覚悟と誓い⑥
氷の咆哮が岩壁を震わせ、吹雪が一段濃くなった。
白い霧は針のように頬を刺し、吐いた息すら凍って音もなく砕ける。
一歩、前へ出る。フードの影で視線を細め、薄く息を落とす。
「――聖域天蓋」
透明な天蓋が、砦のように私を包む。
肌にまとわりつく冷気が“膜の外”へ押し出され、呼吸が静かに整う。
続けて、存在の輪郭を夜へ沈める。
「――黒隠虚衣」
気配が薄紙を剥ぐように消え、白のマントが光を飲む。
双蛇の腕輪が小さく脈打ち、鼓動と歩調を揃えた。
巨体が動く。氷に覆われた熊――この階層の主は、前脚を振り上げるだけで、空間の温度を一段落とした。
天井から氷柱が連鎖して落ち、砕けた破片が散弾のように襲いかかる。
首をわずかに傾け、掌をさっと振る。
「――青炎晴天」
薄い青炎の幕がひとひら、ふたひら。
氷片が触れた瞬間、白い霧だけ残して消える。
視界が澄んだ刹那、私は間合いへ滑り込む。
「白炎白夜――六式」
等間隔の白が、心臓線の手前へ“点”で刺さる。
氷甲がきぃんと鳴り、光の粉が雪花のように舞った。
効いている――が、浅い。氷殻は分厚い。核にはまだ届かない。
熊の双眸が冷えて光る。
口腔に“白”が集まり、次の瞬間、凍結の息吹が奔った。
扇状の白刃が床を凍らせ、天蓋を軋ませる。
半身を捻り、息を一つ、低く。
「――間合い、大事だね」
黒隠虚衣を濃くして側壁の影へ沈む。
追いすがる冷息は天蓋で角度を変えられ、私の背をかすめて岩壁を白く塗った。
足元から鈍い震え。
熊の背に並ぶ氷棘が一斉に起立し、雷鳴じみた音とともに射出――氷矢の雨が空間を飾る。
前へ。
逃げず、踏み込んでいく。
「白炎白夜――八式、斜線」
斜めの矢列が、氷矢の軌道を“ずらす”。
弾道が交錯し、互いを砕き合い、空に白い火花が咲く。
割れた一条が頬を掠め、冷たさだけを置いて消えた。
熊の右前脚が振り下ろされる。
氷の大爪が地をえぐり、裂け目から吹き上がる寒気が私の足首を奪おうと伸びる――
それを待っていた。
踏み込みの“溜め”が生まれる、その一拍。
「――黒炎閻魔・一式」
黒が光を飲んで走る。狙いは関節の“中心”――動きの節。
熱は静かに、しかし深く。
熊は膝を折る。ほんの半歩。それで十分。
黒い尾をわずかに残し、私は掌を握る。
「……爆」
無音の膨張。遅れて来る重低音。
関節内で逆流した冷気が泡立ち、氷殻に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
巨体がぐらりと揺れ、床に白の粉雪が舞い落ちる。
追い打ちを掛けず、距離を半歩開けた。
深呼吸。視界の粒度が一段細かくなる。
“暴れる前に、動きを削る”。それが私の勝ち方。
熊は怒り、吠えた。
咆哮そのものが凍気で、音圧が天蓋を震わせる。
同時に、背の氷棘が新たに芽吹く――再生が速い。
今の密度では決め手にはならない。
私は天蓋の縁を結び直し、青炎の幕を床沿いに薄く滑らせた。
滑走路。足の“障害物”を無くし、刃だけを前へ運ぶための細工。
「白炎白夜――十二式、階」
等間隔の白を階段のように重ね、氷殻の薄い部位を選って穿つ。
一段、二段、三段――白い杭が連続して沈み、内圧をずらす。
熊の呼気が乱れ、吹雪のリズムがはじめて崩れた。
今度は天井が鳴る。
逆さの氷壁が降り、部屋そのものが冷凍庫の蓋に変わる。
逃げ場を消す“締め付け”。
わずかに笑って、低く囁く。
「……集中」
青炎晴天を扇形に展開。
接触面の温度を“ほんの一息ぶん”だけ上げ、重さの向きをそっとずらす。
落ちてくる氷板が天蓋の曲面に沿って滑り、床へ逸れる。
割れた破片が靴の先で跳ね、白い音だけを残した。
反撃。
熊は身を丸め、氷殻をさらに厚く纏う。
