白の亡霊(22)
巨影は、こちらを“見た”。
眼窩から溢れる黒光が射抜くように走り、アルザスの意識を直接削る。
足元の石が悲鳴を上げ、空間そのものが沈んでいくような錯覚。
――グゥゥゥン……ッ!
空気が振動し、耳鳴りが脳髄を焼いた。
咆哮ではない。ただの息。
それだけで、肉体が崩壊しかける。
この圧倒的な“格”を正面から受け止め、見極める。
巨体が動いた。
床に叩きつけられた尾が、岩盤を粉砕し、石片が弾丸のように飛び散る。
アルザスは半身を滑らせ、わずかに避ける。
破片が頬をかすめ、血が滲んだ。
「……速い」
視界を揺らす霧の中で、翼が広がった。
骨の板が刃のように輝き、振り下ろされた瞬間、空気が裂ける。
衝撃波が迫る。
アルザスは身を沈め、一閃。
最も鋭い一点を斬り払い、僅かな隙を見つけると、一気に距離を縮め、その巨大な体を切りつけていく。数回試すと、あとは距離を取り回避に徹した。
――効かない。だが、攻撃は避けられる。
次の瞬間、黒い光が眼窩から奔る。
直線状に空間を抉るような破壊。
壁が溶け、床が焼けただれる。
アルザスは跳び退きながら、心に刻む。
「……視線の先に、射出。前兆あり」
呼吸は浅く、心臓は速まる。
だが恐怖ではない。
冷たい研ぎ澄ましが、視界を開いていく。
巨影が、咆哮を上げた。
今度は紛れもない殺意の奔流。
床が反転するかのように重力が狂い、アルザスの身体が浮いた。
――ゴォォォォォンッ!!
天地が揺れ、岩壁が崩落する。
浮いた体を無理矢理捻じ伏せ、床を蹴り戻す。
剣が震え、腕が痺れる。
「……重力操作……か」
咄嗟に刃を振り払い、周囲の岩塊を切り裂いて衝撃を逃がす。
その隙に、アルザスは退路を確認する。
巨影はさらに奥で姿をうねらせた。
全貌はまだ見えない。
だが、これ以上の長居は死に繋がる。
――十分だ。
アルザスは踵を返した。
振り返らない。
背後で再び大気がうなり、黒光が迫る。
だが彼はただ前へ。
扉が閉じる刹那、熱と衝撃が背を舐めた。
血の味が口に広がる。
それでも足を止めず、仲間が待つ陣へと戻った。
石扉が音を立てて閉じると同時に、アルザスは膝を突きそうになる身体を無理やり押さえ込んだ。
肺に入った息は荒く、汗が背を流れ落ちる。だが、その眼は澄んでいる。
剣鬼――その異名に違わぬ、冷たい光を宿して。
アルザスの姿が見えた時、待機していた仲間たちの緊張が一気に走った。
「剣鬼!」
ナノが立ち上がり、歩み寄る。
仲間の誰もが言葉を呑み、アルザスの表情を見つめていた。
アルザスは返事をせず、腰の剣を静かに納める。
そして、短く。
「……見てきた」
一言で、場が息をのむ。
アルザスが椅子に腰を下ろすより早く、ナノが低く問いかけた。
「特徴を、すべて」
剣鬼は頷き、閉じていた瞼をわずかに開く。
その視線はまだあの“深淵”を見つめているようだった。
「……まず、大きさ。リヴァイアと同等、いや、それ以上だ。
鱗は黒鉄。光を喰う。斬撃は通らない。……だが、避けることはできる」
「斬撃が通らない……」
りうが眉をひそめる。だが、その表情は怯えではなく、獲物を測る眼差しだった。
「攻撃は?」
ナノが続ける。
アルザスは一瞬目を伏せ、頭の中で再びあの空間をなぞる。
「……尾での打撃は、床ごと砕く。破片が弾丸のように散る。
翼の骨板は刃。振り下ろされれば、空気ごと断ち切る。
眼窩から黒光を放つ。直線状を貫く……“視線の先”に前兆あり。避けられる」
「……かなり厄介だな」
ナノの声に、アルザスは頷いた。
「……咆哮で空間そのものが狂う。重力が反転した。
床から体が剥がされる。剣で岩を斬り、衝撃を逃がして戻った……が、あれは防御できない。運になるぞ」
沈黙が落ちる。
カレンが唇を押さえ、視線を伏せた。
歌姫の声は今、言葉にならない。
りうだけが口角を吊り上げる。
「……面白いじゃん。斬れないなら、焼けばいい。
重力? 上等よ。落ちても、私は立つ」
彼女の目は炎のように光り、疲労を隠そうともしない。
ナノはその姿を見て、わずかに口元を緩めた。
「……助かる」
そして再び全員を見渡し、声を張った。
「アルザスの情報をまとめる。
――黒鉄の鱗、斬撃は通らない。
――尾、翼、そして直線の黒光。
――咆哮による重力操作。
これは未知の領域だ。だが、弱点は必ずある」
沈黙を挟み、ナノは言葉を選ぶように続けた。
「ここで退くか。挑むか。
……各自の判断は尊重する。だが、剣鬼が命をかけて持ち帰った情報だ。
この機を逃せば、次はいつ挑めるかわからない」
アルザスが言葉を継いだ。
低く、しかし確かに響く声で。
「……俺は1人でも進むぞ」
短い言葉だった。だが、その重みは誰の胸にも落ちた。
りうが笑う。
「ふん。剣鬼がそう言うなら、やるしかないでしょ」
カレンは一度瞼を閉じ、そして顔を上げた。
震える声ではなかった。澄んだ、透き通る声。
「……歌います。皆さんの力を、必ず繋ぎます」
ナノは小さく息を吐き、全員の目を一人ひとり確かめる。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……よし。作戦を立てる」




