答えられません、国家機密ですから
「教えてくれ、愛しいジェシカ嬢。君の持つ国家機密とは何なのだ」
「答えられません、国家機密ですから」
見事な薔薇が咲きほこる伯爵家の庭園。豪華なガゼボにはジェシカ・フェルディ男爵令嬢と、彼女を正面から見つめるセイル・オーバ伯爵令息。
今日に限っては、メイドの姿も護衛の影すらもない。「ジェシカと大切な話をするから、全員席を外せ」とセイルが命じたためだ。
フェルディ男爵家は「国家機密」を所持する対価として、国から莫大な補助金を得ている。
領地はわずかで、大した収入もない。男爵位の中でも家格は下で平民に近く、どの派閥にも属していない。
それなのに王家主催の夜会には必ず招かれ、彼女が纏うドレスも一流品ばかり。
このオーバ伯爵家よりも優雅な暮らしぶりだ。
遙かに格下の男爵家が、王家と血の繋がりも無いはずなのにどうしてこれほどまで厚遇されるのか。
それはひとえに、男爵家が代々「国家機密」を受け継いでいるためだ。
社交界では様々な噂が囁かれる。
国家機密とは、王家を陰で支える軍事力だとか、一国を築けるほどの埋蔵金だとか。
建国の折に霊獣がフェルディ家に授けたという超常の力だなどと、まことしやかに言う者もいる。
「私と結婚すれば力や富が手に入る。そうお考えなのでしょう?」
静かに核心を突かれ、セイルは一瞬、言葉に詰まった。
貼り付けていた社交的な笑みが、微かにひび割れる。
「ち、違う!君の事が知りたいだけなんだ。本当だよ愛しいジェシカ」
「申し訳ございません。国家機密のことはお答えできない決まりなのです」
ジェシカはその機密の内容を、血を分けた家族にすら明かすことを王家から禁じられている。
「この『国家機密』は、祖父より直接わたくしに伝えられました。決して口外してはならないと、病床の祖父は私に何度も厳命されました」
先代当主の祖父が亡くなったのはジェシカが五歳の頃。既に他界していた両親に代わり、ジェシカは特例として僅か五歳で男爵家を継いだ。
幼い令嬢への継承は、国王が直々に許可を出したので、口出しする者はいない。
しかし僅かとは言え領地の経営や家政などは幼子の手に余る。
なので来年成人して正式に「女男爵」となるまで、王家が代理人として領地を管理し、厳重に彼女を保護している。
ジェシカは、この国にとって至宝とも呼べる存在なのだ。
セイルは、ジェシカの鉄壁の決意に焦燥を募らせ、用意していた最後の切り札を出した。
「君のために、プレゼントを用意した。どうか正式に私の婚約者となってほしい。私は君に、真実の愛を捧げたい。これがその証だ」
テーブルに置かれた箱をセイルが開けると、そこには王家の宝と勝るとも劣らない、見事なダイヤのネックレスが収められいた。
「……ここまで熱心な方は初めてです」
「受け取ってくれるだろうか?」
熱の籠もった視線を向けられ、ジェシカは小さく息を吐いた。
呆れているのか、困っているのか。その表情は読みにくい。
「本当に、よろしいのですか?」
「愛する者に求婚するのだから、当然だろう。皆気合いが足りないのだな」
ジェシカの呟きを聞いたセイルは、勝ち誇ったように笑みを浮かべる。
その整った横顔を、ジェシカは冷めた目で見ていた。
(これまで何の苦労もなく生きてきたのね……)
伯爵位の中でも特別裕福な家に生まれ、文武に優れた青年だと聞く。
その美貌は常に令嬢達の視線を釘付けにし、明るく華やかな彼には男女問わず多くの取り巻きがいる。
(それでも満足しないなんて。人の欲とは恐ろしいわ)
「どうしてもと仰るなら、仕方ありませんわ」
そう言うと、セイルの表情が更に明るくなる。
「国家機密を教えて……いや、私と婚約してくれるのか?」
本心が隠しきれていないが、ジェシカは指摘せずに柔らかな笑みでやり過ごす。
「国家機密を知ること。それには男爵家を継ぐことが前提となります」
国家機密を知ることができるのは、フェルディ男爵家の正統な跡継ぎただ一人だけと決まっている。
夫になるだけでは条件を満たさない。家族であっても例外ではないのだ。
「君と婚約するだけでは駄目なのか?」
問い返すセイルの声には戸惑いが滲む。
