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捨てた婚約者が格上になって戻ってきたら敗北する話

作者: リーシャ
掲載日:2026/09/11

 凍てつく冬の日の出来事だった。婚約者、侯爵家の嫡男であるヒース・ノイマンとは幼い頃からの付き合いで、社交界でも理想のカップルと謳われていた。

 ティティリエの父が没し、リンドバーグ家が経済的に不安定な状況に陥ったときも、優しく支えてくれた。優しさは太陽であり救い。しかし、太陽は沈むことを知っていた。


「ティティリエ。君との婚約を解消したい」


 ティティリエの邸宅。愛を語り合った温室の中で放たれた。降り注ぐ午後の日差しがヒースの端正な顔立ちを照らしていたが、瞳には何の感情も映っていなかった。事務的な冷たい色だけがそこにある。

 ガラスの器が床に落ちて砕けるような音を立てた全身から、血の気が引いていくのが分かった。


「え、ヒース……え?何を、言っているの?」


 喉から絞り出された声はひどく掠れて他人事のように聞こえた。目の前の現実があまりにも非現実的で、頭がそれを拒否している。


「何を、ではない。事実を述べている」


 動揺を気にする素振りも見せない。白い手袋をはめた手を軽く振り、その場に立っている侍女に合図を送る。侍女が持ってきたのは、美しい刺繍が施された絹の箱。中には左手薬指で七年間輝き続けた、ノイマン家に伝わるサファイアの婚約指輪があった。


「理由を聞かせて……私たちの、私たちの愛は、どこへ行ったの?父の病のとき貴方は……」


 瞳に涙が滲む。愛している。言葉を何度も囁いた声がまだ耳の奥で響いているのに。どうしてこんなにも簡単に過去の全てを否定できるのだろうか。

 ヒースはため息一つさえつかず、淡々と市場の相場を語るように続けた。


「君は優秀で美しい。だが、リンドバーグ家は今、脆弱すぎる。君の義兄が起こした失態で家の名誉は地に落ちた。ノイマン家は次期当主の配偶者として盤石な後ろ盾を必要としている」


「盤石な……後ろ盾?」


「そうだ。実は……私はもうすぐ、クロフォード家のマーガレット・クロフォード嬢と婚約する」


 名前を聞いた瞬間、ティティリエの視界は白く染まった。マーガレット・クロフォード。新興貴族の令嬢で父は莫大な富を持つ大商会を経営している。リンドバーグ家とは違い彼らは今、王国の経済を支えると言っても過言ではない巨大な金の力を持っていた。


「ああ……そう、だったのね」


 頬を一筋の熱い涙が伝った。悲しみの涙ではなかった。心臓が握り潰されるような、絶望的な喪失感と裏切りに対する痛切な悲嘆。

 自分を支えてくれた優しさが愛ではなく、利用価値に基づいていたことを今、悟ったばかり。胸が痛くて痛くて張り裂けそう。


「貴方は……私の、父の病の時、私を慰めてくれた。ノイマン家にとって都合の良いリンドバーグ家の利用価値がまだ残っていたから?」


 唇を強く噛み締めると血の味がした。痛みが、かろうじて意識を現実につなぎ止めている。ヒースは表情を変えず頷いた。


「ノイマン家の為だ。理解してほしい」


 理解?心臓が引き裂かれるような痛みを理解しろと?

 震える手で侍女が持つ箱の中の指輪を見た。


「指輪……要らないわ」


 はっきりと言い放った。


「貴方の偽りの愛の証など汚らわしい。貴方が本当に愛していたのは私ではなく、リンドバーグ家の資産。資産が消えた今、貴方が愛するのはクロフォード家の財力。愛など貴方にとっては都合の良い道具でしかないのね」


