1-16 迷宮都市への布石
帝国歴705年:7月10日
帝国中央教会・大聖堂地下 円形議事堂
蝋燭の炎が石壁に刻まれた聖典の文言を揺らし、議事堂は静かに呼吸していた。
枢機卿たちは席に着き、議長席のラファエロが柔らかな声で切り出す。
「――それでは、次の議題に移りましょう。ヴァル=グラード修道院の件について」
迷宮都市。地下に広がる巨大な階層型ダンジョン。
信仰と冒険、秩序と混沌が交錯する都市。
そして今、修道院と冒険者ギルドの確執が限界に達していた。
「聖遺物の共同管理は破綻寸前です。修道院は神聖性を主張し、ギルドは探索権を譲らない。第七層の封印が揺らげば、都市全体が混乱します」
実務派のセシリアが報告書を開く。
「信仰秩序の再構築が急務です。ですが、従来の枢機卿派遣では、交渉が進みません」
それを聞いて保守派のヴォルフガングが眉をひそめる。
ここにエリシアが居たならば、彼の頭を指差し、こう言うだろう。「あ、ザビエルだ」と。
「またあの令嬢を使うつもりか。実務主義で迷宮に乗り込むなど、教会の威厳が保てん」
「威厳は、現場で役に立ちますか?」
ラファエロは微笑む。
「彼女は、信仰と現実の両方を見ている。迷宮都市のような“混沌の秩序”には、彼女のような調停者が必要です」
「エリシアに任せるのか」
「ええ。彼女にしか、お願いできませんわ」
蝋燭の炎が揺れ、議事堂に静寂が戻る。
次なる転勤令嬢の旅路は、祈りと剣と封印の狭間へ――。
ところ変わって同日、聖女庁。
視点:聖女ミレーネ
聖女庁の執務室は静か。
窓辺の白薔薇が夕陽に照らされ、淡く揺れている。
私は机に肘をつき、崩れた派閥図を見つめていた。
「……まさか、ラファエロ枢機卿がエリシア側に回るなんて…中立ではなかったということね。」
彼女はエリシアの父・グランディール公爵の学院同期。
その一手が、聖女派の均衡を大きく崩した。
次の議決で、聖女派は劣勢に立たされるのは目に見えている。
再編、説得、資金の再配分――やるべきことは山積みだ。
そのとき、扉が勢いよく開いた。
「ミレーネ、いるか!」
ノックなし。私は眉をひそめる。
「……レオニス様。ノックくらいはしてください」
「え? ああ、すまん。急いでたんだ。お前が落ち込んでるって聞いて、すぐに来た」
落ち込んでいる?違う。
私は怒っている。
そして、戦略を練っている。
「昨日、良い詩を読んだ。“薔薇は散っても、香りは残る”というものだ。お前にぴったりだと思ってな」
……それ、今言う? とうかなんでこの場面で詩を持ち出す?
私は資料をまとめながら、彼の言葉を聞き流す。
「それに、落ち込んでるお前を見るのは私の趣味ではない。元気を出すのだ。私がそばにいるんだから」
趣味って何。
笑う私を見るのが趣味ということ?冗談じゃない。
私は書類を閉じ、彼を見た。
「レオニス様。お気持ちはありがたいですが、今は“香り”より、“票”が欲しいのです」
「票か。なるほどな。では私が側仕えに命令しよう。“ミレーネに投票せよ”と。私の名前を使うといい」
私はそっと額を押さえた。
選挙の話じゃないんだよ。
側仕えじゃ意味ないんだよ。
これは……同じセリフを延々と繰り返すRPGのNPCよりひどい。
無料のAIでももう少しまともな返答が返ってくる。
……エリシアの報告の中にあった“ポンコツ”って、もしかしてこの人のことだったのかも。
私はひどく後悔している。
最初は乙女ゲームに似ていると思って、皇子様だし、顔はイケメンだったからエリシアからレオニスを取り上げるのに必死だったけど、こんなに空気が読めない人とは思わなかった。
学院ではこの皇子、猫をかぶってやがった。
それが解ったのはあの断罪劇の前日。
やっぱり婚約破棄はしないほうがいいわ。エリシア様とは和解しました。と言うつもりが遅く、私が知らないところで断罪劇を計画され、敢行された。
徐々に、私の中で何かが静かに崩れ始めた。
それは恋心ではなく、期待という名の幻想だった。




