覚悟と誓い(10)
149階層――ボス部屋前。
空気は熱くも冷たくもなく、ただ“焦げた匂い”を帯びていた。
岩肌に無数の黒い穴が開き、そこから赤橙の燐粉が絶え間なく漏れている。
私は深呼吸し、フードを直した。
双蛇の腕輪が脈を刻み、鼓動を整える。
「……行くよ」
扉を押すと、地鳴りのような羽音が迎えた。
――
そこは燃え落ちた蟲の墓場のような光景だった。
床一面に炭化した死骸が転がり、その中心で“帝”は鎮座していた。
六肢を持ち、甲殻は黒曜石のように硬質。
広げた翅は炎の紋様を宿し、振動のたびに赤黒い火花を散らす。
「っ……!」
次の瞬間、爆ぜた。
翅が一度打たれるだけで、視界全体が火の粉に染まる。
熱ではない。空気が着火し、酸素そのものが炎に変わっていく。
「白炎白夜――三十式、一閃白夜!」
閃光が駆け抜け、蟲帝の翅を焼き裂く。
だが、焦げた殻がすぐに割れ、内側から新たな翅が芽吹いた。
「再生……!」
床下から触角のような炎の蔓が伸び、足首に絡みつこうと迫る。
私は跳び、青炎の陣を展開する。
「青炎晴天――第十式!」
蒼炎が奔流となり、床全体を呑み込んだ。
炎の蔓は焼き切れたが、蟲帝はその中央で身を震わせ、さらに巨大化していく。
「面倒……だけど、ここで終わらせる」
掌を胸前に掲げ、魔力を圧縮する。
白と青を重ね、さらに黒を呼ぶ。
「黒炎閻魔――改!」
放たれた漆黒の奔流が、空間ごと抉り、蟲帝を直撃した。
甲殻が砕け、胸奥の燐光を焼き尽くす。
断末魔の羽音が洞窟全体を震わせ――やがて、炎ごと消えた。
残されたのは焦げた殻片と、赤黒い宝珠。
「……よし」
息を整え、私はマントを翻した。
――
その後の探索は、滑らかだった。
148、147、146――確実に上を目指す。
綾乃との約束が、胸を押していた。
「……もうすぐ、120階層……」
フードの奥で、小さく微笑む。
――
141階層に辿り着いた瞬間。
空気が揺れた。胸の奥にまで振動が響く。
光苔が一斉に脈を打ち、床が低く唸る。
「なに……これ……?」
掌まで震えが届く。
遠くの階層で、何かが“繋がった”のを確かに感じた。
立っているだけで、心臓の鼓動が無理やり合わせられていく感覚。
理解できない。
けれど、ただ一つ分かる――“世界のどこかで、何かが繋がった”。
私はまだ知らない。
その瞬間、ルシアンによって140階層で石碑が刻まれ、310階層までの転送装置が連結したことを。
140階層・ルシアンサイド
刻名を終えたルシアン・ヴェリスは、退屈そうに肩を回す。
「……あーあ。やっちゃったな。これでまた騒がれる。いや、それでいい。働かないと、アイツらうるさいし。これで少しは寝れる。」
コートの裾を払って、背を向ける。
だが、ふと立ち止まり、目を閉じた。
耳ではなく、皮膚でもなく。
空気の粒立ち、階層から伝わる“歩幅”。
「……ふぅん」
口元がわずかに緩む。
「いるな。“白”。白の亡霊か?まあ、どっちでもいいのか。……すぐ下の方だ。足音が、はっきり聞こえる」
誰もいない石碑の間で、彼だけが確信する。
白の亡霊が、自分に近づいてきている――と。
「へぇ……会えるじゃん。まずは挨拶。いや、攻撃すればいいか?まあ、どっちでもいい。挨拶に変わりはない。そう、挨拶だよ。」
軽口のように吐いたその言葉は、
静寂の空間に吸い込まれていった。
140階層セーフティーエリア。
静謐を破るように、各国の旗が立ち並んでいた。ロシアの赤、アメリカの青白、WDAの紋章、中国の黒金。磨かれた兵装が壁際に整然と並び、クランごとの天幕が張られている。
誰も動かない。だが、誰もが臨戦態勢にあった。
石碑は、すでに光を宿している。刻まれた名は――“L”。
その意味を理解できる者は少ない。だが、ここに集ったトップランカーや管制の通信を受けている者なら、誰でも気づいていた。
――ルシアン・ヴェリス。
世界最強の怠惰。
その灰のフードの男は、石碑のすぐ横に立ち、欠伸を噛み殺していた。
「んぁ……騒がしいなぁ。そんな睨まなくても、俺、もう“L”で刻んだし」
気怠い声。
それでも誰も近づけなかった。
その男が一歩動けば、世界の均衡が崩れる――誰もが本能で悟っていた。
その男が、2日間も、ここに居座り続ける意味を。
――
その時。
階段の下から、白い影が現れた。
ゆっくりと、しかし確実に。白のマントが静かに翻り、フードの奥の顔は見えない。
「……誰だ?」
「待て、カメラを回せ!」
「……顔が……映らない……!」
観測者たちのざわめきが走る。
その中で、最初に声を上げたのはあるクランの副官だった。
「白……! 白の亡霊だ!」
緊張が、爆ぜた。
各国の兵士が息を呑み、ブラックランクたちの視線が一斉に集まる。
だが、フードの人物――麻桜本人は、その全てを知らなかった。
彼女の胸にあるのは、ただ綾乃と交わした約束。
(……正体は絶対に、明かさないで)
万が一、ダンジョン内で他の冒険者と接触しても、自分の正体をバラしてはいけない。
その理由は、外に出た時に余計な混乱や危険を避けるため。綾乃と約束していた。
深く息を整え、視線を落とす。心臓の鼓動は早鐘を打っている。
――
その時、灰の瞳が彼女を捉えた。
石碑の傍らで眠たげに立っていた男が、初めて表情を変える。
「へぇ……これが“白の亡霊”。認識阻害か?うん、認識阻害だな。 君、男? 思ったより小柄じゃん」
麻桜はフードの奥で瞳を細める。
約束を思い出し、冷たく返す。
「……小柄で悪かったですね。あなたが“大きいだけ”だと思います」
その言葉に、ルシアンの口角が上がる。
「あはは……いいね。声までハッキリしないのか?まあ、いいか。強がりじゃなくて、本気でそう思ってる感じ。
……やっぱ来てよかったわ。退屈しない」
灰色の男と白の亡霊。
その会話に誰しも言葉を失っていた。
ただ、歴史が動いた瞬間だけが、全世界の観測者の瞳に焼きついた。
灰のフードに隠れ、ルシアンの視線は鋭く白の亡霊へと向けられていた。




