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スフィアと薔薇のアーチ

作者: 空丘ジル
掲載日:2026/05/03

「そう。また、そんなことが……」


 王太子ナファエルは、影からの報告に小さく溜息をついた。


 その瞳には、呆れと、何かを決意したような鋭い光が宿っている。


 *


「おい、スフィア!」


 放課後の柔らかな陽光が降り注ぐ学園の庭。制服から作業着に着替えたスフィアは、土と緑の香りに包まれながら、愛おしげに花壇の手入れをしていた。


 その静寂を破ったのは、第二王子ケビンと、その傍らで皮肉めいた微笑みを浮かべるグルーシャ・ヘンバートン侯爵令嬢だ。


「相変わらず、みすぼらしい格好で泥遊びか。実家の貧しさが知れるというものだな」


 ケビンが鼻で笑えば、グルーシャがわざとらしく同情の声を上げる。


「まあケビン様、そんなことを仰っては可哀想ですわ。これでも貴方の『婚約者』なのですから」

「ふん、父上もどうしてこんな女を私に宛てがったのか。……これが君であれば、どんなに良かったか」

「私も同じ気持ちですわ。ケビン様の隣に立てるのが、私であったなら……」


 二人はうっとりと見つめ合い、手を取り合う。そのすぐ足元で、スフィアは一切顔を上げることなく、黙々と雑草を抜き続けていた。彼女にとって、二人の茶番は羽虫の羽音よりも価値のないものだった。


 *


 影からの報告を聞き終えたナファエルが、吐き捨てるように言う。


「グルーシャ・ヘンバートン……。弟のケビンと愛を囁き合いながら、私の婚約者という地位には執着し、あまつさえケビンの婚約者であるスフィアに嫌がらせを繰り返す。実に見苦しく、不可解な女だ」


 ナファエルは影へと尋ねた。


「……時は満ちたようだね」

「はい。そのように思われます」


 ナファエルは引き出しから、意匠の凝らされた一つの指輪を取り出した。それを自身の指へとはめると、冷ややかな笑みを浮かべる。


 *


「おい、スフィア! 」


 別の日。またしても現れた二人は、憤慨した様子でスフィアに詰め寄った。


「お前、わざとあんな忌々しい木を植えただろう!」

「……どの木のことでしょうか?」


 スフィアが小首を傾げると、ケビンは校舎の裏手を指さした。

「あの『ウメ』とかいう木だ!」


 それはスフィアの入学を祝し、両親が植えてくれた記念の樹木だ。スフィア自身が植えたわけではないが、彼女はあえて否定しなかった。両親が侮辱されるくらいなら、自分が泥を被る方がマシだ。


 それに、ケビンは、家が貧乏だからスフィアは学園で働いていると思い込んでいるが、事実はそうではない。スフィアの家はこの学園を経営しており、彼女は家業のお手伝いのつもりで趣味のガーデニングを楽しんでいるに過ぎないのだ。


「あの木に、何か問題でも?」

「グルーシャがあの実を食べて、体調を崩したのだぞ!」

「……召し上がったのですか?」

「ええ、食べたわよ!」


 グルーシャの顔色はいたって健康そのものだ。スフィアは思わず感心したように呟いた。


「すごいですね……」

「はあ!? 謝りなさいよ!」

「あの青梅は非常に酸味が強く、そのままでは到底食べられたものではありません。野生の動物ですら避けるものを口にされるなんて、よほどお腹が空いていらしたのですね」

「なっ……! は、蜂蜜をつけて食べたのよ!」

「あの実を、齧ってですか?」

「当たり前でしょ!」

「……やはり、すごいですね。あんな固い実を齧れる方を、初めて見ましたわ」


 二人の怒声を聞きつけ、周囲にはいつの間にか生徒たちが集まっていた。

「まあ、あの方、あの木の実を召し上がったの?」

「なんて野性的……。学園の備品を食べてしまうなんて」

「動物も見向きもしないのに……クスクス」


 忍び笑いが広がる中、ケビンは顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。

「ええい、黙れ! とにかく、お前が毒を植えたせいでグルーシャは具合が悪いと言っているんだ!」

「ご安心を。学園に植えるものですから、当然毒性のない品種を選んでおります。もし本当にお加減が悪いのでしたら……それは単なる『食べ過ぎ』でしょう」

「き、きいいいいいっ!!!」


 逆上したグルーシャが、爪を立ててスフィアに掴みかかろうとした瞬間――。

 スフィアの前に、茶色の髪にメガネのさえない男子生徒が音もなく割り込んだ。


「どきなさい! 私は王太子殿下の婚約者よ! いずれこの国の王妃になる女なのよ!」

「……もし王太子殿下がこの醜態をお知りになれば、果たしてその未来があるでしょうか」


 男子生徒の冷徹な声に、グルーシャはビクッと動きを止めた。周囲の冷ややかな視線にようやく気づいた彼女は、顔を引きつらせて逃げ出し、ケビンも慌ててその後を追っていった。


