覚悟と誓い(18)
通路を抜けると、目の前に淡い光が揺らいでいた。
それは水面のように波打つ“境界線”。
「……ここが、入口……」
私はそっと指先を伸ばし、その揺らめきに触れる。
瞬間、柔らかい風のようなものが頬を撫で、胸の奥に懐かしさが込み上げた。
(……この感覚……知ってる……)
足を踏み入れた先に広がっていたのは、小さな秘境のエリア。
静かな小川がさらさらと音を立て、せせらぎが石に当たり淡い泡を散らす。
水辺のほとりには数本の樹木が立ち並び、緑がこの小さな空間を包んでいた。
「……ここ…… なんだか、なつかしいな……」
思わず、声が漏れる。
光苔の淡い揺らめきと、澄んだ水の匂い。
それは――かつて私が四年間、身を潜めていたあの秘境に似ていた。
319階層の、あの場所に。
胸の奥が熱くなる。
狭いエリアなのに、不思議なほど落ち着く。
ここにいるだけで、あの長い時間を過ごした記憶がよみがえるようだった。
エリアの中央に――それはあった。
淡い光を放ちながら、地面に横たわる一冊の本。
革表紙は時を経て色を失っているのに、その存在だけは確かに輝いていた。
「……これ…… スキルの書だよね」
私は慎重に歩を進め、そっと膝をつく。
かつて幾度も出会った、あの光の本。
何かを託すように、ただ静かにそこに在った。
淡く光る本に、私はそっと手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、光の粒がはじけて宙に舞い、私の身体を包み込む。
瞳を閉じると、膨大な情報が脳裏に流れ込んできた。
眩暈と共に、ただひとつの言葉が鮮烈に刻まれる。
――ユニークスキル《クロック》。
「……クロック…… 時計?」
それは“時間”を操る力。
対象の時間を進めたり、巻き戻したりできる。
ただし代償は重い――“全魔力”の消費。
さらに、スキルの説明の最後に、目を疑う文言があった。
(スキル取得時の最大魔力量によって……自分の、年齢を変えれる……?)
私は震える指先を見つめた。
この力を自分に使えば――。
「私の場合……五年、先か……五年、前か……に変われるの?」
未来の自分。
過去の自分。
どちらかの姿を纏うことができる。
けれど、それは重ねがけできない。
若返ったなら、一度“戻す”操作をしなければ再び発動はできない。逆も同じ。
時間を操ると言っても、それは万能ではなく――あくまで“制約”の中での操作。
「……でも…… 13歳にも、23歳にも、姿を変えれるってことだよね……」
胸の奥がざわつく。
思わず、自分の頬に触れてしまう。
この力を使えば、私は……「違う姿」になれる。
四年間、深層で誰にも見つからず過ごしてきた私にとって――これは、ある意味で“切り札”に思えた。
思わず喉が鳴る。
おそるおそる腰のポーチから小さな手鏡を取り出した。
「……少しだけ、試してみますか」
深く息を吸い込み、胸の奥の魔力を強引に叩きつける。
空気がねじれ、身体を包む感覚が揺らぐ。
――視界が一瞬、暗転した。
⸻
次の瞬間。
鏡に映った顔に、私は思わず息を呑んだ。
「……っ」
そこにいたのは、確かに“私”だった。
けれど頬のラインはすっきりと大人び、瞳の奥に影と光が深く刻まれている。
まだ幼さを残していたはずの顔立ちは、知らぬ間に艶やかに形を変えていた。
「……これが……五年後の、私……」
胸のあたりに視線を落とすと、体つきも変わっていた。
肩幅はわずかに広がり、胸元は今よりも確かに成長している。
腰のラインも女性らしく引き締まり、姿勢だけで漂う雰囲気が違っていた。
「……へへ……」
口元が思わず緩む。
鏡越しに、自分で自分に見惚れるなんて――。
「……わるくないじゃん」
フードの奥で、頬が熱を帯びる。
それでも目を逸らせなかった。
自分自身の未来の姿に、胸が高鳴る。
「……どうせなら」
私はマジックポーチを探った。
瓶や紙束の間から、指先に触れたのは小さなポーチと雑誌の感触。
――以前、ランダムBOXから引き当てた化粧品達と、メイク雑誌。
(気分転換に使った程度で、ほとんど眠らせていたけど……)
フードの奥で小さく息を吐き、私は腰を下ろした。
鏡を膝に置き、雑誌の折り目を片手で押さえながら、見様見真似で化粧をほどこしていく。
筆をすべらせ、色を差し、光を整える。
――やがて。
「……っ!」
鏡に映った顔を見て、思わず目をパチパチと瞬かせた。
大人びた五年後の私に、さらに薄化粧を重ねた姿。
輪郭はよりくっきりと際立ち、艶やかな光が肌に走る。
「……わぁ」
声が零れた。
自分で言うのもおかしいけど、思わず口元が緩む。
「……めちゃ、綺麗じゃない……ふふ」
頬が熱を帯びる。
視線を逸らしたくても、鏡の中の“知らない自分”から目が離せない。
「……え、これ……私ってわかんないじゃん……」
フードなしでも、誰が見ても“別人”にしか思えないだろう。
自分の変貌ぶりに、私はしばし言葉を失った。
「あ、いけない……」
秘境の奥で夢中になってしまった私は、慌てて、化粧品一色をポーチにほりこむ。本来の目的である、秘境エリアを手早く探索すると、足早に来た道を引き返した。
空間を抜けると、湿った空気が肌を撫で、見慣れた苔むした森が戻ってくる。
岩壁にもたれ、体育座りしていたアルザスは、私が戻る気配に顔を上げもせず、ぶつぶつと愚痴をこぼしていた。
「……僕も見たかった……実はさ、秘境なんて入ったことなかったんだよ……。レイデェーファーストだなんてカッコつけたけど、あんなの今の時代、あってないようなもんでしょ……フフ。僕はなんておろかなんだ……そう思わない、白ちゃ――」
そこまで言ったところで、ようやくこちらを見た。
「……っ!?」
黒曜石の瞳が、驚愕に大きく開かれる。
その顔は一瞬で赤くなり、口をパクパクと動かして言葉が空回りする。
「な……な、な……っ!? だ、誰……いや、いやいや……白ちゃん……? え!? 誰っ」
慌てて立ち上がり、足元でつまずきかける。
普段の冷徹な仮面はどこへやら、完全にテンパった青年の顔だった。
私は小首を傾げ、ひと呼吸置いてから微笑む。
「……お待たせしました」
アルザスは胸に手を当て、必死に呼吸を整えた。
そして無理やり表情を引き締めると、妙にキリッとした顔で背筋を伸ばす。
「失礼しました、レイデェー……」
深く一礼し、声を震わせながら告げる。
「き、君の……お名前を、お聞きしても……よろしいでしょうか……っ」
私は思わず吹き出しそうになり、慌てて唇を押さえた。