「伴侶にも伝えてはならないという決まりなのです」
ジェシカが淡々と告げると、セイルは眉間に深い皺を寄せる。
考え込む彼を、ジェシカは静かな眼差しで見つめていた。
(美味しい紅茶も甘いお菓子も貴族の特権。けれど私は、そんなものはいらない)
ティーカップを置き、ぼんやりと考える。
国庫から潤沢な支援が受けられ、身の回りの品は全て王室御用達の店から届けられる。
本来男爵家が呼ばれないような、高位貴族の主催する夜会や茶会への招待も日常的だ。
けれど華やかな場へ赴いたところで、下位の男爵令嬢が敬われることはない。
「国家機密を持つ男爵家」という見えない名札のせいで、いつも周囲の好奇と嫉妬に晒されるだけだ。
場違いだと突き刺さる視線が、どれほど心を傷つけるか彼は知らない。
何か事が起これば、真っ先に囁かれるはフェルディ男爵家の名。
市井で起きる些細な事件でさえ、貴族と無関係でも、なぜか裏の首謀者として噂される。
(好奇の目で見られ、常に疑われる辛さを、想像することさえできないのでしょうね)
「あなたは伯爵家の次期当主。男爵に落ちるなど周囲もあなたご自身も受け入れられないでしょう?」
辛辣な口調になってしまった。だがセイルは気分を害するどころか、真剣に思案している。
そして、ジェシカの予想を遥かに超える答えを口にした。
「私が継げば国家機密が何であるのか、知ることができるのだな? 幸い私には弟がいる。伯爵家は弟に継がせれば問題はない。両親も君と結婚したいと相談したら、大変喜んでいた。私が男爵位になろうとも、この愛を貫いてのことと分かれば必ず祝福してくれる」
「まあ……ご家族まで……」
彼と、そして彼の家族が欲しているのは、ジェシカではない。
伯爵家の立場すら投げ捨てられるほどの価値を持つとされる国家機密と、それに付属する圧倒的な恩恵だ。
「ですがあなたが男爵家を継ぐのであれば、わたくしは出て行かなくてはなりません。これは王家と交わした約束の一つ。国家機密を知る者が二人ではいけないのです。昔は死罪にしていたようですが、今は社交界から遠ざかれば許されます」
国家機密を喋らないことは当然として、貴族社会からも遠ざけられる。
つまり平民落ちだ。
優雅な生活を捨て、一般市民として暮らす未来。普通なら震えて拒むだろうに、ジェシカは淡々としていた。そんな彼女をセイルは怪訝そうな表情で見つめる。
「君はそれでいいのか?幸い私の父は公爵家にも顔が利く。公爵家を通じて王家に話を付けよう。なんとかして君を家に置く許可を得て……」
「あら、セイル様はわたくしが出て行った方が都合がよいのではありませんか?」
セイルの目が僅かに泳いだ。その動揺をジェシカは見逃さない。
自分の容姿は平凡だとジェシカは知っている。
なによりセイルはジェシカに求婚する一方で、幼なじみの公爵令嬢とも同時進行で親密な関係になっていた。
どちらが本命かは明白だ。
「本当に君は家を出て行くのだな?」
「ええ。あなたも全てを引き継ぐことを違えませんね?」
「勿論だとも!」
セイルは隠しきれない歓喜を浮かべ、嬉しそうに答えた。
それは、「邪魔な女が去り、富だけが手に入る」という、彼にとって最高の結末が訪れた瞬間だった。
***
「皆様、国王にご連絡をしてください」
ジェシカが高らかに叫ぶと、どこからか黒衣の男が数名現れた。
フードを目深に被っているので、顔は全く見えない。
「本日ただいまを以て、男爵家当主の座が移行したことを見届けました」
黒衣の一人がジェシカの前に進み出て、低く静かな声で告げる。
「なんと…やはり秘密組織を所有していたのか!」
セイルが驚愕の声を上げるが、ジェシカは首を振った。
「いいえ。この方は王家から派遣されている影ですよ。わたくしの監視役です」
「では国家機密とは、莫大な隠し財産か? もしや、精霊の恩寵は事実だったのか?」
夢物語を期待するセイルに、ジェシカは冷徹に言い放った。
「そんなのおとぎ話です」
「では一体……」
問いかけは最後まで続かなかった。ジェシカが静かに手を上げて制したからだ。
「これから新たな当主セイル・フェルディ男爵に、国家機密をお伝えいたします」
