったのか?
思考が鈍くなるのを感じると瞼が重くなっていることに気付いた。ああ、そう言えば寝てないんだっけ。眠気を感じると、もう抗うこともできず、するりと携帯が手から零れた。
ソファに引き寄せられるように体を倒すと、体が沈んでいくような感覚に落ちて行った。
「古典?」俺は聡美の口から飛び出た言葉の意味を理解できずに訊き返した。
昨日はソファで眠ったきり、まるで起きることなくそのまま今日の朝を迎えた。野島のことを頭の片隅に重りのように残しながら出勤すると、聡美がにやけ顔で呼びつけたのだ。
「そう。個展。あたしたちの仕事をしてるとさ、自分の作品で個展を開くのって夢じゃない」
「ああ、個展ね。それで?」
「だから、拓実のデザインしたインテリアで個展を開かないかって話が来てるの」
「へぇ、そりゃモノ好きがいたもんだ」と軽口を叩きながら一方で高鳴る鼓動を必死に抑えていた。
俺の作品で個展を開くこと自体信じられない。それほどの仕事をしてきたという自信すらないのだから、まさに寝耳に水ってやつだ。
「どう? やるならあたしの方から返事しとくよ。まぁ、うちとしてはオフィスの名前に箔がつくからやってほしいんだけどねぇ」
考えさせてくれと言うと、聡美はもちろんちゃんと考えた方がいい。と返事を少し待ってくれた。
「もしやるとしたら、話し合いも含めて年内いっぱいは、そっちにかかりきりになるだろうから、そのつもりでね」
唖然としたままデスクに戻ると、嬉しそうに山田に肩を叩かれた。山田はまるで自分のことのように喜んでいる。
「だって個展だよ、個展。いいなぁ、俺もやってみたい」
「バカ、喜び勇んで個展なんか開いて、誰も来なかったらどうすんだよ、いい笑い者じゃすまねぇんだぞ」
「そんなことないって、主催者側だって、ちゃんと客が取れるって計算があって話を持ってきてるんだから、もっと自信持ってよ。岩さんらしくない」
簡単に考えやがって、と山田に一瞥をくれながら、どうせやることもない俺は、一日考えることにした。野島のことを考えてる場合じゃないな。
「どう? 決まった?」と聡美が声をかけてきたのは、すっかり日も傾いた午後4時過ぎだった。
遠巻きに見ていた他のメンバーが、ずっと腕を組んだまましかめっ面をしていた俺を機嫌が悪いと勘違いして、一時騒然となったことを除けば、しっかりと考える時間があった俺は、一応のまとめを得るまでには至っていた。
「担当と話をさせてくれないか? やるかやらないかはそれからだ」
聡美は、了解。と二つ返事でOKした。まるで俺の考えを知っていたかのようなそぶりに、怪訝な目を向けたが「拓実ならそう言うと思ってた」と言われて、何も言えなくなった。さすがに付き合いが長いだけの事はある。
向こうの対応は思いのほか早く、2日後には話し合いの席が設けられた。この企画を提案したのは若い女性で、木ノ下と名乗った。名刺にはイベント企画室の名前と共に、本人の座右の銘が書かれていて、それが『考えるよりまず実践』という言葉だったのが、自分の考えに似ていて、好感が持てた。
「実は、私岩崎さんのファンなんです」
席に着くなり木ノ下は高揚した面持ちで声を弾ませた。
「友達が岩崎さんのデザインしたインテリアを持ってて、それを見たときにこれだって思ったんですよ」
彼女は逸る気持ちを抑えられないと言った感じで矢継ぎ早に言葉をつないだ。
「私も出来れば岩崎さんに仕事をお願いしたかったんですけど、なにぶん、うちの会社のお給料じゃそこまでに至らなくて――」
「ああ、そうですか」彼女の勢いに圧倒されてあいまいな返事になる。
「ていうか、仕事上デザインの方もやりますけど、俺の本業はコーディネーターなんです。それでも良いんですか?」
「もちろんです。今回は個展の為に何点か作っていただくことになりますけど、コチラの方はよろしいですか?」
「いや、まぁ、作るのは構いませんよ。具体的にどれくらい作ればいいんですか?」
「そうですね……」と木ノ下は鞄から書類を数枚取り出し、パラパラとめくってテーブルの上に広げた。
「今回、もしやっていただけるのであれば、うちとしてはコチラの会場を用意いたします。作っていただきたいのは、大物の家具も含めて、十四、五点くらいですね」
見せてくれた書類には小さいながらも、有名デザイナーも個展を開いたことのある、そこそこ名の通ったギャラリーが写真付きで載っていた。
「で、期間なんですが――」考える間もなく、彼女は話を進める。さすが『考えるよりまず実践』を座右の銘にするだけのことはある。
「ギャラリーの都合で12月の中旬から1週間ほどになります」
彼女のテンポの良い話を聞きながら、俺の考えはやる方向で固まって行った。
やると決めたからには、すでに時間に余裕はなく、俺はオフィスに戻るなり作品のデザインに取りかかった。隣で山田が親指を立ててニヤついていたが、眼だけで答えてパソコンに向かう。今までに作った作品を何点か使うにしても、十五点にはとどかない。急がなくては。
あれ以来野島から連絡がないことが救いだった。気にならないと言えば嘘になるが、今は自分の仕事に集中するしかない。
それから2週間ほどは順調に進んだ。作品のデザインも滞ることなく7点まで描きあげたのだが、8点目で問題が起きた。これが最後、という所で頭がアイデアを出すのを拒否して、手が止まってしまったのだ。
こうなると、前世の行いによる呪いとも思える邪魔が入ってくる。
野島はどうしただろう、と考えてしまったのがいけなかった。それまで考えないようにしていたことを、頭の中の俺がここぞとばかりに攻め立ててくる。いいのか? と。
「あれからもう2週間以上経つんだぜ」頭の中の俺が耳元で囁いて、思考を停止させる。パソコン画面に向かったまま、マウスに乗せた右手は固定されたように動かない。
「お前は本気だったんだろ? 今までのどんなセックスよりも気持ちよかったじゃねぇか」
うるさいな、今はそれどころじゃねぇだろ。急がなくちゃ。時間がない。
「野島がホントに移動するのか気になるんだろ? いいのかよ連絡しなくて」
忙しいんだよ。これが終わったら作品の制作、その後、案内状作って、打ち合わせ、ポスターの作成までしなくちゃいけないんだ。時間がないんだよ。
「いいのかよ、後悔するぜ」うるさい、うるさい。
「あ、そ。ホントにいいんだな? 今連絡しないと手遅れになるかもしれないぜ」
その言葉を最後に頭の中の俺は黙り込んだ。いや、実際頭の中の俺と言っても、俺自身のことなのだから、自分の意思でどうにでもなるのだ。結局は自問自答しているだけのことであって、こうと決めたらそれ以上はない。たとえ心にでっかい重りを残したとしても。
続く