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覚悟と誓い①


 転送光が薄れ、冷たい夜気が肌に触れた。

 封鎖線の内側、投光器の光が地面を照らす。医療班が駆け寄り、防護服の袖が波のように揺れた。


 「――転送成功! 反応二名です!」

 

 叫びが上がる。救助員が未桜をやさしく抱き上げ、担架の脇へ導く。未桜はぽかんと空を見上げ、次の瞬間、綾乃の腰にしがみついた。

 

 「……ママ!」


 綾乃は小さな体を抱き寄せ、喉の奥でかすれた声がこぼれた。

 

 「未桜……っ」

 

 腕の中の温度。汗と土と涙の匂い。

 それが、生還の唯一の実感だった。

 

 「篠原副支部長、こちらへ!」


 医師がライトで瞳孔を確認する。救助員が毛布を肩へ掛けた。

 胸に滑る布の重みが、張り詰めていた意識をようやく地上へ引き戻す。

 

 「外……だね、未桜」


 「うん……ママ、ほんとに外だよ……!」


 はしゃぐ声と、泣き笑いの顔。

 それを見て、綾乃はただ「ありがとう」と、心の中で繰り返した。

 ――誰に、ではない。

 迷宮の奥の、白い影に。


 * * *


 封鎖線の外側にはすでに報道陣が集まり、赤いランプとシャッター音が夜を切り刻んでいた。

 WDA日本支部の臨時ブリーフィングが、即席のテントで始まる。


 「静粛に。これより状況説明を行います」

 

 司会役の広報官が一歩前に出る。

 ざわめきが波のように引き、数百本のレンズが一方向へと向いた。


 「本日二十二時三十四分、突発ゲート付近の転送装置より二名の生還を確認。被救助者は篠原綾乃・篠原未桜。両名とも命に別状なし。現在、未桜さんの方は医療班による精査中です」


 安堵の吐息が、会場のあちこちで小さく弾ける。

 ――その後だ。

 質問の矢が、ためらいなく飛ぶ。

 

 「副支部長、ダンジョン内であなた方を救助した人物について、“白の亡霊”といわれる存在だった、との情報があります。詳しく」


 「正体は? 性別は? 所属は?」

 「直接の接触は――」


 綾乃はマイクの前に立つ。

 ひと息、置いた。

 視線は穏やかに、言葉は揺らぎなく。


 

 「救助者は――“白のマント”をまとった人物でした。非常に強い認識阻害の効果が確認され、容貌や性別の判別は困難です。私からも、これ以上の断定は差し控えます」


 「つまり“白の亡霊”だと?」


 「名称は皆さんのほうが詳しいかもしれません。ただ――救助者は、危険を最小限にするため、必要以上の情報を残しませんでした。ここにいる母子を安全に帰すことだけに、徹していた」


 「あなたは副支部長として、その人物をどう評価しますか?」


 綾乃はわずかに目を伏せ、そして顔を上げた。

 声は静かだが、芯がある。

 

 「評価、という言葉は似合いません。人の命を拾い上げた“事実”だけが全てです。――感謝しています」


 会場の熱が、目に見えない圧力になって押し寄せる。

 次の質問が重ねられる前に、綾乃は自ら続けた。


 「ひとつだけ。救助者を、危険に晒すような憶測や過熱は控えてください。未到達階層を単独で行動し、人命救助に徹する存在です。私たちにできるのは、尊重と、次への備えです」


 言い切って、軽く会釈する。

 その一礼が、会場のテンポを僅かに崩して沈黙を生んだ。


 * * *


 救急車の車内。

 未桜が酸素マスクをいじらないよう、看護師がやさしく手を添える。

 サイレンは鳴っていない。封鎖帯の内側を慎重に抜けるため、静かな移動だ。


 「ママ……」

 「どうしたの」


 「おね……“白のマントさん”、ちゃんとごはん食べてるかな」


 

 綾乃は瞬きを一度。胸の奥がきゅっと鳴る。

 無邪気な心配は、刃よりも鋭く刺さるときがある。


 「――食べてるよ。きっと、ね」


 「うん。あのね、また会えたら“ありがとう”って言うの。ぜったい」


 「ええ。約束」


 

 指切りでもしようと差し出された小さな手を、綾乃はそっと握った。

 ――そして、決める。

 車窓に滲む赤いランプを見つめながら、言葉にならない誓いを、胸の内に。


 * * *


 WDA日本支部・緊急オペレーション室。

 綾乃は、医師の簡易診断を受け終えると、その足で執務机に戻った。

 椅子に腰を下ろす前に、指示を飛ばす。


 「広報、方針を一本化します。“救助者の正体”は不明。認識阻害により特定不能。善意の協力者としてリスペクトを表明。ただし、名指しや誘導は行わない」


 「了解しました」


 「法務へ。もし救助者が身分を明かさず社会に戻る場合の保護枠を洗い出して。匿名の保護プログラム、身元保証の代替措置、医療・教育・居住の非公開支援。前例がないなら作る」