 指輪に手を触れなかった。


「もう二度と私の前に現れないで。顔を見るだけで人生の、七年間の全てが偽りだったという事実に耐えられない」


 瞳からとめどなく涙が溢れ落ちた。涙は美しくも純粋な愛が無残にも踏みにじられた証。

 ヒースは悲痛な叫びを最後まで聞いていた。ただ一言。


「承知した」


 温室を出て行ったあとに残されたティティリエは、その場に崩れ落ちた。周囲に広がる花々の甘い香りが心に染み込んだ裏切りの苦さと混ざり合い、吐き気を催させた。

 七年間。全てを捧げた七年間。顔を覆い、声を殺して泣いた。泣き崩れる背後にあったガラス窓は砕け散った心のように虚ろな光を反射する。


 ヒースが去った後、ティティリエはどれほどの時間、温室の冷たい床に座り込んでいたのか分からなかった。太陽は傾き、ガラス越しの光は赤から紫へと変わり、やがて夜の闇が全てを覆い尽していたから。


 悲しみは失恋の痛みではなく、人生の基盤が崩壊したことによる途方もない恐怖と喪失感。父を亡くし、家が傾きかけたとき、ヒースだけが錨だったのに錨が荒れた波のただ中で、自ら錆び付いて崩れ落ちた。


「わ、私には……何も、何もない」


 リンドバーグ家には名誉と先代から受け継いだいくつかの不動産が残っていたが、実質的な稼ぎ手はいなかった。

 義兄という兄の妻の連れ子は父の死後、家の事業を拡大しようと無謀な投資を行って逆に多額の負債を抱え込んでいる。状況がヒースが見限る決定打となったのは明白だろう。


 その夜、ティティリエは一睡もできなかった。寝台で横になっても天井に映るのはヒースの冷たい顔と、盤石な後ろ盾という存在を否定した残酷な言葉だけ。

 翌朝には腫れ上がった目で鏡にあり、映っていたのは憔悴しきった冷たく凪いだ目を持つ女性。涙は一晩で枯れ果てていた。


「泣いても何も戻らない」


 自分自身に言い聞かせた。ヒースは、愛などという不確かなものではなく、力と財力だけを求めていた。悲しみに沈んでいる間にも新しい婚約者であるマーガレット嬢と、ノイマン家の未来を語り合っているだろう。


 その考えが悲嘆を怒りへと変えていく。義兄夫婦は婚約破棄を知ると責め立てた。


「ティティリエ!どうしてヒース様を引き止められなかったのだ!ノイマン家の支援があれば、我が家の借金は返せたかもしれないのに!」


 義兄は怒りに任せて声を荒げた。


「そうよ、ティティリエ様。令嬢教育を受けてきたはず。どうして、たった一人の男性の心をつなぎとめることさえできないの?」


 義姉は上辺だけの心配を装いながら、非難の視線を浴びせた。心など微塵も気にかけていない。気にしているのはリンドバーグ家の財政破綻という現実と回避する唯一の手段だったヒースという道具を失ったこと。


「貴方たちはヒース様を家を救う道具として見ていた。ヒース様も利用できる道具として見ていた。愛という幻想は必要ないわ」


 低い感情のない声に義兄夫婦は一瞬ひるんだ。これまでの控えめで優しいティティリエとは違っていたからだ。


「これ以上、ノイマン家のことを話さないで。婚約は意思で終わらせた」


 嘘だったが言わなければ自尊心は完全に砕け散ってしまうだろう。

 ノイマン家との関係を一切断ち切るために動き始め、自分のわずかな個人資産を洗い出して父から受け継いだ宝石や美術品を隠し持った。


 義兄が家を継ぐ際に相続した分の不動産だけを切り離す準備を始めた。悲しみを心の中で冷凍保存するかのように感情を押し殺したまま、実務的な作業に没頭する。


 ある日、父の書斎で古びた手帳を見つけた。事業の傍ら趣味で経済動向を分析していたメモ。生前、リンドバーグ家の古い領地の一つ、サザークの土地について記していた。

 サザークは辺境にあり、利用価値はないとされてきたが、近年の地質調査の結果、もしかしたら貴重な鉱物が眠っている可能性がある。義兄には土地の調査をまださせていない。リンドバーグ家再興の鍵はここにあるかもしれないと、心臓が微かに跳ねた。


「これだわ」


 婚約破棄されたのはリンドバーグ家の後ろ盾が脆弱になったからというのならば、ノイマン家やクロフォード家を凌駕するほどの力と財力を持てば選んだ道が、愚かで近視眼的なものだったかを理解させることができる。復讐ではなく父の家を価値がないと切り捨てた者たちへの壮大な反論。