ジェシカは冷たく、そしておぞましい真実を静かに語り始めた。
王家がまだ貴族達を御しきれず、血なまぐさい争いが続いていた時代に遡る。
当時の宰相は、王族の暗殺を試みる勢力に対抗するため、一つの残酷なアイデアを思いついた。
「王族を狙う敵の標的を、別の貴族にすり替えればいい」
王族の影武者は多くいたが、完璧な替え玉は少ない。それに似ているという事は、つまり王族の血が流れていると言う事でもある。
ただでさえ数を減らしている王族を、替え玉として遣い潰すのは得策ではない。
かといってそっくりの赤の他人を探したところで限りがある。
そこで白羽の矢が立ったのが、子だくさんで親戚も多くいるフェルディ男爵家だ。男爵位と言っても平民のような貧しい生活をしてた彼らに、生け贄として選ばれたことを拒否する権利など存在しなかった。
以来、フェルディ男爵家は「国家機密を保持している」という名目で、国庫からの潤沢な補助金と王族からの過度な庇護を受けることとなる。
特別なものを持たない男爵家が機密を持つ。その異様な状況は宰相の思惑通り、貴族社会に勝手に噂を広めた。
外国に隠し財産があるだとか、王家の影をも凌ぐ暗殺集団を抱えているだとか。
精霊から加護や魔術を与えられたなどという、おとぎ話のような噂まで、真実のように広められた。
貴族たちは男爵家を懐柔しようと群がり、同時に排除しようとも動いた。
宰相の目論見は当たり、国家機密を託された一族は次々に暗殺された。
毒殺、刺殺、事故に見せかけた殺しは日常茶飯事。誘拐され、国家機密を吐くまで拷問された末に殺された者も少なくない。
薔薇の甘い香りが漂うガゼボに似つかわしくない、国家の血なまぐさい裏の歴史をジェシカは感情を殺したまま語り続ける。
「――国家機密なんてないんですもの、答えられません。お陰で残った直系はわたくし一人。受け継いだのは先祖が散々飲まされた毒くらいですね。そのせいで体が弱くて、両親も早くに病で亡くなりました」
淡々と話しながらも、言葉の端々に一族の受けた理不尽への恨みが滲む。
先祖達が飲まされた毒は、一族の血を蝕み続けている。この平和な時代になっても、母体を通じてジェシカにも残ったのだ。
母が病死して程なく、父は気が弱ってそのまま亡くなった。
「これが我が男爵家の全てです。申し訳ございません、当主はあなたでしたね」
ジェシカは静かにセイルを見つめる。真実を聞いた彼は信じられないといった様子で呆然としていた。
いざというときのため――そのような名目で、平和になった今も続いてる「国家機密」の保持。
当然ながら婚姻も、男爵家一族の中で行われ続けた。血が濃くならないよう縁組みは慎重に行われてきたが、数多く居た親戚も数を減らし、ジェシカと釣り合う年齢の男性はいない。
そこでジェシカは特例として、他家から婿を迎えることが許されたのだ。
「国家機密」という餌をちらつかせれば、多くの貴族が食いついてきた。しかし男爵家に婿入りとなると、尻込みする者ばかり。
ジェシカ自身も病弱で貧相な容姿ということもあり、なかなか婚約までは進むことができなかった。
そこへ我こそはと名乗りを上げ、ジェシカを手に入れるべくアプローチを始めたのがこのセイルだ。
表向きはなかなか縁談が纏まらない男爵令嬢に手を差し伸べたという理由。
しかし彼が「国家機密」を目当てに近づいた事なんて最初から分かりきっている。
「本当に、何も持っていないのか?ならば国家機密とは何なのだ……」
「特別な能力も使える組織も隠し財産もありませんよ。そうですね文字通り「国家機密」という言葉を公の場で口にすることは許されております」
ジェシカは軽く肩をすくめた。
そもそも存在しないのだから、問われても答えようがない。なのに誰もが国家機密を求め、知りたがる。
「お金はもらえますよ。使い切れないほど、たくさん」
王家からは毎年多額の金が振り込まれる。
王家御用達の店で買い物をすれば、代金は全て王家が負担する。
使用人達も王家が選りすぐった者ばかりで、給金を払う必要もない。
何故なら彼らは、王家の影だから。
「しかし自由はございません」
