同行
昼前の酒場は、落ち着かない。
客は少なく、仕込みの音だけが目立つ。
樽を転がす音が、奥で一度止まり、また動く。
包丁がまな板に当たる音は一定で、手を止めていないのが分かる。
油の匂いはまだ薄く、火は入っていない。
カウンターに肘をついて、薄い酒を飲む。
舌に残る味は弱いが、昼前ならこれでいい。
視線を上げると、壁の染みが一つ増えていた。
前に来たときにはなかったはずだが、気のせいかもしれない。
この店は、そういう違いが分かりにくい。
奥で足音がして、止まる。
店主が顔を出すまで、少し間があった。
呼ぶでもなく、咳払いもない。
こちらが気づくのを、待っていたらしい。
「悪いな」
それだけ言って、隣を顎で示す。
少年が一人、立っていた。
いつからいたのかは分からない。
音も立てず、動いた気配もない。
ただ、そこに立っている。
年は十五か、十六。
背はまだ伸び切っていない。
背負い袋は軽そうで、肩紐の位置が少し高い。
持ち慣れていない。
「この先の道が分からないらしい」
少年は何も言わない。
否定もしない。
店主はグラスを拭きながら、少しだけ手を止めた。
「冒険者に頼むほどじゃない、って顔でな」
少年はこちらを向いたまま、黙っている。
「同じ方向なら、連れてってやってくれ」
頼みというより、確認だ。
断れば、それで終わる。
酒を飲み干す。
底に残った苦味が、少し遅れて上がってくる。
「どこまでだ」
少年が、少しだけ口を開いた。
声は低くも高くもない。
緊張はあるが、怯えてはいない。
「ノーアまで」
遠くはない。
急ぐ理由もない。
「同じだ」
椅子が小さく鳴る。
立ち上がる音のほうが、言葉より早かった。
少年が一瞬だけ目を上げる。
驚いたというより、想定していなかった反応だ。
すぐに、背負い袋の位置を直す。
肩にかかる重さを、確かめるような動きだった。
店主は何も言わない。
礼も、金の話もない。
それで、この話は終わりだ。
酒場を出る前、店主が裏の戸を開けた。
昼前の光が、床に細く伸びる。
「裏道で行け。昼前は表が混む」
それだけ言って、奥に戻る。
外に出ると、空気が変わる。
酒場の中より軽く、まだ温まっていない。
石の段差を一つ降りる。
靴底が乾いた音を立てる。
通りは狭い。
荷車が通るには足りない幅だが、人が行き交うには十分だ。
壁に寄せられた木箱が、道を少しだけ曲げている。
昼前の匂いがする。
焼く前の粉、濡れた布、冷めきらない灰。
どれも強くはない。
少年は、すぐ後ろにいる。
気配はあるが、音は小さい。
振り返らなくても分かる距離だ。
少し歩いてから、聞く。
「泊まりは?」
振り向かずに言う。
「川沿いの宿です」
一拍だけ間があって、
「俺もそこだから問題ない。出発は明後日だ」
それで話は終わる。
通りを抜けると、少し明るくなる。
建物の影が短い。
表の道は人が多い。
立ち話、荷の受け渡し、戸を開ける音。
まだ忙しさにはなっていない。
足を止めずに進む。
歩幅は変えない。
石畳の色が、場所ごとに違う。
古い部分は黒く、新しい部分は白い。
直した跡が、ところどころに残っている。
橋のほうへ向かう。
川の音が、まだ遠い。
通りを抜けると、音が変わる。
人の声が少し遠くなり、水の気配が近づく。
橋は低い。
装飾はなく、渡るためだけの形だ。
石の縁が、長く使われて丸くなっている。
足が止まる。
理由はない。
川は、思ったより速い。
水面が揃っていない。
光が当たる場所と影で、色が違う。
流れに迷いはない。
ただ下へ行く。
昼前の川だ。
朝ほど静かではなく、昼ほど騒がしくもない。
向こう岸で、洗い物の音がする。
木桶が水に当たる低い音が、一定の間隔で続く。
風が橋の下を抜ける。
水の音が、少しだけ大きくなる。
少年は、半歩後ろの位置のまま、同じ方向を見ている。