「貴方が見捨てた、力を持った女になる」


 サザークの土地に関する資料を全て集め、信頼できる弁護士と、父の代から付き合いのある地質学者を秘密裏に手配した。義兄夫婦には病気療養と偽って、しばらく田舎の別邸へ引きこもることを伝える。


 悲しみに打ちひしがれる姿はもうどこにもない。



 ティティリエが向かったサザークの別邸は、侯都から遥か離れた、寂れた場所にあった。周囲は岩山に囲まれ、冬の寒さが長く居座る辺境の地である。


「こんな場所に本当に希望があるの」


 別邸の重い扉を開けたとき、ティティリエは一瞬、心が折れそうになった。都会の華やかさとは無縁の、薄暗く埃っぽい空間。

 しかし、この場所こそがヒースが愛を捨てて選んだ財力に対抗するための最後の砦だと知っている。病気療養の名目でここに引きこもったため、使用人は最小限に抑えて侯都での華美な生活とは決別した。


 残されたのは父の残した手帳、信頼できる地質学者の老教授、数少ない忠実な使用人だけ。


 ティティリエは、貴族の令嬢としての着飾った服を脱ぎ捨て、動きやすい簡素な服に身を包んだ。老教授と共に険しい山道を歩き、父が記した地点の地質調査に自ら立ち会った。


 当初の調査は難航した。父の分析は古いもので、目に見える成果はすぐには現れなかった。老教授は慎重で、「価値ある鉱物は、そう簡単には見つかりませんから長期戦になります」と告げる。

 焦りと不安がティティリエの心を締め付ける。もし空振りだったら?残された道は義兄夫婦の支配下で、侯都の片隅で細々と生きるだけだろう。

 ヒースとマーガレット嬢の華やかな結婚を遠くから見つめることになる。その時、思い出す。ヒースの冷たい瞳を。「君は脆弱すぎる」と言い放った彼の声が耳の奥で響く。


(違う。私は脆弱ではない。貴方に切り捨てられるような価値のない存在ではない)


 悲しみと否定されたことへの静かな怒りが、ティティリエを突き動かすエネルギーとなった。研究に没頭し、父の残した複雑な経済学の資料や鉱物学の基礎を夜を徹して学んだ。元々優秀だった彼女の頭脳は実務的な知識を驚くべき速さで吸収していく。


 三ヶ月が経った、春の兆しが見え始めた頃、老教授が顔を青ざめさせながら、別邸に駆け込んできた。


「ティティリエ様!見つかりました」


 教授が差し出したのは、黒く光を反射して青白く輝く、小さな岩石のサンプル。


「希少なエネルギー鉱石です。純度が高く、近年、魔導具の燃料として国際的に需要が高まっているものと同種です。しかも、我々が掘り当てたのは大規模な鉱脈の入り口である可能性が極めて高い」


 ティティリエは石を手に取った。冷たく重い感触。人生の重さであり、未来の可能性そのもののように感じられた。目から再び涙が溢れた。以前のような悲嘆の涙ではない。報われた努力、父への感謝、自らの力で未来を掴んだことへの感動の涙。


「これで……これで、リンドバーグ家は立ち直れる」


 ティティリエの頭には、真っ先にヒースの顔が浮かんだ。彼は未来を見抜けず目先の財力に飛びついたのだ。


「ヒース様が見捨てたのは。見捨てたのはノイマン家を侯国一の財閥にする可能性だったのね」


 ティティリエは冷たい炎のように燃え上がった。鉱石の存在を徹底的に秘匿し、父の代から懇意にしていた金融筋の力を借りて、サザークの土地の採掘権とリンドバーグ家の財産を正式に義兄から切り離す手続きを、粛々と進めた。悲しみを栄養にして、鋼のように強靭な自立心を育て上げていく。


