継続は力なりだよね⑨
ボスを倒して戻る。そう決めたのに、すぐに決断は揺らぎ、私は唇を噛んだ。
四年間の秘境での修練、三日間の探索。
その果てにたどり着いたこの場所こそ、319階層の最奥――ボス部屋へと繋がる扉。
「……ここを越えれば、転送装置……」
声が震える。
扉に両手をかけ、全身の力を込めて押した。
重厚な石扉が軋み、黒い隙間が広がっていく。
⸻
踏み入れた瞬間、ガラリと空気が変わった。
両脇に並ぶ松明が次々と灯り、ぱちり、ぱちりと乾いた音を立てるたび、恐怖が増していく。
光が走り、広間を照らす。
――広い。
天井は高く、奥行きは百メートル以上。
冷たく湿った石畳が、どこまでも広がっている。
その中心で、息づく気配があった。
低い唸り声。
圧倒的な威圧感。
暗がりから、ゆっくりと現れた。
⸻
巨大な白狼
それは狼だった。
だが、私がこれまでに見たどんな狼とも違う。
体長は五メートルを超え、白銀の毛並みは松明の光を反射して冷たく輝いている。
双眸は蒼く燃え、ただ見ているだけで足がすくんだ。私は安全のため、すぐに気配遮断をかける。
「……これが、319階層のボス……」
息が震え、喉が張り付く。
全身から汗が噴き出し、足が勝手に震え始める。
怖い。
秘境でどれだけモンスターを撃ち抜いてきたとしても――これは違う。
白狼が首を低くし、しばらく視線をギョロリと動かすと、牙を覗かせ、そのまま地を蹴った。
⸻
「シ、シールドッ!」
反射的に展開した結界が、巨大な爪を受け止める。
轟音。
火花が散り、床石が砕けた。
「きゃっ……!」
次の瞬間、結界に亀裂が走り、一撃で砕け散る。
衝撃波に体が弾かれ、私は石壁に激しく叩きつけられた。
肺が潰れ、息ができない。
「ごほっ……か、はっ……!」
喉から血が滲み出る。
胸が焼けるように痛い。
「い、痛い……なにこれ……やだ……」
両腕で体を抱え込む。
怖い。怖い。
こんな痛み、初めてだ。
頭が真っ白になり、涙が視界を滲ませた。
⸻
白狼が低く咆哮した。
鼓膜が裂けそうで、全身が震える。
恐怖と痛みで膝が笑い、立ち上がれない。
心臓は暴れ、呼吸は浅く早い。
「……いや、死にたくない……!」
その瞬間、巨体が跳び、無慈悲に爪が振り下ろされる。
「シールド!! もっと……強くぅっ!」
必死で魔力を込めた。
眩い光が爆ぜ、壁が形成される。
爪が叩きつけられ、世界が揺れた。
結界が軋み、亀裂が走る。
砕け散る直前でなんとか持ちこたえ、直撃は防げた。
だが、魔力はごっそりと削られた。
「はぁ……はぁ……むりだよ……こんなの……」
背中が壁に張り付いたまま、私は震える手をベルトに伸ばした。
事前に差し込んでいた、癒しの水ボトルを掴み、蓋を歯で引きちぎるように開け、一気に飲み干す。
冷たさが喉を通り、体を駆け巡る。
痛みが和らぎ、視界が少しだけ澄んだ。
「……でも、生きて帰るんだ。あきらめちゃだめだ」
⸻
胸を上下させながら、私は立ち上がった。
手が震える。足が勝手に後ずさる。
でも――越えなきゃいけない。
「……黒炎閻魔――三式!」
叫ぶと同時に、掌に黒い閃光が形成される。
黒線は即座に走り、白狼の胸を同時に狙った。
轟音。
黒炎が石畳を抉り、壁を削り取る。
だが――白狼の姿はそこにはなかった。
「――えっ!?」
矢が放たれる直前、白狼は跳躍していた。
三本の黒線は空を切り、床を崩壊させただけ。
次の瞬間、背後に影が迫った。
⸻
「っ!!」
振り返る間もなく、巨体がぶつかってきた。
薄いシールドを展開することが限界だった。意識が遠のくほどの衝撃。体は宙を舞う。
壁に叩きつけられ、石片が降り注いだ。
「あっ……あああぁ!」
視界が白く弾け、全身が痛みに焼かれる。
腹部に石片が刺さり、血が飛び散る。
服が裂け、皮膚が焼けるように痛む。
「いたい、いたい、もうやだ……!」
涙が止まらない。
頭の中で声が響く。――死ぬ。次で絶対に死ぬ。
⸻
立ち上がろうとするが、足が震えて動かない。
膝が笑い、床に崩れ落ちる。
白狼の青い瞳がこちらを射抜き、息が詰まる。
「こ、怖いよ……いや」
爪が振り下ろされる。
反射でシールドを展開。
だが、魔力を込めきれず、壁はあっさり砕けた。
鋭い爪が頬をかすめ、熱い痛みが走る。
「ひっ……!」
視界が赤く染まり、頬から血が滴った。
⸻
必死にベルトのボトルを探る。
手が滑り、落としそうになる。
「お願い……お願いだから……!」
震える指で蓋を開け、癒しの水を流し込む。
冷たい液体が喉を通ると同時に、石片で抉れた皮膚がじわりと塞がっていく。
「はぁ……はぁ……」
