覚悟と誓い⑨
130階層セーフティーエリア。壁の光苔が淡く呼吸し、転送台の縁だけがまだ微熱を残していた。灰色のフードの男は片手で肩を回し、面倒くさそうに欠伸をひとつ。
「よし……じゃ、行きますか。……いや、別に“よし”じゃないけど。寝たいし。けど――プラチナランクの白がすぐそこ、って聞いたらさ。ね? ちゃんと挨拶しないと。そうだよ、挨拶。」
男――ルシアン・ヴェリスは、転送台の縁を軽く靴先で叩く。魔紋が怯えるみたいに揺れ、場の相位が一段低く沈んだ。
「十階層刻みの転送? うん、ルールは知ってる。……でも、“距離”はいつだって交渉できる。空間がね」
指を鳴らす。
「――虚写境」
彼の立つ床から、透明な“第二の床”がずれる。世界が一枚スライドし、視界の端が紙みたいに重なった。通路が直線になり、曲がり角が消え、昇降の階段群が同一平面に圧縮されて連なっていく。
「ルール違反じゃないよ。階段はちゃんと“踏んでる”。ただ、何段かまとめて“こちら側に借りてる”だけ。……ほら、急行運転。面倒は短く、ね」
灰のフードが風圧もないのに揺れ、彼の足取りに合わせて景色のほうが勝手に近づいてくる。数本の回廊、幾つもの踊り場、昇りと降りを気怠い歩幅で踏みしめるたび――距離は、消えた。
131、132、133――。
回廊のモンスターが現れるたび、彼は手を振るだけで“遭遇そのもの”を無かったことにした。斜め後方から忍び寄る爪も、天井から落ちる刃も、彼の輪郭に触れる前に別の座標へ滑り落ちる。無傷。無感情。
「わざわざ戦う理由、ないじゃん? 君ら、俺に用があるわけじゃないし。俺もない。……それともバカなの?」
淡々と、“距離”を片付ける。舌打ちも、やる気も、ない。ただ、歩く。眠そうに。
そして――139階層。
空気が変わった。硬い。張りつめた弦みたいに、触れればすぐビリつく。
巨大な広間に、色の違う天幕がいくつも咲いていた。各国の旗印。制式装備の列。磨かれた魔導兵装。要の地点には黒衣の影――ブラックランク。その奥、石造の巨大な扉。ほんの少しでも気配が触れれば唸りそうな重量を湛え、静かに“門”であり続けている。
戦闘は、起きていない。だが、火薬庫のふたの上で息を合わせているみたいな緊張が、全域に満ちていた。誰もが“最初の一歩”を待っている。最初に扉を押し、最初にボスを落とし、最初に140階層の石碑へ――それが、世界を繋ぐ“合図”になるのを知っているから。
「ふぁぁ……ピリついてるなぁ。うんうん、分かるよ、その気持ち。分かるけど――」
ルシアンは視線を上げ、扉を見た。フードの奥で、灰の瞳が退屈を少しだけ失う。
「――俺、待つの苦手なんだよね」
視線が、彼ひとりへ集束する。数十、いや百を超える“観測”が、瞬時に彼を測り――固まった。誰かが喉を鳴らし、誰かが握った貫手を緩める。耳に届くのは、装備が擦れる微かな音と、押し殺した呼吸。
「ブラック・イーエックス……?」
「ルシアン・ヴェリス……!」
「引け、刺激するな。やらかす気なら、誰も止められない」
牽制にも似た視線の雨を浴びながら、彼は肩をすくめた。
「ね、ちょっと“順番だけ”俺に。……あ、嫌? でも、君らが揉めてる間に時間だけが溶けてくの、俺は嫌でね」
誰も言葉を返さない。返せない。返した瞬間、均衡が崩れるのを、全員が知っている。
「大丈夫。すぐ終わる。ちゃんと“見せ場”、残しとくから、俺のだけど。」
気だるい独り言のまま、彼は歩いた。一直線に、石扉へ。
巨扉は、押しても引いても動かない。各国は話し合いが終わるまで、扉を封鎖していた。
彼は掌を軽く添えただけだった。
「――位相縫合」
扉の“こちら”と“向こう”が、一瞬だけ縫い合わさる。音はしない。だが、世界の縫い目がかすかに悲鳴を上げ、次の瞬間――扉の内側の冷気が、広間へ流れ出した。
「お先」
誰の許しも求めず、彼は滑り込む。誰も止めない。止められない。張りつめた広間に残ったのは、乾いた静寂と、信じられないものを見た瞳の集合体。
――139階層ボス部屋。
空はない。天井は牙のような岩柱で埋め尽くされ、床は無数の黒い鏡。踏めば波紋を返し、深さの感覚を狂わせる。中央、水鏡の湖心から、複数の影がじわりと起立した。
四肢、八肢、翼、角、冠。それらを“雪花”みたいな氷結晶が飾り、内側で凍った風鈴みたいに鳴っている。ひとつの怪物ではない。複数相の“意志”が一体に束ねられたような、階層主の気配。
「うわぁ、趣味悪いね。……いや、悪くはないか。派手なの、嫌いじゃないよ」
影がこちらを“見る”。すぐに、判決が下る。侵入者――抹殺。氷の矢が空気ごと枝分かれして、何百、何千という白の軌跡で彼を串刺しにしようと迫る。
「――虚写境」
白い雨は彼を通らず、後方の岩柱群へ転位して、遅れて爆ぜた。氷片が逆雪みたいに天へ昇る。ルシアンは髪の先を払って、退屈そうに目を細めた。
「当たらない矢は意味ないのわかんないのかね。あー……綺麗だね。――次」
床下の闇が反転し、黒い水面から腕が伸びる。地の底へ引きずり込もうと、銀色のローブへと迫る。
「無為断」
