呉越同舟
「機動艦隊物語」と「小林愛子統合航空軍少尉 ─ 日傘と参考書と戦況図 ─」を結ぶエピソード
昭和十八年五月二十日
多摩陸軍飛行場 東京府
この飛行場は、昭和十五年四月一日に陸軍の新鋭戦闘機を筆頭とする各種航空兵器の審査を行う官衙である飛行実験部が、立川より多摩に移転したのが始まりとされる。
今次大戦勃発後の昭和十七年十月十五日には、飛行実験部は拡充改編され、陸軍航空審査部となった。
五月の薫風の中、格納庫前では試験用の機体の発動機が点火される。しかしそれはすぐに黒煙を上げ、異音が響いた。発動機は緊急停止され、機付きの整備兵がわらわらと機体に集まる。
その光景は審査部の日常であり、殊更話題にするようなものでもない。
そのような喧噪の中、参謀肩章を吊ったひとりの軍人が歩を進めていた。彼のいで立ちは陸軍にはそぐわない、異質なものであった。
そんな彼は格納庫前の様子に一瞥もくれず、真新しい施設へと入って行った。
……開戦から二年目のこの日、飛行場に付属する仮設の施設では、飛行場開設以来、最も活発な動きを見せていた。
陸軍の野暮ったい制服だけではない、立襟の一種軍装に身を包んだ海軍軍人の姿も数多く見られる。
先ほどの参謀もそのひとりであった。
海軍少佐・草加拓海は書類鞄を携え、執務室の扉を開けた。
同じ施設内で陸海軍の軍人たちが共に任務に当たる様子は、どこか奇妙な光景だった。
後年、「陸海軍相争い、余力を持って米英に当たる」とまで言われた彼らの対立。ここでは一旦矛を収めた、ように見えた。
とはいえ、和気あいあいという雰囲気からは最も遠い地点にあった。草加少佐の報告を受けた陸軍の中佐が草加少佐に指示を出す。草加は海軍中佐には絶対に出さぬ態度で陸軍中佐に反論を試みる……。
その様子には呉軍と越軍がまみえたような緊張感があった。
・・・
数日前、日本軍事機構においてふたつの組織が設立された。
ひとつは「海上護衛総司令部」だった。
少しずつ、だが確実に被害が増大する帝国の海洋通商路。これの護衛を専門におこなう部隊が、海上護衛総司令部だった。
初代司令長官には及川古志郎大将が親補され、彼の指揮の下、南方資源地帯からの物資を一バレルでも、一グラムでも多く持ち帰るための施策が打ち出されていた。
・・・
問題はもうひとつの組織についてである。
前者は極端な話、海軍部内での組織改編だったが、こちらは陸軍を巻き込んでの、大規模な機構改革とも言えよう。
事の始まりはソロモン・ニューギニアの戦いだった。
海軍は機動艦隊のほか、水上艦隊をも投入して彼の地の制海権を確保しようとする。
問題は幾度かの海戦の後、機動艦隊の戦力を再編するときに生じた。
数か月が経つと、ある程度の母艦航空隊が実戦投入可能となった。それを陸揚げし、基地航空隊と共にソロモン・ニューギニアの制空権争いに加入させようとする議論があった。
それに反対したのが山本五十六聯合艦隊司令長官だった。
彼に言わせるならば、母艦航空隊は決戦兵力である。それを持久戦とも言うべき戦いで消耗してしまえば、肝心の決戦における勝利が覚束なくなってしまう。
山本の言にも一定の理屈があった。帝国海軍はすでにマーシャル沖海戦で大勝を納めている。そんな彼が「再びの勝利」に固執するのも無理はなかった。
しかし同時に、南東方面の日本陸軍と日本海軍の間にも問題があった。聯合艦隊と第八方面軍(司令官今村均陸軍中将)の関係は険悪で、ラバウルの南東方面艦隊と第八方面軍の関係も険悪であった。
現地を視察した軍令部作戦課長山本親雄大佐は「南東方面艦隊は第八方面軍司令部に対して全然信頼していない。あれではニューギニア作戦も覚束ないであろう。道路は何等着手していないし、ニューギニアに対する認識不足であり、中央も楽観しすぎている」と報告した。
昭和十八年二月二十日、第八方面軍の今村司令官はトラック泊地の聯合艦隊司令部の山本五十六大将を訪ね、南東方面における陸海軍協同作戦について懇談している。
日本陸海軍の戦闘機が護衛するとはいえ、第八方面軍は不安を抱えたまま「全般的作戦の要請上断固として」やむをえず護衛作戦を決行した。
