秋の夜長は一時心を素直にさせる
玄関を開けると、明かりが点いていた。朝出るとき消し忘れたわけでもなく、アホな泥棒が明かりを点けて部屋を物色しているわけでもなく、ダイニングテーブルに空になったビールの缶3本と共に野島がいた。すっかり秋も定着した夜に、それは合鍵を渡して、初めてのことだった。
「よ、お帰り」と右手を上げる。膝にチョコンとノブナガを乗せて、そこに居るのが当たり前のようダイニングテーブルに座っている。すでに多少顔が赤い。人の酒を勝手に3本も飲めばそりゃ赤くもなるだろうよ。
「お前な、ここは『来ちゃった』とか言って頬を赤らめる所じゃねぇのか」
「えへ、来ちゃった」野島はとってつけたように可愛らしい仕草をして見せた。
「もう遅い。それに顔が赤いのは酒のせいだろう……ったく、勝手に飲みやがって」
「ごめんねぇ。なんだか飲みたくてさ。岩崎君帰ってくるの遅いんだもん」
あはは、と笑う野島に大げさにため息をつきながら荷物を寝室に放り投げて、冷蔵庫からビールを取り出した。
「どうした? 何かあったのか?」
野島の正面に座り、缶を開けて、乾杯を促す。野島も缶を持ち上げて、チョンとぶつけた。
「ん~いや、別に」
「あ、そ」
野島の顔は笑顔こそ作ってはいるものの、何か言いたげなのはありありと解った。が、あまり深く詮索はせずに俺は「飲むか、お前に飲まれちまったワインも買ったしな」とワインラックを開けた。
「ああ、あのワインまた買ったんだ。おいしかったんだよねぇ」
「開けるぞ。お前明日仕事は?」
ワインを取り出して、キッチンへワインオープナーを取りに行く。
「明日は休み」野島はなれた感じで食器棚からグラスを2つ取りだした。
「じゃあ、朝まで付き合え」
俺はコルクに螺旋の先端を当てながらにやりと笑った。
「やっぱりおいしいね」野島はワインを一口飲むと声を弾ませた。
「ね、って言われてもな、俺は初めて飲むんだよ。まぁ、でも確かに、うまい」
グラスの注がれたワインは淵に滑らかに張り付き、淡い色を放っていた。口の中に広がる余韻はほのかな酸味を残して、かぐわしい香りが鼻を抜ける。
「やっぱり開けて良かった。なかなか踏ん切りがつかなくてな」
「そんなに高いの?」野島は不思議そうにグラスを回して中の液体を見つめた。
「バカ、これ一本でハワイまでいけるぞ」
「ええ? そんなに? ……ごめんね」
いまさら、というか、値段を聞いた野島は申し訳なさそうに頭を下げた。
「気にすんな。こうして今飲んでるわけだし。うまいのは確かだ」
俺はグラスに残ったワインを一口に流し込んだ。
「こうして差し向かいで飲むのも、悪くないね」
ワインのボトルを半分ほど空けたところで、野島はグラスに残ったワインをくるくると回しながら呟いた。
「新しい部屋には慣れたのかよ」
先週かかってきた夜中の電話を思い出し、なんとはなしに訊ねる。無意識に時計が目に入り、1時か、と思った。
「ん~……」野島は考え込むでもなく間延びした声を出すと、グラスの中に何かを映すようにじっと眺めながら「しばらく一人で住んでなかったからさぁ」と目を細めた。
自分を嘲笑するように笑みを零す。左手であごを支え、ぼんやりとグラスを眺める姿はどことなくさみしそうに見えた。
さみしいんなら帰ってくればいい。と出かかった言葉をワインで押し流す。その言葉はきっとお互いがのぞむ言葉じゃない。
「要は一人でいると暇でしょうがないんだろ?」
「そうなんだよね~。この年になるとさぁ遊んでくれる友達も少なくて」
こうしてお互い本心を隠して冗談を言い合う。2人にはこのくらいの距離がちょうどいい。きっと野島も同じなのだろう。求めるものは恋人じゃなく、一緒に居て楽しい友達だ。
「すっかり暑さも弱まっちゃってさ、この時間になると寒いんだよね」
「一人で寝るのが、か?」と意地悪く訊くと、野島は、そうだよ。と言って軽く腕を振った。