 一方、侯都では、ヒース・ノイマン侯爵家嫡男はマーガレット・クロフォード嬢との婚約を正式に発表し、順風満帆に見えていた。しかし、ヒースの心にはかすかな違和感が。

 ティティリエが社交界から完全に姿を消したこと。通常、婚約破棄された令嬢は未練がましく手紙を送ったり、あるいは公の場で非難するような噂を流したりするものだ。

 だが、何の連絡も噂も聞こえてこない。最初から存在しなかったかのように完全に人生から蒸発した。


「ティティリエ様は田舎の別邸で病気療養中だと聞きました。リンドバーグ家はあの通り傾いていますし、ショックが大きかったのでしょうねぇ。ふふ」


 勝利者の余裕をもって微笑んだマーガレット嬢は美しく、財力は豊富。しかし、会話は常に数字と取引ばかりでヒースがティティリエと交わしていたような文学や哲学に関する深く、知的な議論は望めなかった。ヒースはある晩、父に尋ねた。


「父上。ティティリエ嬢は本当に何も言ってきていないのですか?」


「ああ。リンドバーグ家の義兄から相続分の不動産を切り離す手続きを始めたと聞いただけだ。我々に粘着してくる心配はない。マーガレット嬢との結婚に集中しなさい。彼女の父の商会は我々の財政を盤石にする」


「はい……」


 答えたが心は晴れなかった。去り際に見せた純粋な悲しみと最後に浮かべた蔑みの表情を忘れられずにいた。あの時、心底軽蔑していたから。


(本当に未練がないのか?それとも復讐するような策を練っているのか?)


 無関心が耐え難い侮辱であることに気づき始めている。自分の選択が正しかったと確信する材料を求めていたが、脆弱な者としての敗北の報せは一向に届かなかった。


 鉱脈発見から一年。ティティリエ商会と冠した採掘事業を本格化させた。侯都ではリンドバーグ家が没落の一途を辿っていると信じられていたが父の残したコネクション。

 自ら学んだ経済知識を駆使し、秘密裏に巨大なビジネスネットワークを構築して、自分が掘り当てた希少なエネルギー鉱石の販路を侯国内ではなく国境を越えた、諸外国の企業に絞った。


 これにより侯国での価格競争を避け、圧倒的な利益率を確保。一年、ティティリエは休息を知らなかった。頭の中にはヒースの言葉が常に響いる。


「リンドバーグ家は今脆弱すぎる」


「より盤石な後ろ盾を必要としている」


(脆弱?盤石ではない?)


 書類にサインをし、巨大な採掘機械の稼働音を聞くたびに心の中で反論していた。


 愛を選んだから脆弱だったかもしれない。切り捨てられたがもう違う。手にした力こそが盤石な後ろ盾。選んだクロフォード家の財力など地下に眠る資源の前では小銭に過ぎない。

 努力と決意は急速に実を結んだティティリエ商会は、侯国内の古い権威とは無縁のクリーンで革新的な巨大財閥として、国際的な注目を集め始めた。莫大な利益はリンドバーグ家の抱えていた借金を完済し、なお余りあるもの。


 表情は侯都にいた頃の優しげで夢見がちなものではなくなった。常に冷静で感情を一切表に出さない。部下たちは恐れたが同時に才能を尊敬した。


 心の奥底にある悲しみは癒えていないが崩壊させる毒ではなく、行動を突き動かす燃料となっていた。婚約破棄された瞬間、一度死んだから、今は新しい人生を生きている。

 彼の世界とは無関係な力と論理で構築された世界を。自分を捨てた男への未練ではなく、見抜けなかった自分の価値を証明することに全ての情熱を注いでいた。


 侯都ではヒースとマーガレット嬢の結婚準備が進められていた。侯爵家と新興財閥の結合は当初、社交界の話題の中心。しかし、この数ヶ月後。侯都の経済に奇妙な歪みが生じていた。


 貴族たちが競って買い占めていた古い型の魔導具燃料の価格が、国際的な市場で急激に下落し始めた。理由は、外国企業が供給する高純度で安価な新燃料の登場によるものだと判明。

 マーガレットの父が経営するクロフォード商会は勢いを失いつつあった。手掛ける主要な取引分野が、ティティリエ商会が間接的に提供する新しい技術や製品によって、次々と市場を奪われていたのだ。ヒースは侯爵家の次期当主として、これらの動きを無視できなくなっていた。


