1-15 環境改善と信仰再生 ― 修道院、熱帯雨林仕様
「まずは湿度。次に虫。そして最後に、謎の鳴き声。」
私は修道院の中庭で、手製のチェックリストを広げていた。
“スローライフ”のために必要な環境改善項目は、すでにA4用紙8枚分に達している。
え、A4用紙なんてあったっけ?いやでも、使いやすい紙の大きさを追及すると、やはりこの大きさに落ち着くのか。
「鳴き声については、昨夜調べました。南端の林に棲む大型の樹上獣が原因のようです。夜行性で、寝言が……少し大きいようで。」
マリアンヌが静かに報告する。
いつの間にか背後に立っていたが、気配はまるでない。
さすが隠密部隊最強。
修道服の袖から、香草の束がちらりと覗いている。
どうやら“眠りの香”を調合済みらしい。
「湿度は魔道具で調整できる。教会本部から貸与された“空気清浄結界”を設置すれば、快適な湿度に保てる。」
ユリウスが冷静に補足する。
赤ペンではなく、今回は“青ペン”を使っている。
環境改善モードらしい。
それと虫の対策だ。
ぶっちゃけ前にいた修道院より寝苦しい。聞いてみよう。
「虫はどうします?この前、紅茶に羽根が浮いてました。」
「虫除け結界を三重に張ります。加えて、修道院の周囲に香草を植えました。虫が嫌う香りです。」
マリアンヌの報告は簡潔で、的確だった。
彼女の静かな働きが、修道院の空気を少しずつ変えていく。
「あと、水回り。シャワーが“打たせ湯”みたいな勢いなんですけど。」
「それは修道院長が“修行の一環”として設定したらしいです。」
「修行で水圧を上げる意味とは。」
「魂が洗われるそうです。」
「物理的に皮膚も剥がれそうだな。」
ユリウスはメモを取りながら、静かに頷いた。
査察官、皮膚の安全にも配慮するタイプ。
「では、水圧を“癒しモード”に変更。鳴き声対策として、防音結界を寝室に設置。茶葉は湿度管理庫に移動済みです。」
マリアンヌが提案する。
癒しモードねぇ。なんか高そうだな。
ピンキリだけど別売りのシャワーヘッドって、水が出てくる穴の数と形状が違うだけで、なんであんなに値段に差があるんだろうね。
家のシャワーヘッド壊れた時、ホームセンターに買いに行って目玉飛び出たことあるよ。
なに?ミストシャワーって。
それ出すだけで1万円超えるとか。
設置してるホテルから盗まれたこともあるとか。
寂しい独身男には必要ありませんな。
私はチェックリストに丸をつけた。
湿度、虫、水圧、鳴き声――すべて改善の目処が立った。
そして、環境だけでなく、修道院の“空気”も変わり始めていた。
聖女派の信者たちは、奇跡の“演出”が暴かれたことで一時は混乱したものの、私の冷静な説明とユリウスの査察結果の公表によって、次第に“信仰の再構築”へと向かっていた。
「奇跡が偽物だったとしても、私たちが救われた気持ちは本物でした。」
そう語った修道女の一人は、セラフィーナの元を離れ、改革案に協力するようになった。
信仰とは、演出ではなく、心の在り方――その言葉が、少しずつ浸透していく。
そして、セラフィーナ。
彼女は一時的に修道院の奥に籠もっていたが、数日後、静かに姿を現した。
かつての“聖女の微笑”は影を潜め、代わりに、どこか現実を見据えた瞳をしていた。
「私は……信仰を、物語にしてしまったのかもしれません。」
その言葉に、私は何も返さなかった。
彼女の中で何かが崩れ、そして再び築かれようとしているのなら、それは彼女自身の物語だ。
ユリウスはその様子を見て、ただ一言。
「演出を捨てた聖女は、信者に何を見せるのか――興味深いな。」
マリアンヌは静かに、セラフィーナの背後に立っていた。
護衛ではなく、監視でもなく、ただ“見守る”という距離感で。
修道院は、奇跡の舞台から、信仰の再生へと変わりつつある。
そして私は、ようやく紅茶を淹れた。
香りは完璧。温度も理想的。
この一杯こそ、私が求めていたスローライフの象徴。
「……これで、ようやく落ち着ける。たぶん。きっと。願わくば。」
その瞬間、遠くから小舟の音が聞こえた。
しばらくすると波の音に紛れて、控えめな足音が近づいてくる。
私は紅茶を見つめた。
飲む前に転勤を告げられるのは、もはや様式美。
「……奴だ。奴の気配がする。ポンコツ君の…。」
マリアンヌが静かに背後に立ち、香草瓶を握り直した。
ユリウスがペンを置いた。
そして、静かなる破滅の使者が、再びこの修道院に足を踏み入れようとしていた。
次回へ続く。




