覚悟と誓い(11)
ルシアンの口角が上がる。
「あ、そうだった。挨拶しないとだな。……悪かったな…… 気が利かなくて。挨拶だ。」
彼の指先が、何気なく弾かれる。
「――虚写境」
世界が揺れた。
観衆には何も起きていないように見える。だが、麻桜には見えた。空間がねじれ、突然、脳裏に警告音が鳴り響く。
空間が切り取られ――自分の背後に氷刃が出現していた。
「っ――!?」
氷の刃が迫る。咄嗟に詠唱。
「聖域天蓋!」
光の膜が展開し、氷刃を弾き返した。
霜片が散り、背後の壁に深々と突き刺さる。
困惑と緊張が胸を満たす。
ルシアンは楽しげに目を細めた。
「避けた? いや、“見えた”か。……やっぱり君、面白いね。いや、めんどくさいか?」
観衆がどよめく。
「白の亡霊が……ルシアンの一撃を……!」
――
ルシアンの声音は気だるいまま。だが、その瞳は愉悦を増していた。
「ま、挨拶はこれで十分。君がどんな奴か――もうわかった」
世界は固唾を飲んで見守っていた。
最強と呼ばれる二人が、ついに向き合ったのだった。
私は震える手を、無理やり押さえ込んだ。
(……いまのは、何? 氷系の攻撃スキル……にしては、妙だ)
床に散った霜の棘は、私の背から“遠ざかる”向きに伸びている。通常の吹き付けなら逆になるはず。壁にも、罠が発動した残光は見えない。
(召喚? でも、魔力の痕跡が薄すぎる……。ここで生まれた気配じゃない)
氷刃は冷たいはずなのに、空気の流れが不自然に淀んでいる。まるで――どこか別の場所で形を得たものが、切り取られてこちらへ滑り込んできたように。
試しに白炎を一本、糸のように放つ。だが、光は途中でふっと折れ、存在しない角を曲がって消えた。
(……角? 継ぎ目……?)
血が冷える。胸の奥で鼓動が跳ね上がる。罠でも、召喚でもない。なら――
(……“繋げた”。まるで、転移の“窓”……)
私は歯を食いしばり、聖域天蓋をもう一度結び直す。黒隠虚衣を濃く重ね、視線で灰の瞳を見据えた。
「……はぁ」
深呼吸ひとつ。恐怖と興奮がないまぜになる。
(確かめるしかない。やれる範囲で――手を伸ばす)
灰のフードの男が、欠伸混じりに指先を鳴らした。
「さっきの、考えてるだろ。気づいた? 背後から飛んできた氷刃。あれは、別に俺が作ったわけじゃない」
灰色の瞳が眠たげに細まる。
「本来なら、別階層のエリアに埋まってる罠だった。……ま、誰かが踏めば発動する仕掛け。俺はちょっと“位置”を借りただけ。向こうからこっちに、ね」
「…………」
私は息を呑んだ。罠――? そんなものが、いきなり背後から?
理解が追いつかない。けれど、確かに氷刃は“存在した”。
「……罠を、呼び込んだ……?」
「お、わかる? そう。どこかの片隅に眠ってる“条件”を引き寄せただけ。俺の手元に都合よく並べ替えた。……難しく考えるなよ。空間の方に少し交渉しただけ」
軽い口調。まるで、机の上の駒をずらしたと言わんばかりに。
(空間……座標を繋げて……罠の条件をずらす?)
心臓が嫌なほど早くなる。もしそれが本当なら、彼は戦場そのものを好きに弄れる。
そんな存在、聞いたこともない。
「…………」
でも、頭の奥に一つだけ、思考が浮かんだ。
(……私も、ダンジョン転移を使える。転送装置
を介せば、階層を飛べる。その理屈を……ほんの一瞬だけ応用できたら……?)
唇を噛む。
できるかどうかなんて、分からない。けれど――。
「……おもしろい」
私は胸の奥で静かに呼吸を繋ぎ、ただ彼の次の一手を待った。
ルシアンは灰色のフードの奥で、口の端を上げた。
気だるげな声は変わらない。だが、確かにそこには愉悦が混じっていた。
「……はぁ。めんどくせぇ。わざわざ説明してやったんだ。俺にしては、かなりサービスした方」
肩をすくめ、指先を軽く弾く。
空気がわずかに軋み、足元の光苔が一斉に怯えたように瞬いた。
「だから――今度は本気でやってみても、いいよな? 死ぬんじゃねーぞ……」
その声音は相変わらず眠たげ。
けれど観客には、雷鳴のような衝撃が走った。
「ルシアンが……!?」
「本気を……ここで!?」
広間全体がざわめき、息を呑む。
各国のクランもブラックランクも、一斉に視線を縫い止める。
麻桜は息を詰め、フードの奥で目を細めた。
冷静を装いながらも、心臓の奥で警鐘が鳴る。
(……“本気”って、どこまで……? 空間? 時間? それとも……)
世界最強と呼ばれる男の軽口が、まるで宣戦布告のように広がっていく。
ルシアンは片手を軽く上げた。
その仕草ひとつで、空気が別物に変わった。
「ほら、白の亡霊。挨拶の次は――試験だ。めんどうだが、俺が試してやる。プラチナランクってのは、どんな強さだ?」
気だるい声。だが、皮膚がひりつく。
いつでも空間を切り裂ける、そんな圧。
(……この人、ほんとに強い。今までのボスよりも……こんな殺気感じた事ない)
観衆のざわめきすら消え、場は張りつめた静寂だけに支配された。
この瞬間、誰もが理解していた。
――次に起きるのは、歴史に残る衝突だと。