「マーガレット。君の父上は市場の動きについて何か対策を練っているのか?」


 ヒースは華やかな晩餐会で婚約者のマーガレットに尋ねた。派手なドレスに身を包んでいたが、やはり顔には焦りの色が滲む。


「そ、その。わ、分かりません……わ、ヒース様。父はティティリエ商会とかいう、名も知らぬ成り上がり者がどこから現れたのかと頭を悩ませています。どうやら国際的な取引ばかりしていて、どこの国の者なのかさえよく分からないそうです」


「ティティリエ商会?」


 ヒースはその名に聞き覚えのない響きを感じた。貴族の義務として、古い領地を維持し、社交界での名声を守ることに心を砕いていた。視線は常に上流階級の権力構造に注がれていたため新しい経済の潮流には疎い。


(なぜだ?クロフォード家と組んだはずだ。侯爵家と国内最大の商会の結合だぞ。盤石でないというのか?)


 胸には不安と焦燥が渦巻いた。計算では最強の後ろ盾を選んだはずだったのにその後ろ盾が見知らぬ新興勢力によって、少しずつ蝕まれている。新興勢力の名前がティティリエという、捨てた名に似ていることが神経を逆撫でしていく。


「ティティリエ、か……」


 婚約破棄以来、完全に沈黙している元婚約者ティティリエのことを思い出す。過去の失敗であり、処理済みの問題のはずだったのにふと、当時の判断を疑いそうになった。

 リンドバーグ家はたしかに傾いていたが、聡明で美しい女性。失った喪失感はマーガレット嬢の表面的な魅力や一時的な財力では埋められない何かを、ノイマン家から奪ったのではないかと。苛立った。自分の判断が間違いだったなど認めたくなかった。


「まさか。巨大な動きに関われるはずがない。偶然の一致だ」


 自己を納得させようとしたが心の奥底で、「もし、あの娘が……」という疑念が芽生え始め、悲しみが見えない鎖となって首を絞め始めていることにまだ気づいていなかった。


 侯都の社交界から姿を消してちょうど一年半が経ったその間、ティティリエ商会は国際的なエネルギー市場を席巻し、侯国経済の裏側を静かに支配する巨大な力となっていた。

 侯都の貴族たちは依然として「リンドバーグ家は没落した」と信じていたが、生活を支える新しい商品、技術、金融の流れはすべてティティリエ商会の手のひらの上で行われている。


 春の日。侯都の中心部に一際目を引く、モダンで荘厳な新しい邸宅を購入した。ノイマン侯爵家の邸宅からも目と鼻の先にある最高の立地で、帰還は誰にも知られることなく準備された。


 ノイマン家はクロフォード商会との提携にも関わらず、深刻な財政難に直面している。クロフォード商会はティティリエ商会の強力な市場支配に対抗できず、次々と取引で失敗を重ねていたことにヒースは、婚約者であるマーガレットの父に詰め寄っていた。


「クロフォード卿!なぜ、ティティリエ商会の正体を掴めないのですか?国内に参入すれば我々の市場は完全に崩壊する!」


 クロフォード卿は顔面蒼白だった。


「それが、ヒース様……商会はあまりにも情報が少ない。総帥はベールに包まれており、取引は常に完璧で付け入る隙がない」


 ヒースは後ろ盾として選んだはずのクロフォード家が、自分たちの無力さに打ちひしがれている光景を見て心の底から恐怖を感じ始めた。


(違う。間違っていない。選んだ道はノイマン家を救う唯一の道だったはず)


 焦燥と自己正当化の渦に呑まれていた。捨てたティティリエの脆弱さを馬鹿にすることで、なんとか心の平静を保とうとするが財産は確実に目減りしている。


 ある夜、侯爵家の主催する春の夜会が開催された。ノイマン家にとっては傾きかけた家格を維持するための、最後の見栄を張る機会。

 夜会の最中、場内の空気が一瞬で凍り付いた。会場の扉が開いたとき、立っていたのは一年半前、悲しみに打ちひしがれて侯都を去ったティティリエ・フォン・リンドバーグ。


 しかし、儚げなティティリエではなかった。纏うのは派手さはないが生地の光沢だけで、周りの人間を圧倒する深い紺色のドレス。胸元にはサザークの鉱石を加工して作らせた、輝くペンダントが一つ。