 「至急、案を」


 「現場へ。突発ゲート周辺のビーコンタグログを再解析。正規チャンネル外の干渉痕を重点に。救助者が安全に退く経路もリスク判定して」

 

 「了解」


 内線が次々と走る。

 綾乃は一呼吸だけ置き、机の引き出しから便箋を取り出した。

 地上へ帰る前、麻桜さんに託された“手紙”。

 封は閉じたまま、彼女の責任で保管している。


 

 (届ける。かならず)


 

 目を閉じ、言葉なく頷く。

 “白の亡霊”ではなく――神崎麻桜としての居場所を、この世界に。


 * * *


 その頃。

 世界は、熱を帯びていた。


 ニュース特番が“白の亡霊”の名を連呼し、SNSは感謝と推測と不安で溢れかえる。

 〈救助の英雄〉〈国家戦力級を超える未知〉〈危険な個〉――見出しの文字が、夜を走り続けた。


 WDA本部では、最高理事会が臨時召集される。

 議題は二つ。

 〈日本の119階層突破と129階層到達の正式承認〉、そして〈“白”への対応方針〉。


 賛美する声、警戒する声、利用を企図する声。

 それらが同じテーブルに並んだとき、綾乃が先ほど語った「尊重と備え」という言葉は、きれいごとではなく唯一の現実策になった。


 * * *


 未明。

 綾乃は病棟の簡易ソファで、眠る未桜の額に手を置いた。

 体温は落ち着いている。震えもない。

 その事実だけで、世界は少し優しかった。


 ドアをノックする音。

 広報官が囁く。


 「副支部長、明朝の囲み取材、要点の再確認を」

 

 「うん。――三つ」


 綾乃は指を三本、静かに立てた。

 

 「一つ。救助者の正体は不明。認識阻害が強く、性別も判別不能。便乗のなりすまし対策も含め、詮索には応じない」


 「二つ。救助者は人命救助を最優先に行動。英雄化も、悪魔化も、しない」

 

 「三つ。被災者・救助者双方のプライバシーを守る。――以上」


 「承知しました」


 扉が閉まる。

 綾乃は窓の外、まだ群青の空を眺める。

 迷宮の底を一人で駆け上がる白い影が、いまもどこかで息をしている。


 

 (あなたが帰る頃には、ここに“居場所”があるように)


 

 心の中で、そっと語りかけた。


 * * *


 夜が明ける。

 記者室。マイクが並ぶ演台。

 カメラの赤い光点が、いっせいに点る。


 綾乃は立つ。

 母であり、副支部長であり――恩義を負う一人の生還者として。


 

 「まず、関係各位に感謝を。救助・医療・警備の皆さん、そして支えて下さった多くの方々に」


 

 丁寧に頭を下げる。

 上げた顔は凪いでいるが、瞳の奥は強い。


 

 「繰り返します。救助者の正体は不明です。私の視界には“白いマント”と、極めて高い認識阻害だけがありました。性別・年齢、いずれも推定不能。――だからこそ、憶測ではなく“行為”に感謝したい。命を救ったという事実に」


 

 沈黙。

 その静けさは、言葉の重さを測る秤のようだった。


 

 「最後に。私は副支部長として、もう一人の個人として、救助者が戻って来たいと望んだときに戻れる社会を整えることを約束します。名前がなくても、顔を見せなくても、助けた人が罰を受けることのない社会を」


 

 「それは“白の亡霊”だけの話ではありません。――明日の誰かの話です」


 

 言い切って、一礼。

 拍手は起きない。

 起きないからこそ、効いていた。

 記者たちはペン先で、いま聞いた約束の重さを必死に受け止めている。


 * * *


 控室に戻ると、未桜がクッションを抱えてちょこんと座っていた。

 テレビには、夜明けの空に流れるニュース速報。

 “白の亡霊”“119階層突破”に続き“129階層も突破”“救助された母子”――文字が帯のように走る。


 「ママ、がんばった?」


 「うん。未桜もね」


 「えへへ。……ねぇママ。いつか“白のマントさん”に会えたら、お礼、いえるかな」

 

 綾乃は、笑う。

 覚悟を湛えた、やわらかな笑みで。


 「言えるよ。必ず」


 そして心の中で、そっと続けた。

 ――あなたの名前は言わない。

 でも、あなたの“帰る場所”は、私が守る。


 窓の外で、朝が本当の色になっていく。

 世界は騒がしい。だが、その騒ぎの中心にいるからこそ、綾乃は静かだった。

 今は、準備の時だ。

 “白の亡霊”ではなく、神崎麻桜として、笑って立てる地上を――。


 紙の封が、指先の中でひどく軽かった。

 差出人は、まだ迷宮の奥。

 扉の向こうに続く、長い長い廊下の先だ。


 しかし、道は繋がった。

 世界の騒めきと、迷宮の静寂を、一本の約束で。

 綾乃は深く息を吸い、次の会議へ向かって歩き出した。

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