三月三日、後にビスマルク海海戦と呼ばれる戦いで、日本軍輸送船団はダンピール海峡で連合軍の大規模空襲を受け、輸送船八隻と駆逐艦四隻沈没という大損害を受けて作戦中止に至った。
ビスマルク海海戦の結果は、天皇を含め日本陸海軍各部に多大なる衝撃をもたらした。大本営陸海軍部は直ちに対応を協議したが、あくまでニューギニア方面重視の方針は堅持することになった。敵制空権下での輸送は困難を極め、重要問題となる。
軍令部作戦課長山本親雄大佐によれば「母艦航空隊と基地航空隊を完全に分離し、同時に陸軍航空隊と基地航空隊の合同──山本さんが思いついたのはこの時だったのだと思います」という。
昭和十八年三月に発令された第三段作戦帝国海軍方針と、同時期に日本陸軍との間に取り決められた陸海軍中央協定で、春以降の方針としてニューギニア方面を重視していくことを確認した。
同時に、南東方面の航空作戦を手始めとする、陸海軍合同航空部隊の発足も決定した。
ラバウルに司令部を置く第八方面軍はニューギニア方面作戦に懐疑的・消極的だったが、大本営陸軍部は方面軍の懸念を押し切る形でラエ、サラモア方面に対する攻勢を指導した
新組織は正式な発足の前に実働し、憲法の制約上、法の建て付けとして大本営直下に属することとなる。
「陸海軍基地航空隊の合同による資源と作戦効率の強化」
お題目としては正論である。しかし、それを実現するために必要な施策は山程あった。
「総論賛成、各論反対」の情勢下、なおも山本は新組織の立ち上げに尽力した。
同じ「飛行機をあつかう部隊同士の合同」と言っても簡単にまとまる訳ではない。
陸海軍で操縦法も、操縦員の教育課程も、なんとなれば燃料のガソリンのオクタン価も異なっていた。
それを将来的に統合すると言っても、誰がどこを妥協し、どこを譲らないかで意見が割れた。
何より今は国運を賭けた大戦争のただ中である。「何故今、このような改革を?」と言う問いかけが山本に投げかけられた。
山本は「今は米英に勝利するのが最も重要な課題である。そのために必要な方策を『今』取らぬしていつ取るのか?」と述べた。
重ねて彼は訴える。「いつかは米軍も進攻作戦を再開するだろう。その時に、我が母艦航空隊が消耗してしまっては意味がない。ソロモン・ニューギニア方面はあくまで、陸海軍合同基地航空隊が制空権を確保するのだ」
最終的に、恒例の「責任は誰が取るのか」式の議論が沸き上がる。そうした議論に、山本は莞爾として応えた。
「なんてことはない。俺が取るよ」
彼にしてみれば、米国との決戦に勝利し、どうにかして講和に持ち込むのが最重要だった。
それに比べれば、聯合艦隊司令長官の立場など惜しくはなかった。
彼が断念したのは、「第三の軍」としての「空軍」設立についてのみだった。
帝国憲法では「天皇ハ陸海軍ヲ統率ス」とある。そこには「空」の文字はない。これを解釈改憲するには、流石に無理があった。
そこで、大本営に陸海軍の基地航空隊の指揮権を「差し出す」という形にし、機構上の決着がついた。
そうして彼は、地位と引き換えに陸海軍合同航空総司令部の設立をもぎ取る。司令部は多摩陸軍飛行場内に置かれ、司令官には安田武雄陸軍中将、参謀長には塚原二四三海軍中将が親補された。
こうして生まれたのが「航空総司令部」、通称「統合航空軍」だった。
実際には大陸では陸軍航空隊がほぼそのまま残り、南東方面では主に海軍基地航空隊が主軸を担うこととなった。
・・・
草加少佐は自身の執務机に戻ると、書類の束を拡げた。
──調整、調整、また調整だ。しかし、放っておいても状況は絶対に好転しない。またラバウルまで打ち合わせに行かねばなるまい。それまでに、改革案をまとめておかねば、な。
彼はため息をひとつつくと、鉛筆を取り出し、作戦遂行に必要な資材や人員について思索を重ねた。
実のところ、彼らが本領を発揮するのは、もう少し先の話となる。
それを語るには、今少しの時間と、幾度かの決戦を経てからのことになろう……。
山本が聯合艦隊司令長官職を辞し、古賀峯一大将へ後事を託したのは、昭和十八年四月十八日のことだった。
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