国家機密を背負った家に、好き勝手に生きる選択肢は与えられない。
常に監視され、自由もプライバシーも失われる。
そして王家主催の夜会や茶会は、どんな事情があっても欠席できない。
(病で伏していたお爺さまは、陛下の催された狩猟遊びに付き合わされたわ。あの気紛れさえなければ、お爺さまはもう少し生きられたのに)
ジェシカはこみ上げる感情を必死に押し殺して言葉を紡いだ。
「二十四時間、いつでも監視されすべて記録されます」
淡々とした説明に、セイルが顔をこわばらせた。
「すべてとは……まさか、トイレや風呂もか?」
恐る恐る尋ねる彼に、ジェシカは静かに頷く。
「はい。口にしたもの、出したもの。誰と何を話したか、どこへ行ったか。何もかも、影が記録します。ああ、彼は影の代表というだけで屋敷は数多くの影が見張っております」
黙って控えている黒衣の影が、こくりと頷く。
「妻を迎えたら、夜の方も監視されるでしょうね」
「待ってくれ!やはりなかったことに」
「あなたが望んだのですよ。それではさようなら。わたくしは平民になりますから、もう会うこともないでしょう」
席を立ったジェシカは美しいカーテシーをしてセイルに背を向け歩き出す。
「――既に部下が王へ報告に向かいました。国家機密を知ってしまった以上、セイル様がフェルディ男爵家を継ぐ事は覆りません」
黒衣の男が感情のない声でセイルに告げる。
不利益どころか罰としか言いようのない状況から抜け出す方法は二つ。
死ぬか平民落ちかしかない。
逃げるならそのどちらかを選ぶしかないと気づいて、セイルはその場に崩れ落ちた。
***
庭園を出たジェシカは、ふっと大きな息を吐いた。
生きているうちに後継者、つまり国家機密を継ぐ者がいればこの縛りから解放される。
これは王家との誓約書にも記されているので問題ない。
しかしこれまでの当主は、解放される前に殺されていた。
あるいは祖父のように、跡継ぎをこの苦しい立場に立たせたくない一心で、命が尽きる寸前まで当主としての使命を全うした。
病の床で涙ながらに祖父は「国家機密」を話してくれた。
幼いジェシカにも分かるようにかみ砕いた内容だったが、祖父は悲劇的な家の歴史や、王族達の血みどろの権力争いも隠さずに伝えてくれた。
全てを知ったジェシカは驚いた。
普通の娘ならば取り乱しても仕方ない内容だけれど、幸いなことにジェシカは年に似合わず冷静で頭の回転が速い娘だった。
国家機密の事実を知ったジェシカは、すぐにこの理不尽な家から解放されるための計画を考え始めた。
そして男爵位を正式に次ぐ直前で、自らを理不尽から解放することに成功したのである。
「おめでとうございます、お嬢様」
「私はもう平民よ。お嬢様なんて呼ばないで」
平民用の通用門を通って伯爵家を出たジェシカは、隣を歩く老人に笑みを向ける。
人目もあるので、黒衣のローブ姿は逆に目立つ。なので老人は従者姿でジェシカの半歩後ろを歩く。
「ターゲットは決めてなかったけれど、まさかオーバ伯爵家の令息が釣れるなんて思っていなかったわ。これもお爺ちゃん達のお陰よ。ありがとうございます」
親しみを込めてそう呼ぶと、老人も優しい笑みを返した。
彼ら「王家の影」とは、長い付き合いだ。特に早くに両親を亡くしたジェシカの事は、影達も気にかけてくれていた。
王命があるので厳しい監視は続いていたが、トイレとお風呂は女性の影が付いてくれたり、血の毒で病弱なジェシカにこっそり王家の解毒薬を届けてくれたりもした。
お陰で幼い頃に比べてジェシカは随分と体力が付いた。
何より有り難かったのは、計画を知った彼らはジェシカだけでは知ることのできない様々な情報を探り、教えてくれたのだ。
「オーバ伯爵家と繋がりのある公爵家は王家の姫が多く嫁いでおります。セイル様が幼なじみの令嬢と婚約されれば、男爵家の後継が突如代わったとしても「国家機密」の信憑性は落ちるどころか増すでしょう」
「それに公爵家の令嬢なら、うちと同じくらい侍従やメイドがいるんでしょ?だったら他人に見られることなんて、気にしないわよね」