 表情は一切の感情を排した、氷のように冷たい美しさ。傍らには地質学の老教授、ティティリエ商会の重役たちが控えていて総帥として丁重に扱っている。


「あれは……リンドバーグ嬢?いや、病気療養中では?」


「見て!着ているものは今年の流行を完全に無視しているのに、なぜか他の誰よりも格上に見えるわ」


 囁きが広がる中、ヒースは釘付けになった。瞳は驚愕に大きく見開かれている。


(ティティリエ?なぜここに?しかも女王のように)


 脳裏に温室で彼女を切り捨てた日の光景が蘇る。涙に濡れた顔、ひどく掠れた声、最後に向けられた愛を失った悲しみに満ちた蔑みの瞳。悲しみがこんなにも変貌させたのか?


 ティティリエは周囲の視線を一切気にせず、まっすぐヒースの方へ歩いてきた歩みは、踏みしめているのがヒースのプライドそのものであるかのように強かった。ヒースは震える手でグラスを握りしめ、必死で平静を装う。


「ティティリエ、嬢。ご無沙汰しております。療養から戻られたのですね」


 立ち止まり、ヒースを道端の石を見るかのように、一瞬だけ見つめた瞳には愛憎の感情さえ微塵もなかった。あるのは完全な無関心と格下の存在を見るような冷酷な評価だ。


「ノイマン侯爵家嫡男、ヒース様。お久しぶりです」


 声は美しく、一切の温かみがなかった。ヒースの隣にいる婚約者、マーガレットを一瞥。マーガレットは放つ威圧感に青ざめて身を縮めている。ティティリエは決定的な一言を告げた。


「本日は、ご挨拶と共に一つの通知に参りました。ティティリエ商会の総帥として侯都の社交界に復帰いたします」


 会場は一瞬の静寂に包まれた後、ざわめきで溢れた。


「ティティリエ……商会?」


 ヒースは信じられないという顔で呟いた。


「はい。ノイマン様。貴方方が今、事業の提携を進めているクロフォード商会についてですが」


 笑みを唇の端に浮かべた。


「貴方方を弱体化させている巨大な国際企業こそがうちの商会です」


 絶望的な瞬間に目の前が真っ白になった。


(選んだ後ろ盾。捨てた脆弱な令嬢。両方が一つだったとは)


 軽薄な打算、向けた裏切りと蔑みが巨大なブーメランとなって彼自身を打ちのめしたのだ。

 一点の揺らぎもなかった。流した悲しみの涙は全て乾ききった今、残っているのは愚かさに対する憐憫だけ。ヒースが言葉を失い、顔を歪ませているのを見て。


「家を救う最善の道と最愛の存在を、同時に手放した。一年半、貴方が見抜けなかった力を築き上げました。ノイマン様。愛のない選択は家をも滅ぼす選択だったと今証明されましたね」


 ヒースのプライドを根元から砕いた。


「さようならノイマン様。二度と貴方と貴方のお家の事案が人生に関わることはないでしょう」


 壁の絵画を鑑賞するかのようにヒースを通り過ぎ、老教授を伴って会場の奥へと進んだ。ヒースは立ち尽くしたまま全身から力が抜け、グラスを床に落とす。シャンパンの泡が弾ける音は、砕け散った未来の音のように虚しく響く。


 ティティリエの帰還とティティリエ商会の正体暴露は、侯都の社交界に雷鳴を落とした。一夜にしてリンドバーグ家は没落貴族から、侯国の経済を左右する超巨大財閥へと変貌しヒース・ノイマンは愚かで近視眼的な男として嘲笑の的となる。


 屈辱を与えられた後、夜会の会場を飛び出した。心は怒りや憎しみよりも自己に対する激しい嫌悪感に支配される。


(捨てた?脆弱だと決めつけた?私を心から愛し、ノイマン家を救う唯一の可能性を秘めていたのは彼女だったというのか!?)