少しして、足を動かす。
渡る。
橋の中央で、石の色が変わる。
補修した跡だ。
新しい部分は、まだ角が残っている。
渡り切ると、匂いが変わる。
水と土が近い。
川沿いの道は、少し涼しい。
日が当たりきらない分、空気が軽い。
歩く。
急がない。
昼が近い。
それだけは、分かる。
日差しが変わった。
角度ではなく、重さだ。
影が薄くなる。
足元の石が、さっきより明るい。
歩いているだけで、空気がまとわりつく。
湿り気はないが、逃げ場がない。
通りに出ると、匂いが一気に増えた。
焼いた油。
煮込む鍋。
甘い砂糖。
どれも昼向けだ。
人の声が高くなる。
短く、切れる。
長く話す余裕はない。
少年の歩幅が、少しだけ乱れる。
遅れてはいないが、余裕が減っている。
昼食にする。
通りから少し外れた、屋台の並ぶ一角だ。
直射は避けられるが、風は通らない。
壁際に、腰を下ろせる段がある。
休むためというより、立ち止まるための場所だ。
座ると、石の熱がそのまま伝わる。
昼まで溜まった分が、逃げていない。
皿を受け取る。
湯気は少ない。
だが、匂いははっきりしている。
昼向けの味だ。
一口、食べる。
塩気が強い。
香辛料も多い。
冷めても成立するように作られている。
噛むと、口の中が乾く。
飲み込むと、腹に落ちる。
少年は、少し遅れて口を動かす。
噛む回数が多い。
「……普通ですね」
否定でも肯定でもない。
昼の食事としては、妥当だ。
返事はせず、通りを見る。
人の流れは止まらない。
食べ終えた者が、すぐ立ち上がる。
長居する場所ではない。
二口目。
塩気が、さっきより強く感じる。
売り子の声が近づき、また離れる。
次の客は、もう来ている。
「また夜来よう」
皿を置く。
もう十分だ。
少年の動きが、一瞬止まる。
「???」
通りを離れると、人の密度が少し下がった。
昼の中心から、外れた場所だ。
昼の音はまだ高い。
だが、さっきほど鋭くはない。
日差しは強いまま。
ただ、真上からではなく、斜めに当たる。
影が、ゆっくり伸び始める。
立ち止まる人が増える。
壁に背を預ける者。
水を飲む者。
少年の歩き方が変わった。
余計な動きが減っている。
川をもう一度渡る。
水の色が濃い。
流れは同じだ。
見え方だけが違う。
空の色が、白から薄い橙に変わる。
この街では、
昼と夜の間に、こういう時間が挟まる。
夜は、もうすぐだ。
日が落ちると、街の輪郭が変わる。
昼に開いていた店は戸を閉め、
低い位置で灯りが点く。
夜は、通りが選ばれる。
話し声は低く、笑い声は短い。
仕事終わりの時間だ。
屋台の数は少ない。
看板は出ていない。
立ち止まると、男が顔を上げた。
灯りは弱いが、手元ははっきり見えている。
「二つ買おう」
「まいど」
器を受け取る。
見た目は小さい。
だが、持った瞬間に分かる。
昼のものより、重い。
湯気は控えめだ。
匂いも強くない。
近づいて、ようやく分かる程度だ。
一口、口に入れる。
熱くはない。
だが、温度がちょうどいい。
噛むと、味が広がる。
油も塩も、前に出てこない。
代わりに、後に残る。
少年が、すぐに声を出した。
「美味しいです」
昼のときより、早い。
もう一口。
今度は、腹に落ちる感じがはっきりする。
重さはあるが、引っかからない。
「違ったうまさがあるだろ」
「はい」
それだけで、十分だった。
周りを見ると、同じように立って食べている者がいる。
誰も、長話はしない。
食べたら、帰る。
夜の食事は、そういうものだ。
宿に戻る。
帳場は静かだ。
それぞれ、鍵を使う。
廊下に、扉の音が二つ。
部屋に入ると、昼の匂いが残っている。
灯りを落とす。
同じ宿にいる。
それだけ分かればいい。
今日は、何も起きなかった。
ただ、この世界で、そうしている。




