スフィアと薔薇のアーチ
「そう。また、そんなことが……」
王太子ナファエルは、影からの報告に小さく溜息をついた。
その瞳には、呆れと、何かを決意したような鋭い光が宿っている。
*
「おい、スフィア!」
放課後の柔らかな陽光が降り注ぐ学園の庭。制服から作業着に着替えたスフィアは、土と緑の香りに包まれながら、愛おしげに花壇の手入れをしていた。
その静寂を破ったのは、第二王子ケビンと、その傍らで皮肉めいた微笑みを浮かべるグルーシャ・ヘンバートン侯爵令嬢だ。
「相変わらず、みすぼらしい格好で泥遊びか。実家の貧しさが知れるというものだな」
ケビンが鼻で笑えば、グルーシャがわざとらしく同情の声を上げる。
「まあケビン様、そんなことを仰っては可哀想ですわ。これでも貴方の『婚約者』なのですから」
「ふん、父上もどうしてこんな女を私に宛てがったのか。……これが君であれば、どんなに良かったか」
「私も同じ気持ちですわ。ケビン様の隣に立てるのが、私であったなら……」
二人はうっとりと見つめ合い、手を取り合う。そのすぐ足元で、スフィアは一切顔を上げることなく、黙々と雑草を抜き続けていた。彼女にとって、二人の茶番は羽虫の羽音よりも価値のないものだった。
*
影からの報告を聞き終えたナファエルが、吐き捨てるように言う。
「グルーシャ・ヘンバートン……。弟のケビンと愛を囁き合いながら、私の婚約者という地位には執着し、あまつさえケビンの婚約者であるスフィアに嫌がらせを繰り返す。実に見苦しく、不可解な女だ」
ナファエルは影へと尋ねた。
「……時は満ちたようだね」
「はい。そのように思われます」
ナファエルは引き出しから、意匠の凝らされた一つの指輪を取り出した。それを自身の指へとはめると、冷ややかな笑みを浮かべる。
*
「おい、スフィア! 」
別の日。またしても現れた二人は、憤慨した様子でスフィアに詰め寄った。
「お前、わざとあんな忌々しい木を植えただろう!」
「……どの木のことでしょうか?」
スフィアが小首を傾げると、ケビンは校舎の裏手を指さした。
「あの『ウメ』とかいう木だ!」
それはスフィアの入学を祝し、両親が植えてくれた記念の樹木だ。スフィア自身が植えたわけではないが、彼女はあえて否定しなかった。両親が侮辱されるくらいなら、自分が泥を被る方がマシだ。
それに、ケビンは、家が貧乏だからスフィアは学園で働いていると思い込んでいるが、事実はそうではない。スフィアの家はこの学園を経営しており、彼女は家業のお手伝いのつもりで趣味のガーデニングを楽しんでいるに過ぎないのだ。
「あの木に、何か問題でも?」
「グルーシャがあの実を食べて、体調を崩したのだぞ!」
「……召し上がったのですか?」
「ええ、食べたわよ!」
グルーシャの顔色はいたって健康そのものだ。スフィアは思わず感心したように呟いた。
「すごいですね……」
「はあ!? 謝りなさいよ!」
「あの青梅は非常に酸味が強く、そのままでは到底食べられたものではありません。野生の動物ですら避けるものを口にされるなんて、よほどお腹が空いていらしたのですね」
「なっ……! は、蜂蜜をつけて食べたのよ!」
「あの実を、齧ってですか?」
「当たり前でしょ!」
「……やはり、すごいですね。あんな固い実を齧れる方を、初めて見ましたわ」
二人の怒声を聞きつけ、周囲にはいつの間にか生徒たちが集まっていた。
「まあ、あの方、あの木の実を召し上がったの?」
「なんて野性的……。学園の備品を食べてしまうなんて」
「動物も見向きもしないのに……クスクス」
忍び笑いが広がる中、ケビンは顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「ええい、黙れ! とにかく、お前が毒を植えたせいでグルーシャは具合が悪いと言っているんだ!」
「ご安心を。学園に植えるものですから、当然毒性のない品種を選んでおります。もし本当にお加減が悪いのでしたら……それは単なる『食べ過ぎ』でしょう」
「き、きいいいいいっ!!!」
逆上したグルーシャが、爪を立ててスフィアに掴みかかろうとした瞬間――。
スフィアの前に、茶色の髪にメガネのさえない男子生徒が音もなく割り込んだ。
「どきなさい! 私は王太子殿下の婚約者よ! いずれこの国の王妃になる女なのよ!」
「……もし王太子殿下がこの醜態をお知りになれば、果たしてその未来があるでしょうか」
男子生徒の冷徹な声に、グルーシャはビクッと動きを止めた。周囲の冷ややかな視線にようやく気づいた彼女は、顔を引きつらせて逃げ出し、ケビンも慌ててその後を追っていった。
*
「おい、スフィア!」
ある日の放課後、もはや定例となった騒がしい声が響く。ケビン王子とグルーシャが、またしてもスフィアの元へ詰め寄ってきた。
「お前の作ったあれのせいで、グルーシャの美しい腕に傷がついたではないか!」
「……?」
心当たりのないスフィアが首を傾げると、ケビンは庭園の入り口に組まれた薔薇のアーチを忌々しげに指差した。
「あのアーチだ! 飛び出したトゲで、彼女が怪我をしたのだぞ!」