高位貴族の生活がどのようなものか、ジェシカは知らない。以前図書館で読んだ他国の話だが、王族や高位貴族は出産までも多くの人の目に晒されるのだと書かれていた。
この国も同じとは限らないが、あれだけ暗殺を恐れていたのだからきっと周囲に多くの人を置いているのだろう。
(セイル様はなんだか動揺してたけれど…まあいいか。私にはもう関係ないものね)
「ところで、やっぱり公爵家は動きそうなの?」
「ええ。公爵家はセイル様が国家機密を得れば、何かと張り合っている侯爵家に正面から突っかかるでしょうね」
もし一線を越えて公爵家が王家に反旗を翻せば、とばっちりを受ける男爵家とセイルの実家である伯爵一族は殺されまくるだろう。
(そこまでのことはしない思うけど。二つの派閥がやり合うのなら、きな臭くなる前に早く国外に逃げた方が良いわね)
幸い今の王族は頭がとても平和な方ばかりだ。勝手に「国家機密」を辞めた小娘を殺そうだなんて考えもしない人達だ。
「短い間だったけど、お世話になりました」
幼い日からずっと傍で見守り、影として彼女の一挙手一投足を記録してきた男。だが今はその役目を終え、穏やかな初老の顔で微笑んでいる。
「行き先は決めているのですか?」
「ええ、南方の国へ行くの」
南方は毒を扱う医師が多い土地で、解毒に長けた名医がいると聞いている。王家の解毒薬を飲んでも、未だジェシカの体には毒が残っており、少し無理をすると体調を崩してしまう。
幸い金は十分すぎるほどある。王家から得た金の一部は隣国の銀行に移してあり、国を出ても旅を続けるには困らない。
ジェシカの答えを聞き、老人は得心したように頷く。
「私も、それが最善かと思います……レオン、来なさい」
老人が呼びかけると、どこからともなく黒髪の青年が姿を現す。彼は老人の孫で、幼い頃はジェシカの遊び相手として側に居てくれた一人だ。
最近は城での仕事を任されており、こうして合うのは数年ぶりだった。
「本当に、レオンなの?」
「はい」
影としての訓練を受けたレオンは、いつの間にか逞しく成長していた。
屈託ない笑顔を浮かべる彼は確かに幼い頃の面影がある。
けれど同じくらいだった背は彼の方が頭一つ分高くなっていて、体つきもがっしりとしている。
整った面立ちに、陽光を浴びて艶やかに輝く黒髪に黒の瞳。
自分の知っている、やせっぽちの少年とはまるで別人である。
ジェシカがぽかんとしていると老人が切り出す。
「……お嬢様、こいつを連れて行ってください。きっと役に立ちます」
するとレオンがはっとした様子で老人を見た。
「よろしいのですか?」
驚くジェシカに、老人は穏やかに答える。
「ええ。レオンを王族や貴族共の諍いに付き合わせたくはありません。これは影の総意です」
「でも他の方々は?」
「ご安心ください。若い者達から順に、上手く国から離脱させる手はずになっております。まずレオンが「お嬢様の口封じ」という名目で国を出ます。そして出国した後、旅先から我が一族を脱出させる計画です」
老人の計画にジェシカはなる程と頷いた。
「口封じが失敗しただとか、理由を付ければ応援を呼べるものね。そういう計画なら協力するわ」
「勘違いしないでください」
レオンは進み出ると、胸に手を当てて丁寧に頭を下げる。
「祖父の計画は本当です。ですがお嬢様、俺は俺の意思であなたを守りたいんです。どうか俺をお連れください」
視線には揺るがない忠誠と、ジェシカに向ける強い想いが浮かんでいる。
「贔屓目抜きに、レオンは優秀ですよ。剣も使えますし、旅の護衛には申し分ありません」
老人が誇らしげに言う。レオンは耳まで赤くしながら、しかし真剣な声で続ける。
「お嬢様をお守りしたいんです。どうか、お供させてください」
ジェシカは一瞬だけ目を伏せ、そして柔らかく笑った。
「分かったわ。よろしくね、レオン」
その一言に、レオンがほっとしたように微笑む。老人も安堵の息を吐き、二人の前へ静かに道を示す。
「どうかご無事で。南方の道は長いですが……あなたなら、きっと大丈夫です」
ジェシカは軽く頷き、レオンと共に新しい旅路へ踏み出した。
監視も、縛りも、国家機密もない場所へ。
自分の人生を歩くために。




