覚悟と誓い(21)
境界線が静かに閉じ、秘境の光はもうそこにはなかった。
苔の森に戻った空気は冷たく、ほんの少し現実に引き戻される感覚がする。
私はふと隣のアルさんへ目を向けた。
黒曜石の瞳が、どこか落ち着かない。視線が何度も剣の柄へ行き来し、今にも抜きたそうに指先が動いている。
(……スキルを、試したくて仕方ないんですね)
胸の奥で小さく笑みが浮かんだ。
私は深呼吸をしてから、静かに声をかける。
「そろそろ130階層まで上がりましょう。……綾乃さんも、連絡が遅れて心配していると思います」
アルさんの肩が揺れる。
私は言葉を続ける。
「それに……私は魔力を使いすぎました」
小さく視線を落とし、ほんの少しだけ唇を吊り上げる。
「だから――当面のモンスターは、アルさんにお願いできますか?」
一瞬、沈黙。
けれど次の瞬間、黒曜石の瞳がぱっと輝いた。
「……任された!」
胸を叩き、少年のように笑みを浮かべる。
「僕が全部引き受けるから、白ちゃんは安心して回復してていいからね」
その声には、いつもの冷徹な仮面はもうなかった。
頼られたことへの喜びが、そのまま言葉に溢れている。
私はフードの奥で小さく息を吐く。
(……ほんと、わかりやすい)
足音が二つ、苔むした通路に響く。
130階層へ向けた道は、いつもより軽やかに感じられた。
苔の森を抜けると、岩肌に沿って通路が広がり、その奥から低い唸り声が響いた。
影が揺れ、複数のモンスターが姿を現す。
アルさんが一歩前に出て、私に軽く手をかざす。
「白ちゃん、ここは僕に任せて。……それに、見ておいてくれた方が、連携も取りやすいよね」
黒曜石の瞳が真っ直ぐに光を宿す。
私は小さく息を整え、彼の背へと視線を預ける。
「……それじゃあ、お言葉に甘えますね」
わずかに下がり、フードの奥で観察に徹した。
アルさんは剣を構え、前方のモンスターを鋭く見据える。
そして――
「秘……奥義……たぁぁんくぅぅとっぷぅぅっ!!」
岩壁に響き渡る叫び。
剣が閃き、嵐のような斬撃が一直線に駆け抜ける。
風圧が苔を吹き飛ばし、モンスターの咆哮が掻き消えるほどの衝撃。
次の瞬間。
巨体は一刀両断に裂け、粉塵と共に崩れ落ちた。
「……っ」
私は思わず口を押さえた。
圧倒的な剣技に息を呑む――けれど。
「……タンクトップって、なんですか……」
気づけば引き笑いが漏れていた。
アルさんは振り返り、右腕を押さえながら苦しげに顔を歪める。
「くっ……これが、《断空突風》の反動か……」
低く呟き、黒曜石の瞳を細める。
その姿はまるで伝説の剣士――ただし、技名さえ聞かなければ。
通路に静寂が戻る。
私は唇を引き結びながらも、フードの奥で思わず呻いた。
(……もうタンクトップにしか聞こえない……どうしよう……っ)
必死に笑いを飲み込みつつ、息を整える。
目の前ではアルさんが剣を収め、まだ右腕を押さえていた。
「……やっぱり、技の反動、大きいんですね」
声をかけると、アルさんは真剣な顔で頷き、腕をじっと見つめた。
「そうみたいだね……特に、右腕の中指……いや、薬指の第一関節か……第二関節の痛みかもしれない……、薬指の……」
言葉が細かくなるたびに、真剣さが逆におかしさを増していく。
「……めちゃ限定的な痛みなんですね……」
思わず引き笑いが漏れてしまう。
フードの奥で肩を震わせながら、私は必死に真顔を作ろうとした。
でも――もう、次に彼が技名を叫んだら、私は耐えられないかもしれなかった。
それからは、問題もなく私達は進んだ。
モンスターが現れればアルさんが剣を振るい、私は周辺の索敵に専念する。
そして――やがて。
広間の空気がひんやりと変わった。
先に進めば、130階層へと続く大階段。
アルザスは足を止め、肩越しに振り返る。
「ここから先は、僕が先に行って確認してくる。……白ちゃんは、ここで待機しておいてね」
「え……でも、連絡はどうするんですか?」
そう口にした瞬間、アルザスは「あぁ」と小さく笑った。
黒い冒険者カードを取り出し、指先で軽く掲げる。
「あ、そうか、ごめんね、白ちゃんは使ったことないんだよね」
黒曜石の瞳が愉快そうに細まる。
カードの表面には淡い光が走り、符号のような刻印が浮かんでいた。
「これは冒険者カード。身分証でもあり、外と繋がる窓口でもあるんだ。
セーフティーエリアにある転送装置は、外でいう“Wi-Fi”みたいな性質があってね」
「転送装置が……Wi-Fi?」
「うん。簡単に言えば“電波”だ。セーフティーエリア内は、この冒険者カードで、外と連絡を取ったり、記録を送ったりできる。
このカードは色んな機能を兼ねていて……まあ、スマホみたいなもんだと思ってくれたら分かりやすいかな」
「……へぇ……そんな便利な仕組みが。私もほしいな……」
麻桜はカードを見つめ、胸の奥がひそかにざわめく。
(外の世界と繋がる……。私が知っていた頃とは、全然違う……)
アルザスはカードを軽く振り、口元に笑みを浮かべる。
「すぐ戻るから、安心して待ってて」
黒曜石の瞳が一瞬だけ真剣な色を宿す。
麻桜は無言で頷き、背にかかるマントを握りしめた。