ケビンが指差したその場所は、学園でも有名な憩いのスポットだった。
放課後になると、小柄なスフィアが毎日のように梯子に登り、アーチの形に沿って丁寧に薔薇を剪定するのが、いつしか学園の日常風景になっていた。
真剣な表情でハサミを動かす彼女を、通りかかる多くの生徒たちが微笑ましく見守り、時には「今日も綺麗ね」「頑張って」と声をかけることもある。
スフィアが慈しみを持って育てていることを、皆が知っていた。
「あちらは現在剪定中ですので、『近寄らないでください』と札を立てておいたはずですが……」
二人の怒鳴り声に誘われ、多くの生徒たちが足を止める。
「あのアーチ、本当に素敵よね」「札が取れたら、真っ先にくぐってみたいわ」
そんな憧れ混じりの囁きを耳にしたグルーシャは、勝ち誇ったように胸を張った。
「そんな札、私には無意味ですわ。私は王太子妃となり、ゆくゆくはこの国の国母となる女ですのよ? 私がしたいことを、どうして我慢しなければなりませんの!」
傲慢な物言いに周囲が静まり返る中、スフィアは冷静に告げた。
「そうですか。……ですがあの薔薇は『モッコウ薔薇』と申しまして、トゲを持たない品種なのです。トゲで怪我をなさったというのは、何かの間違いではございませんか?」
嘘を指摘され、グルーシャの顔がみるみる赤く染まる。
「まあ、なんて憎たらしい……! そうだわ、あんなもの!」
逆上した彼女はアーチに駆け寄り、たわわに咲く薔薇を引き千切ろうと手を伸ばした。
「やめてください!」
スフィアは必死にそれを阻もうとする。
「このアーチは、王太子殿下のご卒業に合わせて仕立てているのです。それを傷つけるような真似は、どうかおやめください!」
「まあ、私の婚約者に色目を使うつもり!? 許せませんわ!」
「違います! この花の色を見てください。黄色い薔薇の花言葉は『友情』です。殿下とは幼馴染として、その門出をお祝いしたかっただけなのです!」
「黙りなさい!」
グルーシャは足元にあったシャベルを拾い上げ、スフィア目掛けて降り下ろそうと構えた。
そのとき、いつかの男子生徒が現れ、スフィアを背中に庇い、毅然と立ちはだかる。
グルーシャは、それには構わずシャベルを振り下ろした。
しかし、シャベルが彼らに届く前に、影から現れた護衛たちがグルーシャを組み伏せた。
「無礼者! 私を誰だと思っているの、私は王太子の――」
「それも、今日限りだ」
男子生徒が、低く、威厳に満ちた声で遮った。
彼が指から一つの指輪を抜くと、魔法が解けるように姿が変わり、そこには金髮に端正な顔立ちの王太子・ナファエルが立っていた。
「グルーシャ、君の暴挙は逐一、王宮へ報告させてもらっていた。ケビン、お前もだ」
冷徹な瞳で見下ろされ、ケビンはその場に崩れ落ちた。グルーシャは「私は悪くない」と喚き散らしたが、その声は虚しく庭園に消えていった。
*
ほどなくして、二人の処分が下った。
グルーシャは不敬罪と傷害未遂により婚約を破棄され、国外追放。
ケビンもまた、王族としての品位を著しく汚したとして、王籍を剥奪され、スフィアとの婚約も白紙になった。
*
そして、王太子ナファエルの卒業式当日。
スフィアは、満開の黄色い薔薇が彩るアーチの前でナファエルを待っていた。
「殿下、ご卒業おめでとうございます。……このアーチをくぐっていただけますか?」
「もちろんだ。だが、一人では寂しいな。スフィア、君も一緒に、ではどうかな?」
「私はまだ在学中ですが……ふふ、喜んで」
二人は手を取り合い、柔らかな陽光を浴びる黄金色のアーチを、ゆっくりとくぐり抜けた。
*
一年後。
学園を卒業したスフィアは、ナファエルに招かれ王宮の庭園を訪れていた。
「スフィア、これを見てごらん」
彼が指し示した先には、鮮やかな真紅の薔薇で彩られた新しいアーチが、誇らしげにそびえ立っていた。
「まあ……なんて素敵な……」
ナファエルの従者がそっと言った。
「殿下自らがお作りになったのですよ」
うっとりと見惚れる彼女に、ナファエルは優しく耳打ちする。
「花の数を、数えてみてくれるかい?」
「一、二、三……」
一輪ずつ、見事に咲き誇る薔薇を愛でながら数えていく。
「……百七、百八」
百八輪の赤い薔薇。
その数が意味する情熱的なメッセージ――『結婚してください』――に気づき、スフィアは驚いて彼を振り返った。
「私の気持ちをご存じでしたの?」と震える声で聞くスフィア。
ナファエルは頷いて言った。
「黄色の薔薇の花言葉は友情だけれど、黄色のモッコウ薔薇の花言葉は、初恋。そして、私の初恋もスフィア、君なんだよ」
ナファエルは慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、そっと右手を差し出す。
「この先も、ずっと私の隣で花を愛でてくれないか」
スフィアはその手を取り、幸せな涙をこぼしながら頷いた。
二人は真紅のアーチをくぐり、永遠の愛を誓い合ったのである。
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