肩で荒く息をしながら、私は壁に背を預けた。
まだ動ける。まだ、なんとか生きてる。
白狼は一歩、また一歩と近づいてくる。
爪が石畳を抉り、牙からは唾液が滴り落ちた。
「っ……怖い……でも……やるしかない」
体は震えていた。
足は動かず、心臓は壊れそうに打ち続ける。
それでも――私は掌を構えた。
「黒炎閻魔――二式!」
両手から放たれた二本の矢が、白狼を挟み撃ちにするように走る。
黒炎が空気を焼き裂き、轟音が広間を震わせた。
――だが、白狼は素早く前へ飛び出した。
一本目は躱され、二本目が肩を掠める。
毛皮が焼け、血煙が散った。
「や、やった……当たった!」
胸が震える。
初めて傷をつけられた。ボスにも通用する。
だが、白狼は痛みに怯むどころか、青い瞳を爛々と光らせた。
次の瞬間、怒りを帯びた咆哮が広間を揺らす。
白狼が低く身をかがめる。
空気が張り詰め、殺気が肌を切り裂いた。
巨体が消えたかのように加速し、目の前に現れる。
私は叫んだ。
「シールド!!」
魔力を全力で込め、光の壁を展開する。
爪がぶつかり、轟音が広間を揺るがした。
結界が震え、火花を散らしながら耐える。
「う……ああぁぁっ!」
全身が焼け付くように熱くなり、膝が崩れそうになる。
必死で踏みとどまり、叫びながら魔力を注ぎ続けた。
――ぱきり。
結界が砕け散り、衝撃が体を突き抜けた。
私は床を転がり、血を吐いた。
「がはっ……っ……!」
喉に鉄の味が広がる。
死ぬ。今度こそ死ぬ。
脳裏でそんな言葉が何度も響いた。
⸻
「……っ、もう……これしかない……!」
震える体を無理やり起こし、残る魔力を全てかき集める。
黒炎が掌に渦を巻き、三本の矢が形成される。
さらに上乗せするように力を叩き込み、光が歪む。
「黒炎閻魔――三式、改っ!!!」
轟音とともに三本の矢が放たれ、広間を焼き尽くす。
白狼が跳躍し、二本を避ける。
だが一本が脚を直撃し、黒炎が肉を抉った。
「……っ!」
白狼が初めて苦鳴を上げ、巨体が揺らいだ。
床石が砕け、血が滴り落ちる。
「当たった……!」
だが次の瞬間、膝が折れた。
視界が揺れ、体が痺れる。
全身から魔力が抜け落ち、何も残っていない。
「……うそ、魔力……もうない……?」
膝をつき、床に手をついたまま立ち上がれない。
胸は焼けるように痛く、呼吸は喉で詰まる。
手は震え、視界は赤黒く滲んでいく。
「……あ、あれで……仕留めきれないなんて……」
魔力は空っぽ。
白狼は、まだ立っている。
脚を抉られながらも、その瞳は蒼く光り、怒りを増したかのように私を睨んでいた。
低く唸る声。
爪が石畳を削りながら、一歩、また一歩と迫ってくる。
「……癒しの水……の、飲まなきゃ」
胸の奥がきしみ、全身が震えた。
体が勝手に後ずさるが、もう壁に追い詰められている。
逃げ場はない。必死にボトルを掴もうとするが、震える手は思うように動かない。
「……いやだよ……」
声が震え、涙が頬を伝う。
全身が硬直し、心臓が破裂しそうに打ち続ける。
恐怖が頭を支配し、思考が真っ白になる。
白狼の咆哮が広間を揺らす。
牙が開かれ、巨体が跳び上がった。
⸻
「……いやだ……!!」
咄嗟に手を胸に当て、残っていたわずかな魔力を無理やりかき集めた。
血管が裂けそうに痛い。
頭が割れそうだ。
でも――生きたい。その一心で。
「気配遮断……最大展開っ!」
光が弾け、全身を覆った。
存在が揺らぎ、空気に溶けるように姿が薄れる。
⸻
白狼の牙が床を抉る。
石畳が砕け、破片が飛び散る。
ほんの一歩分の差で、私は飲み込まれなかった。
「……っ……!」
足が震える。
それでも、体を無理やり動かし、なりふりかまわず、入口の扉へと駆け出した。
息は乱れ、胸は痛み、魔力切れで視界が歪む。
ただ一歩、一歩――生き延びるためだけに。
背後で白狼が咆哮した。
耳を裂くような音に全身が震えたが、それでも振り返らなかった。
扉をすり抜け、森の空気を吸った瞬間、足がもつれて崩れ落ちた。
肩で必死に息をしながら、床に倒れ込む。
「……無理……あんなの勝てない……」
声が震えた。
白狼の姿は見えない。扉の奥に閉じ込められている。
けれど、その咆哮はまだ耳にこびりついていた。
全身に残る痛み。裂けた衣服。血の匂い。
何よりも、初めて真正面から味わった「死の恐怖」が胸を締め付ける。
「……でも……生き延びた……」
涙を拭い、フードを深く被った。
心臓の鼓動はまだ狂ったように速い。
それでも、かすかに涙混じりの笑みが浮かんだ。
「私生きてる……」
そう呟き、私は再びベルトの癒しの水を掴んだ。
――命をつなぐ冷たい液体を、震える唇に押し当てながら。