覚悟と誓い⑦
199階層の石碑に掌を当てると、ひやりとした冷たさが指先から腕へと広がった。
刻んだ名が淡く光を返し、その輝きに合わせるように――綾乃の声が胸の奥で甦る。
『……半年後。120階層のセーフティーエリアで会いましょう。外のことは心配しなくていい。私が準備しておくから。121階層の石碑に名を刻んで二日後、信頼できる人を送ります。詳しい話はその時に――』
フードの影で目を細め、私は小さく息をついた。
「綾乃さん、未桜ちゃん……私のせいで尋問みたいに、色々聞かれたりしてないかな……うぅ、ごめんね」
誰にも届かない声。けれど吐き出さなければ、胸の奥が押し潰されそうだった。
石碑を見上げる。綾乃が語っていた仕組みが頭をよぎる。
十階層ごとにあるセーフティーエリアには石碑が置かれ、そこへ名を刻むことで転送装置が開放される――そう説明していた。
もし私が、まだ誰も到達していない120階層の石碑に名を刻むことができたら……。
それをきっかけに、外からも120階層のセーフティーエリアへ転送できるようになるかもしれない。
(本当にそうなら、もっと上――310階層のセーフティーエリアにだって繋がる可能性がある)
その未来を想像して、胸が熱くなる。
だが同時に、背筋を撫でるような不安も広がった。
転送が外と繋がれば、冒険者だけでなく、ブラックランクや大規模なクランまでもが一気に押し寄せるかもしれない。
私が、白の亡霊だと知られないだろうか。
綾乃さんが、言っていた。
白の亡霊が私だと分かれば、ダンジョンから出たとしても、恐らく普通の生活には戻れないと。
私は唇を噛み、視線を石碑から外した。
考えても答えは出ない。けれど、進むしかない。
「約束したんだ。……行かなきゃ」
石碑から掌を離し、足を前に出す。
冷たい石段が一段、また一段と足裏に伝わり、過去の記憶を踏みしめるように体へ重さを与える。
外へ出た二人。綾乃の瞳の強さ、未桜の小さな手の温もり――そのすべてが、今も胸に残っている。
私は彼女たちを無事に外へ返した。その選択は間違っていない。
だけど、“約束”を守れるかどうかは、これからの私次第だ。
白のマントが揺れ、影が通路に伸びる。
双蛇の腕輪が規則正しい鼓動で背中を押す。
「半年後、120階層……」
ぽつりと発した言葉は、空気に吸い込まれて消えた。
私は階段を上がり、198階層へと続く道へ足を踏み入れる。
未来へ繋がる約束を抱いたまま――
――
それから――時は静かに過ぎていった。
探索は順調に進み、気づけば季節をひとつ超えるほどの月日が経っていた。
白のマントに支えられ、自動マッピングとダンジョン転移を駆使して、私は階層を着実に積み重ねていた。
気が遠くなるような暗い道も、危険な罠も、数え切れない戦闘も――全部、越えてきた。
転送された“誰か”の痕跡は、まだどこにも見つけられていない。
私の行動が本当に正解だったのか――答えはまだ、分からない。
それでも。
「……ううん。綾乃さんや、未桜ちゃんを助けることに繋がった。それだけは、間違いない」
フードの影で小さく笑う。
もうすぐ、私のわがままも終わる。
そう思えば、歩幅は自然と軽くなっていく。
――
目を開けた瞬間、胸の奥がすっと広がった。
ここは150階層のセーフティーエリア。壁の光苔が淡い緑を返し、空気は驚くほど澄んでいる。
「……よく寝たぁ」
小さく伸びをして、マジックポーチから癒しの水を取り出す。喉を潤し、顔を洗い、歯を磨く。
日常の動作が、ここではとても貴重だ。安心して眠れる夜があるだけで、体も心も軽くなる。
「順調……かな。体調も絶好調……やりますか」
呟きながら、視線を通路の奥へと向ける。
この数ヶ月で――もう150階層。
約束の場所まで、確実に近づいている。
石碑の光を背に、通路へ足を踏み出した。
冷えた風が頬を撫で、視界の端で自動マッピングが淡く展開される。
そこに描かれたルートは、もうはっきりと“空白”を示していた。
「……149階層のボス部屋、ね」
声は小さく。
けれど心臓の鼓動は強く、確かに戦いの時を告げていた。
――
その時、私はまだ知らなかった。
――外の世界で、“139階層”をめぐる覇権争いが、国家を巻き込んで燃え上がっていたことを。
140階層の扉が開けば、転送装置は一気に連鎖し、310階層までが外と直結する。
権利を握った者が、世界を制する。
世界は狂気じみた熱を帯びていた。




