覚悟と誓い④
208階層へと続く石段を登りきった。
湿り気は薄く、黒い岩肌は紙のように層を重ね、ところどころ銀の粉塵が光を返す。足音は白のマントに吸われ、空気だけが静かに流れていた。
「あ……うん、残念」
小さく呟く。
ここ――階層の入口に、石碑はない。
さっき209階層の通常エリアで“場違い”に見えた石碑は、たぶん秘境の合図かもしれない。少なくとも、この208階層には同じ気配がない。胸にあった引っかかりが、少しほどける。
私はフードの縁を整えた。
黒隠虚衣は薄く、聖域天蓋は肌に寄り添う膜だけ。双蛇の腕輪が小さく脈打ち、呼吸は軽い。歩ける。
エリアは三方向に分かれている。左は温い風、右は乾いた鉄の匂い、正面は無臭で静か。
私は視界の端に自動マッピングを展開した。薄い光線が走り、思考の上に地図が描かれていく。――209階層から319階層まで、私の脳裏には“歩いた線”が全部載っている。行ったことがある場所なら、目を閉じてでも辿れるくらいに。
「……検証、してみよっかな」
声は自分へ向けて。
さっき秘境で手に入れた、新しいスキル――ダンジョン転移。
使えるかどうかじゃなく、“どう使えるか”をここで確かめる。
私は空気を一度だけ深く吸い、胸の奥で魔力を束ねた。光が肌の下を走り、髪の先がふわりと揺れる。指先の神経が“集まれ”と言っている。そこへ、静かに言葉を落とす。
「――ダンジョン転移」
光が、纏う。
私の周囲だけ、白いひだが重なるみたいに明度が上がり、空間の輪郭が微かに歪む。薄い膜を何枚も重ねて、内側から押し出す感覚。音はしないのに、鼓膜の内側だけがふわっと浮いた。
視界が“ほどけ”、次の瞬間――世界が綺麗に組み直された。
そこは、209階層。
昨日刻印を入れた、あの石碑の前。
匂いも風も輪郭も、記憶のとおりに“そこ”へ揃っている。
「おぉ……」
自分の声が少し遅れて戻ってきた。
同時に、胸の奥がすとんと軽くなる――いや、抜ける。
魔力の“塊”がごっそり持っていかれた感触。足もとは大丈夫。でも、こめかみの奥がじんわり重く、視界に遅延が一枚だけかぶさる。
「う、転送酔い、だね……」
私はマジックポーチから癒しの水を一本抜き、キャップを外す。
「頭がクラクラするよ……」
喉へ冷たさが落ちる。
胃の下で小さく泡立つように、疲労がほどけた。
石碑に指先をそっと置いて位置を再確認。誤差なし。
じゃあ、もう一回。
フードの縁を下げ、膜を整え、呼吸を一つ。
魔力を束ね、言葉を落とす。
「――ダンジョン転移」
光のひだ。
空気が一段澄み、輪郭が撓む。
視界がほどけ、再び――組み直る。
208階層。
さっき立っていた分岐の少し手前。意図どおり“半歩ずらし”で着地できた。
足裏の接地感は良好。けれど、今度はさっきよりも眩暈が強い。世界が一瞬だけ波打って、膝が小さく笑った。
「ふふ……ちゃんと“戻れる”」
壁にもたれ、息を整える。
魔力の残量は……体感で三割台。癒しの水をもう一口。喉が柔らかくなる。大丈夫、続けられる。
――行ったことがある場所には、飛べる。
しかも、座標は“私の地図”で指定できる。
目で見た“点”だけじゃない。歩いた“線”の途中、角の手前、段差の直前――そういう細かい位置にも、ほぼ誤差なく。
「じゃ、もう少し細かく……」
私はマッピングの投影を思考で拡大し、試す座標に“印”を置いた。
まずはこの分岐から八十メートル先、右の広間の入口。
癒しの水をもう一口。膜を整え、言葉を落とす。
「――ダンジョン転移」
白いひだ。輪郭の撓み。
ひと呼吸ののち、私は広間の影に立っていた。
着地点、誤差二歩以内。気配は散らしているから、周囲の小型モンスターは、まだ私に気づかない。
「よし。次、段差の“上”」
同じ要領で、回廊の段上へ。
転送――着地――軽い眩暈。癒しの水。
段差の“途中”にも座標を置いてみる。足場が狭い場所でも、天蓋を薄く前へ張り出して“受け皿”にすれば、着地のブレは抑えられる。
さらに、通路の“角”。――角の内側に張り付く形で転送。視野は絞られるが、奇襲を避ける“死角IN”が可能。
「使い道、たくさんあるね」
にこっと笑う。
足下の白い光標が、一つ、また一つと私の“実験結果”で塗り替わっていく。
最後に、“敵の背後へ”。
あえて小型の魔物がうごめく場所を選び、黒隠虚衣の濃度を一段だけ上げた。
深呼吸。座標は壁際の影、背面の“抜け”。
言葉を落とす。
「――ダンジョン転移」
白いひだ。輪郭が撓む。