「秋ってさ、暑さが終わって、冬が来る前の少ししか期間がないじゃん。本格的な秋ってせいぜい一か月くらいでしょ。だからさ、なんか物悲しくさせるんだよ、人の心を。このままでいいのか? って、早くしないと終わっちゃうぞって」
「何が終わっちゃうんだよ。何も終わらないよ。今日が終われば明日が来るし、冬になったって、すぐに春が来る。そういうもんだろ」
「解ってるんだけどねぇ」
そう言ってぼんやりと空のグラスを眺める野島は恐らく、元彼を思い出しているのだろうと思った。ともすればまた泣きだすのではないかと心配させるような遠い目をしている。
「早いよね。時間が経つのって」
「そうだなぁ。いつの間にか十月だもんな……あれからもう2カ月かぁ」
「あれからって?」
何の考えもなく口から出た言葉にハッとする。野島に訊き返されてさらに逃げ道を失った。酔ってるのか俺は。
黙ったままやり過ごせないかと、しばらくグラスを回してみたり、ワインの残りを確認してみたりと、色々試してみたが、野島はよほどさっきの言葉が引っ掛かったのか「あれからって何?」ともう一度訊き返した。野島も酔っているのだろうか、まっすぐに見つめる瞳は潤んでおり、奥には熱っぽいものを感じた。
「……お前が出て行ってからだよ」
こういうときの男は弱い。女にまっすぐに見つめられて平然と嘘をつける男なんてそういるもんじゃないし、そんな男は男の風上にも置けない。俺は野島の目を見つめ返し、まじめに答えた。
いつもならどちらかが、たまにまじめに話しても冗談で返すのが俺たちの会話だったのだが、ワインがうまかったせいか、はたまた秋の夜が長いせいか、野島は「そっか」と恥ずかしそうに目をそらした。
これはきっと肌寒いせいだ。と熱くなった気持ちに内心で言い訳をしながら、テーブルの上に置かれた野島の手に触れた。きっと秋の夜長のせいだ。
野島は重ねられた手を一瞬強張らせたが、すぐに緊張を解き、顔をコチラに向けた。
「……酔ってるからか?」
「かもね」
嘘つけ、と内心で呟く。お前がこれくらいで酔うものか。まだ中身の残ったボトルがテーブルの真ん中で蛍光灯の明かりを反射している。
それ以上の言葉もなく、お互いに唇を重ねた。一度触れ合うと、どちらからともなく互いの唇を求める。長く、熱いキス。
熱い吐息を洩らしながら、なおも絡みつく二人の舌を一度離すと、野島の濡れた瞳がゆらゆらと揺れた。もう止まらない、と思った。きっと、もうずっと前からこうしたかったんだと思い知る。遊びのセックスじゃなく。これはまぎれもなく本気のセックス。
何も言わずとも足はベッドにおもむき、俺は野島の腰に優しく手を回し、仰向けに寝かせた。
「意地悪だなぁ、岩崎君は」そう言うと、野島はキスして、と両手を広げた。
「バカだね。あたしたち」
野島は隣で火照った身体を冷ます夜の冷え込みを肌で感じながら、一方で腕をからませてくる。
「そうじゃねぇよ。きっと自然な流れってやつだ」
俺はさっきまでリビングから差し込む光を淡くうけながらベッドの上をはねるように絡み合った野島の肌を思い出していた。
「そう? 良いのかな、あたしたちこういうことして」と言って野島は体を起こし、いたずらを仕掛ける子供のような笑みを浮かべて馬乗りになった。前かがみになり、垂れた黒髪の隙間から、形のいい胸が見えた。
「お前自分で思ってるほど貧乳じゃないよ」
「……スケベ」
互いの瞳にまだ熱が消えてないことを確かめると、吸い込まれるように唇が重なる。いつから抑圧していたのか解らないが、解き放たれた感情は失った時間を取り戻そうと、とめどなくあふれた。きっと朝になればまた抑え込んでしまうであろうこの気持ち。なら今だけでも。せめてこの長い夜が終わるまでは自分の気持ちに素直に。そう心で呟きながら俺は力いっぱい野島を抱きしめた。
続く