黒い腕の“存在”が、消える、跡形もなく失せた。水面だけが遅れて震える。彼は顎で次を促す。
「もっと、来て。飽きる前に」
天井の牙が一斉に落ちる。床からは白い氷柱が針山みたいに噴き上がる。左右から、背から、前から。逃げ道を消す。
彼は指で一点を差した。
「――終点指定」
全ての“刃”は、そこで止まった。時間ではない。存在の経路上に“ここまで”の朱が入る。刃はそこまでで役目を終え、崩れ、粉雪だけが彼の肩に降った。
「……つまらないなぁ」
退屈そうな吐息。だが、瞳の縁だけは微かに笑った。
「じゃ、おやすみ」
靴先で床を叩く。水鏡の面が円環に波打ち、階層主の胸奥――核に相当する位相が、露出した。彼は親指と中指を合わせ、軽く弾く。
「無為断」
音はない。光もない。ただ、“核”という記述だけが文章から消され、続く文章ががらんどうを抱えて崩れた。階層主は、抵抗すら許されず、輪郭を保ったまま粉々の白光に変わって消え――静寂が戻った。
「……寝たい」
ルシアンは肩を回し、踵を返す。床に残ったのは淡青の晶と、役に立ちそうで立たなそうな装飾片。彼は視線すら向けない。
「ガラクタに興味なし。俺が欲しいのは“面倒”だけ」
扉の奥――階段。140階層下り階段。彼はゆるく指を鳴らし、虚写境で“段数”を借りた。数歩で、到達する。
140階層セーフティーエリア。
静かな光が満ち、中央に石碑が立つ。到達者を待つ“口”。彼は手袋を外し、掌をそっと当てた。
『――名を刻む者よ、汝の名を示せ』
古い声。判定の律。
「……やだなぁ。目立つの、好きじゃないんだけど」
ほんの一瞬、黙る。だが、次に来る溜息は諦めの色をしていない。淡く笑い、言った。
「――“L”で。分かる奴だけ、分かればいい」
光が走り、文字が刻まれる。
L / 140階層到達
同時に、石碑の背が、初めて“音”を鳴らした。硬い、深い、地球の内側から鳴るような低音。セーフティーエリアの空気が一段澄み、見えない糸が遠いどこかに結ばれていく。
――連結開始。
十階層ごとに眠っていた“転送の核”が一斉に目を覚まし、相互に鍵を交換しはじめる。140から150、160、170――そして、深層の更に深層。途切れていた回路図が、ついには一枚の“路線図”として収束する。
最終到達――310階層まで、連結。
同刻。アメリカ合衆国ワシントンD.C.、WDA本部・管制層。
警告灯は点かなかった。代わりに、全スクリーンが同時に白く息をし、各国の管制網に繋がる“転送ログ”が滝のように流れ出した。
「転送核、連鎖起動!」
「140~310、全ラインでハンドシェイク! ――嘘だろ、全域連結だ!」
「署名確認……発信源は140階層石碑――刻名タグ“L”。」
「“BLACK-EX”……! やっぱり、彼が」
誰かが椅子を蹴って立ち上がり、誰かが額を押さえる。世界地図に乗る全転送拠点の灯が、一斉に“行ける”を意味する緑へ変わっていく。会議卓の端で、古参のオペレーターが乾いた笑いを漏らした。
「……あの人が“やる気ないふり”で本気出すと、いつもこうだ」
誰も反論しない。反論できない。皮肉でも茶化しでもなく、ただの事実として、世界が受け入れるしかない“結果”。
「全加盟国へ緊急配信。――繰り返す、140~310ライン、転送解放を確認。現地エリアの安全確認を行わないままの突入は厳禁だ。……いいか、絶対だ。今回は笑い事じゃない」
淡々とした号令。しかし声には、抑え切れない高揚と恐怖が同居していた。
139階層・広間。
静寂が波打つ。扉の向こうから、冷気ではなく――“解放の風”が吹き抜けた。各国のクラン、ブラックランクの視線が同時に扉へ突き刺さる。遅れて、石碑の連結音が広間の石床まで震わせた。
「連結……だと?」
「140、刻まれた! 刻んだのは――」
「“L”……ルシアン・ヴェリス」
誰もが、息を呑んだ。喧騒は起きない。起こせない。さっきまで鋭利だった空気が、今はただ黙って彼方を向いている。
灰のフード。相変わらず眠そうに、肩を回しながら。彼は虚写境で足場を一枚ずらし、140の転送台へ消えた。見送る誰もが言葉を失い、ただ、世界の秩序図が一枚ひっくり返った音だけが胸腔で反響した。
140階層・石碑前
ルシアンは石碑の縁を一度だけ指で叩き、気まぐれに空を見上げた。どこにも空はないのに、見上げずにはいられなかった。
「……さて。白の亡霊は、どこまで来てる?」
独り言。返事はない。だが、遠い深層で小さな、けれど確かな“歩幅”が刻まれている気配を、彼は確かに感じた。
「すぐ会える。だったら――寝る時間、減るなぁ。最悪。いや、最高なのか?」
口ではぼやき、目では笑う。面倒くさがりと世界規模の引き金。その矛盾を、彼は当たり前みたいに同居させる。
白光がふわりと彼を包み――転送台がゆるく息をした。
世界は今、140から310まで繋がっている。誰もがそこへ“行ける”。けれど――そこに“立てる”のは、ほんの僅か。
そして、白は。あの白い影は――
物語は、加速する。世界が望もうが望むまいが、面倒くさがりの指先ひとつで。