 *


「おい、スフィア!」


 ある日の放課後、もはや定例となった騒がしい声が響く。ケビン王子とグルーシャが、またしてもスフィアの元へ詰め寄ってきた。


「お前の作ったあれのせいで、グルーシャの美しい腕に傷がついたではないか!」

「……?」


 心当たりのないスフィアが首を傾げると、ケビンは庭園の入り口に組まれた薔薇のアーチを忌々しげに指差した。


「あのアーチだ! 飛び出したトゲで、彼女が怪我をしたのだぞ!」


 ケビンが指差したその場所は、学園でも有名な憩いのスポットだった。


 放課後になると、小柄なスフィアが毎日のように梯子に登り、アーチの形に沿って丁寧に薔薇を剪定するのが、いつしか学園の日常風景になっていた。


 真剣な表情でハサミを動かす彼女を、通りかかる多くの生徒たちが微笑ましく見守り、時には「今日も綺麗ね」「頑張って」と声をかけることもある。


 スフィアが慈しみを持って育てていることを、皆が知っていた。


「あちらは現在剪定中ですので、『近寄らないでください』と札を立てておいたはずですが……」


 二人の怒鳴り声に誘われ、多くの生徒たちが足を止める。

「あのアーチ、本当に素敵よね」「札が取れたら、真っ先にくぐってみたいわ」


 そんな憧れ混じりの囁きを耳にしたグルーシャは、勝ち誇ったように胸を張った。

「そんな札、私には無意味ですわ。私は王太子妃となり、ゆくゆくはこの国の国母となる女ですのよ? 私がしたいことを、どうして我慢しなければなりませんの!」


 傲慢な物言いに周囲が静まり返る中、スフィアは冷静に告げた。

「そうですか。……ですがあの薔薇は『モッコウ薔薇』と申しまして、トゲを持たない品種なのです。トゲで怪我をなさったというのは、何かの間違いではございませんか?」


 嘘を指摘され、グルーシャの顔がみるみる赤く染まる。

「まあ、なんて憎たらしい……! そうだわ、あんなもの!」

 逆上した彼女はアーチに駆け寄り、たわわに咲く薔薇を引き千切ろうと手を伸ばした。


「やめてください!」

 スフィアは必死にそれを阻もうとする。


「このアーチは、王太子殿下のご卒業に合わせて仕立てているのです。それを傷つけるような真似は、どうかおやめください!」


「まあ、私の婚約者に色目を使うつもり!? 許せませんわ!」


「違います! この花の色を見てください。黄色い薔薇の花言葉は『友情』です。殿下とは幼馴染として、その門出をお祝いしたかっただけなのです!」


「黙りなさい!」


 グルーシャは足元にあったシャベルを拾い上げ、スフィア目掛けて降り下ろそうと構えた。


 そのとき、いつかの男子生徒が現れ、スフィアを背中に庇い、毅然と立ちはだかる。


 グルーシャは、それには構わずシャベルを振り下ろした。


 しかし、シャベルが彼らに届く前に、影から現れた護衛たちがグルーシャを組み伏せた。


「無礼者! 私を誰だと思っているの、私は王太子の――」


「それも、今日限りだ」

 男子生徒が、低く、威厳に満ちた声で遮った。


 彼が指から一つの指輪を抜くと、魔法が解けるように姿が変わり、そこには金髮に端正な顔立ちの王太子・ナファエルが立っていた。


「グルーシャ、君の暴挙は逐一、王宮へ報告させてもらっていた。ケビン、お前もだ」


 冷徹な瞳で見下ろされ、ケビンはその場に崩れ落ちた。グルーシャは「私は悪くない」と喚き散らしたが、その声は虚しく庭園に消えていった。


 *


 ほどなくして、二人の処分が下った。


 グルーシャは不敬罪と傷害未遂により婚約を破棄され、国外追放。


 ケビンもまた、王族としての品位を著しく汚したとして、王籍を剥奪され、スフィアとの婚約も白紙になった。


 *


 そして、王太子ナファエルの卒業式当日。


 スフィアは、満開の黄色い薔薇が彩るアーチの前でナファエルを待っていた。


「殿下、ご卒業おめでとうございます。……このアーチをくぐっていただけますか?」

「もちろんだ。だが、一人では寂しいな。スフィア、君も一緒に、ではどうかな?」

「私はまだ在学中ですが……ふふ、喜んで」


 二人は手を取り合い、柔らかな陽光を浴びる黄金色のアーチを、ゆっくりとくぐり抜けた。


 *


 一年後。


 学園を卒業したスフィアは、ナファエルに招かれ王宮の庭園を訪れていた。


「スフィア、これを見てごらん」


 彼が指し示した先には、鮮やかな真紅の薔薇で彩られた新しいアーチが、誇らしげにそびえ立っていた。


「まあ……なんて素敵な……」


 ナファエルの従者がそっと言った。

「殿下自らがお作りになったのですよ」


 うっとりと見惚れる彼女に、ナファエルは優しく耳打ちする。

「花の数を、数えてみてくれるかい?」


「一、二、三……」

 一輪ずつ、見事に咲き誇る薔薇を愛でながら数えていく。

「……百七、百八」


 百八輪の赤い薔薇。


 その数が意味する情熱的なメッセージ――『結婚してください』――に気づき、スフィアは驚いて彼を振り返った。


「私の気持ちをご存じでしたの?」と震える声で聞くスフィア。


 ナファエルは頷いて言った。

「黄色の薔薇の花言葉は友情だけれど、黄色のモッコウ薔薇の花言葉は、初恋。そして、私の初恋もスフィア、君なんだよ」


 ナファエルは慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、そっと右手を差し出す。


「この先も、ずっと私の隣で花を愛でてくれないか」


 スフィアはその手を取り、幸せな涙をこぼしながら頷いた。


 二人は真紅のアーチをくぐり、永遠の愛を誓い合ったのである。

お読みいただき、ありがとうございました。

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