もつれた息の音が一度だけ、すぐ前で跳ねた。
視界が戻る瞬間には、もう白炎白夜・八式が掌で点いている。
“音の前”に八つ、胸の斜め下へ穿つ。
白い火花。短い悲鳴。崩れる音。
「ごめんね。検証に付き合わせちゃった」
膜を整え、転送酔いの余韻をやり過ごす。
癒しの水を飲む。喉と胸が涼しくなって、頭の重さが引いていく。
――さて。
次は“範囲”だ。
転送の入出力に、青炎の“輪郭”を重ねて“着地のズレ”をさらに薄くする。
狭い橋でも落ちないように。背面の縁へ、しがみつかないように。
私は青炎晴天を“息”ほどに展開し、白いひだの外周へ薄く巻いた。
「――ダンジョン転移」
白と青が重なり、空間の縁が“縫い目”みたいに整う。
着地。すり足一歩で静止。
うん、さっきよりも“置き直し”が要らない。青炎の薄膜はガイドとして優秀。ただし――魔力の減りは、さらに深い。
「はぁ……なるほど、ね」
壁にもたれて、指先を軽く振る。
一回ごとに“どっさり”減る。
癒しの水で回復は追いつくけれど、連続使用は現実的じゃない。実戦では“要所”だけに絞るべき。
視界の端に地図を浮かべ直す。
ここから209階層へ、再び戻る。――石碑前での誤差チェックを繰り返す。
戻る → 飲む → 整える → 進む。
作業は単純。でも、こういう単純が一番強い。
「――ダンジョン転移」
白いひだ。輪郭が撓む。
石碑の前。ぴたり。誤差、ゼロに近い。
私は石碑に指先を当て、刻まれた“白/209階層到達”の文字の縁をなぞる。
外の世界は、これを見てどんな顔をするだろう。
――ううん、今は考えない。前を見る。
再び208階層へ。
今度は“正確に十歩先”を指定してみる。
言葉を落とし、光を纏い、輪郭を撓ませ――着地。
歩数計算、合ってる。“地図上の距離指定”に追随可能。
「……よし。ラスト、一回だけ」
私は視線を手のひらに落とし、そっと握る。
このスキル、私だけが使えるものじゃない。
多分、他の人でも“覚えれば”使える。
でも――この魔力の食い方は、たぶん大半の冒険者には無理。
私も、癒しの水を挟まないと継戦に影響する。使いどころを間違えたら、その一回で詰む。
「それと……」
私は小さく笑って、誰もいない空気へ囁いた。
「“誰かの手を握ってたら”、一緒に連れて行けそうな気がする。――たぶんね」
確証はない。でも、光のひだが“もう一つ分”の輪郭を許容しそうな感触はあった。
やるなら、命綱レベルでテストが要る。
――いつか、絶対に役に立つ。助けたい“誰か”を、置いていかないために。
肩から力を抜き、ひとつ伸びをする。
マントの裾がさらりと鳴り、双蛇が「よくやった」とでも言うように脈を打つ。
にこっと笑い、私は最後の一本を口に運んだ。
「さて――まとめてみよっか」
壁際にしゃがみ込み、頭の中の地図に“メモ”をピン留めしていく。
麻桜、検証メモ(自分用)――声には出さないけど、言葉は芯までくっきり。
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《ダンジョン転移》検証結果(208階層/個人テスト)
・発動条件:明確な“行ったことのある地点”への座標指定(脳内地図/自動マッピングと連動)。未踏は不可。
・精度:高精度。半歩~二歩以内の誤差。角IN、段差上、橋上、背後差し込みなど細かい座標も有効。
・補助:青炎晴天の薄膜を外周に重ねると着地のズレがさらに低下(※ただし魔力消費増)。
・副作用:転送酔い(軽い眩暈・頭の重さ)。癒しの水で回復可能。連続多用は避ける。
・魔力:一回でごっそり持っていかれる。感覚的に約3000。今の私の最大魔力は4200(ランクアップ+魔素転換で上昇)。――つまり実戦では“要所限定”。
・同伴:要検証。“手を繋げばいける”感触はあるが、未確認。命綱・障壁同調など安全策が必須。
・応用:奇襲回避/死角離脱/短距離ワープでの詰め/救助の即時離脱/ダンジョン内移動
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「……うん、十分」
私は立ち上がった。
遠くで水音が一度。通路の空気が少しだけ動く。
フードを深くかぶり直し、黒隠虚衣を少しだけ濃くする。
聖域天蓋は薄く、でも確かに。
足が前を向き、白のマントが影に溶ける。
「さてと、検証はここまで!」
にこっと笑って、私は歩き出した。
地図の線は、さらに先へ。
208階層の空白を、私の歩幅で埋めに行く。