 求めたクロフォード家はティティリエ商会によって潰され、ノイマン家は提携の失敗と多額の負債を抱える。破産寸前となった。マーガレットもノイマン家との婚約をすぐに解消し、別の有力な貴族の子息に乗り換えたのだ。ヒースは愛も財産も名誉も全てを失う。


 数日後、ヒースはノイマン侯爵家の代表としてティティリエの新しい邸宅を訪れた。使用人を通し、面会を乞うたのだ。

 邸宅の応接室。男から優雅な身のこなしは消え、顔には疲れと絶望の色が濃く出ていた。


 ティティリエは応接室の奥の席に背筋を伸ばして座っていた。隣には厳格な弁護士が控えている。膝を折るようにして頭を下げた。


「ティティリエ……ティティリエ。心から謝罪する。君の愛と価値を見誤った。侯爵家の名誉のためにと道具のように切り捨てたこと、許してほしい」


 謝罪は後悔に満ちていたが、ティティリエには言葉の裏に今からでも結婚すればノイマン家は救われるだろうという、打算が透けて見えたので一言ずつ言葉を選びながら返した。


「謝罪は受け取ります。選択の誤りを理解できたのならそれで十分です」


 許したのではない。愚かさを認めさせたという事実だけで復讐は完遂したのだ。


「どうか、ノイマン家を……力を貸してくれれば、まだ立ち直れる」


 ヒースは縋るように言うが瞳を向けた。


「私に愛を囁きながら価値がないと判断した瞬間に切り捨てました。選択の結果が、今の貴方。選択を尊重し、一切介入しません。私へしたことは愛の裏切りです。裏切りから生まれた悲しみこそが、切り捨てたリンドバーグ家の潜在的な力を引き出した。悲しみを糧にしてここまで強くなるための道を作ってくれた。感謝はしませんが貴方の行為は過去の清算を済ませた出来事です」


 過去の悲嘆は感じられなかった。悲しみを完全に消化し、強さに変えた者の論理。ヒースは顔を見た。美しい顔立ちには愛も恨みも未練もない。未来を見据えるビジネスのリーダーの厳格さ。


「遠い存在になってしまった」


 ヒースは力なく呟いた。


「ええ。貴方が遠ざけたのです」


 弁護士に目配せをした。弁護士はノイマン家の清算手続きに関する書類をヒースの前に差し出す。


「これ以上、話すことはありません。どうぞお引き取りください」


 最後の希望が砕かれたことを悟り、憔悴しきった表情で立ち去った。


 ヒースが去った後、ティティリエは一人窓の外の景色を見つめた。これで人生は完全に清算され自分を裏切った男に、痛烈な理解できる経済的な破滅という制裁を下したのだ。なのに心には歓喜はない。


 代わりにあったのは空虚さと深い疲労。

 温室で囁いた偽りの愛が本物であってほしかったと、目を閉じた。


 瞳の奥にはまだ、七年間の愛が裏切られた痛切な悲哀が癒えることなく残っている。力を手に入れたが代償として純粋に人を信じ、愛する心を失った。まだまだ悲しみは消えていない。

 人生の隅に永遠の影として残り続け、悲しみを抱きしめたまま新しい人生を歩み始めるために、瞼を押し上げ凛と背筋を伸ばした。

最後まで読んでくださり感謝です⭐︎の評価をしていただければ幸いです。主人公はがんばりました

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― 新着の感想 ―
義兄はそもそも乗っ取り屋で婚約破棄を知ってた可能性高いですね。協力もしたのかも。 現場でヘルメットと工務店の服着てる方が似合いそうな令嬢だなあ
義兄夫婦って、リンドバーグ家の血入ってないんでしょ? 正当な後継者ってティティリエなのに、嫁に行く前提で婚約結ぶのっておかしくない? さらっとお家乗っ取り仕掛けられてないの? そもそも自分のやらかし…
 暴力こそ向けないものの愛より利益、自己研鑽より他者への見下しを優先するなど、色々と残念なまま転落したヒースさんと、愛や悲に多少振り回されながらも鉱物採掘や国外に焦点をあてての取引で這い上がったティテ…
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