甲羅化――防御特化の姿勢。ならば、核までの道筋を“通す”。
私は、白を集めた。
「白炎白夜――二十四式、縫」
細い白糸が空に走り、ひとつ、ふたつ、みっつ――
氷殻の亀裂と亀裂を“縫う”ようにつなぎ、ひびを段差へ変換。
熱の通り道が、一筋できる。
熊の肩が沈む。
いける。けれど、まだ早い。
“届く前に、確かめる”。
手早く、癒しの水を喉に流し込む。
フードの影から視線を上げ、右掌を胸前で裏返す。
黒が、静かに深度を増した。
「――黒炎閻魔・改」
さっきよりさらに“静かな”黒。温度だけが上へ伸び、目にはほとんど映らない刃となる。
狙うは作ったばかりの熱路の最奥――核手前の“薄皮”。
黒が触れ、膜が一枚、音も無く剥がれた。
熊の体内で、凍気がうねる。
「……爆」
今度は、内側から“黒い花”が咲く。
霧のような霜煙が一瞬だけ逆流し、熊の胸甲がごそりと落ちた。
核の縁――“弱点”が、はじめて顔を出す。
熊が殺到する。
壁のような前脚。
私は床すれすれに沈み、青炎の薄膜で摩擦を殺して滑る。
爪は頭のすぐ上で空を切り、氷の風が後ろ髪を引いた。
着地と同時、短く笑ってささやく。
「――本気でいくよ」
白を最大まで引き上げる。
遠景が消え、世界の粒が私と獲物だけに絞られる。
鼓動が一つ、また一つ。
双蛇の腕輪が“いけ”と脈を打つ。
熊は最後の凍息を溜めていた。
口腔が眩い白で満ち、核を護ろうと、凍てつかせるつもりだ。
ならば、その瞬間を“撃つ”
私は一歩、前へ。
天蓋の曲面をわずかに傾け、息の角度を受け流す。
視界が吹雪で満たされる、その中心へ――白を、線にする。
「――白炎白夜・三十式」
間を置く。
音が沈み、空気が息を止める。
指先に、三十の星が整列する。
一本の“道”になる瞬間を、じっと待つ。
「――一閃白夜」
白炎が走った。
白が一本の槍に束ねられ、氷殻の“縫い跡”をなぞって一直線に貫く。
外殻、内殻、薄皮――そして核。
触れた瞬間、深い静けさののち、夜が白昼に反転した。
光の花が、体内から咲く。
青白い霜が弾け、氷棘が光の粉となって降り注ぐ。
熊の咆哮は音にならず、ただ“気配”の形で砕けて消えた。
体が一歩だけ後ろへ滑る。
遅れて来る冷風を天蓋で斜めに受け流し、白の余光が細雪に変わるのを見届けた。
静寂。
巨体は膝から崩れ、輪郭を保ったまま淡い粒子へとほどけていく。
床には、氷を閉じ込めたような蒼晶と、白く凍った革紐のドロップが残った。
息を一つ。
天蓋を薄くし、黒隠虚衣を和らげる。
頬を撫でる風は、もう刺さらない。
「……私の勝ちだよ」
床に落ちた蒼晶を拾い、光にかざす。
指先の中で、氷の花びらが一枚だけ揺れた気がした。
マジックポーチにしまい、革紐も丁寧に巻いて収める。
膝が少し笑う。
癒しの水を一本、キャップを開けて喉へ流す。
冷たさが内側から広がり、使い切った白が静かに沈静する。
視線を上げ、ボス部屋の奥を見渡す。
吹雪の気配は消え、空気は乾いた岩の匂いに戻っていた。
天井の氷柱はもう落ちて来ない。
――終わり。ちゃんと、倒せた。
扉の方へ向き直り、歩き出す。
白のマントがふわりと揺れ、足音を吸う。
双蛇の腕輪が「よくやった」とでも言うように、規則正しい脈で応えた。
「やっぱり、魔法に名をつけると、イメージしやすいね……」
残った冷気に一度身を震わせた。フードを整え、黒隠虚衣を薄く掛け直す。
聖域天蓋は膜だけ残し、体勢は軽い。
通路の向こう、扉の先――また未知の景色が待っている。
私は振り返らない。
氷の花が散った戦場を背に、静かに、深く息を吸う。
そして、前へ。
「うっ、寒いのは、きらいだ……」
この先の“空白”を、私の歩幅で埋めに行くために。




