覚悟と誓い⑧
アメリカ合衆国ワシントンD.C.
世界ダンジョン対策本部――WDA本部管制層。
警告灯は点かなかった。
ただ、壁面スクリーンの一角に“見慣れぬコード”が走った瞬間、室内の全員が呼吸を止めた。
「転送装置ログ……権限タグ“BLACK-EX”。」
「署名……通った。偽装じゃない。本人だ」
誰もが顔を上げる。
名前は言わなかった。だが、全員が理解していた。
――ルシアン・ヴェリス。
ブラックランクの中でも、異質。
世界が恐れているのは、ダンジョンの奥底よりも、彼が“動く理由”だった。
「行き先は……120階層セーフティーエリア」
「……今さら何を――」
「いや、理由はひとつしかない。白の亡霊だ」
沈黙が、管制層を支配した。
⸻
120階層セーフティーエリア。
淡い光苔が壁を照らす静謐の空間に、転送灯が白く揺れた。
現れたのは、長身の男。
鈍い銀のコートに、無造作にかけられたフード。
髪は黒でも金でもなく、光を拒む灰。
足音はしない。けれど空気だけが、彼の歩調に合わせて律動していた。
「……あー……やっぱ来ちゃったかぁ」
男は肩を回しながら、面倒くさそうに嘆息した。
「本当はねぇ、家で寝てたいんだよ。クッションに沈んで、冷たい飲み物置いて、あとは一日ぼーっとして……。それで十分。……それで“世界最強”って呼ばれるんだから、世も末だよなぁ」
誰も聞いていない。
だが、彼は淡々と喋り続ける。
「でもさ。面倒でも、時々は顔出さなきゃならない。でないと、あいつらが騒ぐだろ。『怠惰だ』『働け』って。……働いたら世界が壊れるの分かってるくせにさ」
コートの裾を払って、転送台を軽く蹴る。
魔紋が一瞬だけ怯んだ。
「――ま、きっかけはあるんだ。ほら、“白”。白の亡霊。すぐそこにいるんだって?」
片眉を上げ、フードの奥で目を細める。
「なに?……何ヶ月も潜りっぱなしで、150階層まで来てるって? バカじゃないの。いや、バカじゃないか。……だからこそ気になるんだよ」
彼はゆるく笑った。
「あー……ほんと、面倒くさいなぁ。でも……いいや。寝る前の運動くらいにはなるだろ」
指先で転送台をなぞる。
蒼い火花が、霧のように散った。
「じゃ、下から肩慣らしね。あのデカいヘビ――まだ生えてるだろ」
静かに呟き、彼は片手を軽く掲げる。
「ダンジョン転移。119階層」
白光が灯り、空気が折れた。
⸻
黒い空洞。
水底の湖心が静まり返り、ただの鏡面のように凪いでいる。
ルシアンは一歩、岩床に立った。
「ふぅん……まだ生きてる。あれだけ騒いで倒したのに、もう“別個体”が用意されてんのか。……ほんと、ダンジョンって律儀」
空気が震える。
水面が膨らむ。
次の瞬間、爆ぜた。
六本の首が蛇のように伸び、洞窟の天井を貫いた。
蒼白の鱗が煌めき、喉奥が膨らむ。
リヴァイア・レギア。
「あー……やっぱ面倒。声でけぇし、首多いし、臭いし……。でもまぁ……退屈よりマシか」
六首が同時に咆哮し、水圧の奔流を吐き出した。
壁を抉り、床を削り、全てを押し潰す暴威。
ルシアンは片手をひらひらと振った。
「――虚写境」
奔流が彼を飲み込む瞬間、空気が裏返った。
水流は彼を貫かず、洞窟の逆側から吹き出す。
まるで、彼を通り抜けて“別の場所”に流されたように。
「うん。やっぱりな。簡単すぎるだろう…… 何年もコイツが君臨していた? アイツらサボりすぎだろ。」
別の首が斜めから迫る。
水刃が鋸のように襲う。
彼は欠伸をしながら、指を弾いた。
「無為断」
直線の空間が裂けた。
音もなく、首の半分が消えた。
切断ではない。
その部分だけ“存在を終えさせられた”。
ルシアンはあくびを終え、肩を落とした。
「んー……眠い。これで肩慣らし終わりにしようか。あんまり長引かせると……ほんとに寝ちゃう」
最後の首が正面から光を孕む。
ブレスの直線。
彼は、指で“ここまで”と一点を指差した。
「終点指定」
白光は、そこまでで止まった。
一瞬の後、消滅する。
首もろとも。
残りの巨体も、遅れて音を立てて崩れ落ちた。
ルシアンはドロップの蒼珠を見下ろし、靴で軽く蹴った。
「いらない。宝石とか興味ないしな。俺が欲しいのは……もっと、面倒なヤツだ」
フードの奥で笑う。
「白の亡霊。……会ったら、ちょっとは退屈しのぎになるかもな…… 弱かったらどうする?また暇になるよな…… 」
彼は踵を返し、転送台へ歩いた。
「ダンジョン転送。130へ――っと」
白光に包まれながら、気怠い声が最後に残る。
「あーあ……帰って寝たいなぁ。でも、たまには見せとかないとだろ?はぁ…… めんどくさいな……」
白光が奔り、空間が裂ける。
残されたのは、彼のぼやきだけだった。




