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白の亡霊(21)


 129階層陣営拠点 ― 三十分後の決断


 火照った身体に冷たい空気がまとわりつく。

 張られた陣の中央では、治療班の淡い光がまだ消えていなかった。

 負傷者の手当てと、魔力薬の匂い。耳を澄ませば、どこかで装備を研ぐ鋼の音が響く。


 ナノの言葉が落ちてから、三十分。

 誰も口を開かないまま、全員が自分の胸と向き合っていた。


 挑むのか。

 退くのか。


 救出という大義は果たされた。

 だが――目の前には、世界が誰も越えられなかった129階層の扉が口を開けている。


 りうは岩に腰掛け、星図のような魔法陣を膝の上に浮かべていた。

 光の粒が瞬いては消え、また形を変えていく。

 彼女の瞳は遊ぶようにその光を追いながらも、笑みを浮かべている。


 「……ほんと、いい舞台だわ」


 皮肉めいた声。

 だが、そこに漂うのは高揚だ。

 彼女は戦いたい。強者と、未知と。心の奥底から。


 カレンはその横で、膝の上に手を組んで祈るように目を閉じていた。

 歌姫として、仲間を守る力を持つ自分が、この先でどれだけ支えられるか。

 だが、迷いは少なかった。


 「……ここで退いたら、歌は届かないもの」


 呟きは静かで清楚。

 けれど芯は揺るぎない。


 アルザスはただ立っていた。

 剣を手に、無言で。

 炎に照らされた横顔は彫像のようで、何も語らぬその沈黙が、彼の答えそのものだった。


 クランの面々も、それぞれに思いを巡らせていた。

 StellaCielのマネージャー・紗耶は記録用の水晶板を見つめ、指先を震わせていた。

 この一戦が世界に刻まれるか、それとも撤退として終わるか。彼女の胸の鼓動もまた激しく鳴っていた。


 やがて、ナノが歩み出る。

 中性的なその顔立ちは影に溶けながらも、瞳だけは鋭く光っていた。

 彼の声は、低くも静かに響いた。


 「……時間だ」


 その言葉に、全員の視線が自然と集まる。


 「救出という任務は、すでに果たされた。篠原綾乃の生存は確認され、白の亡霊と共にいる。恐らく娘の未桜も無事だろう……俺たちの役割は、ここで終わった」


 再び訪れる沈黙。

 だが、ナノは続けた。


 「それでも――今、俺たちはここにいる。119階層の壁を打ち砕き、未到達の129階層に立っている。

 最高戦力が、これだけ揃っている。冒険者として、この扉を前にして……退けるか?」


 その声には圧はなかった。

 強制ではない。

 ただ、問いかけだった。


 りうが笑った。


 「退くなんて、つまんない選択肢、最初からないでしょ」


 軽口のように聞こえながらも、空気を切り裂く鋭さがあった。


 カレンは立ち上がり、真っ直ぐに仲間を見回す。


 「私は……進みます。皆さんを支える歌を、ここで止めたくありません」


 澄んだ声に、誰もが息を呑んだ。

 その清らかさは、重い疲労と恐怖に沈んでいた心を少しだけ浮かせた。


 アルザスは、無言のまま剣を掲げた。

 その刃が光を反射しただけで、十分な答えだった。


 CresCentの前衛たちも声を上げる。


 「……俺たちも、行きます」

 「ここまで来て、退けるかよ」


 StellaCielの面々も頷き合い、紗耶が一歩前へ。


 「カレンの背を守るのが、私たちの役目です」


 ナノは全員の決意を目にし、短く目を伏せた。

 そして、再び顔を上げたとき、その瞳は鋼を思わせる輝きを宿していた。


 「……わかった。ならば進もう。

 この瞬間を、世界に刻む。俺たちが踏み出す一歩が、未来を変える」


 声が拠点に響き渡った。

 それは命令ではなく、誓いだった。


 冒険者たちの胸に、熱が広がる。

 鼓動が重なり合い、戦場の音楽のように鳴り響いた。


 誰もが、わかっていた。

 この選択は容易ではない。

 次に待つものは、119階層の蒼淵竜を超える脅威かもしれない。


 だが――。


 彼らは冒険者だった。


 限界の向こうへ挑むことこそが、生きる証。

 そう信じる心が、全員の瞳に火を灯していた。


 そして、129階層の扉が、静かに彼らを待ち受けていた。


 ナノはゆっくりと頷き、言葉を続ける。


 「よし。それでは――どう倒すか、だ」


 重い空気の中で、りうが足を組み直し、皮肉っぽく口角を上げる。


 「挑むのはいいけどさ。相手の特徴もわからないんじゃ、無謀すぎない? 一度偵察に出るべきでしょ」


 彼女の言葉は軽く聞こえるが、その瞳には戦いを望む熱が宿っていた。


 カレンは胸の前で両手を組み、真っ直ぐに答える。


 「……未知の相手に挑むのは確かに怖いです。でも、私の歌で皆さんを支えられるなら――全力で尽くします」


 その言葉は震えていた。

 だが、その震えは恐怖ではなく、強い決意の証だった。


 ナノは頷き、場を見渡す。


 「偵察は必要だ。特徴や行動を掴めば、勝機はある。……問題は誰が行くかだな」


 場に再び沈黙が落ちた。

 その沈黙を切り裂いたのは、鋼のように短い声だった。


 「――俺が行く」


 アルザスが立ち上がっていた。

 炎に照らされた横顔は影を落とし、背に負った剣が鈍い光を帯びる。


 ナノが眉を寄せ、低く言う。


 「……危険だぞ。偵察は回避が前提とはいえ、あの先は未知の領域だ。最悪、戻れないかもしれない」


 アルザスは迷いなく首を振った。


 「……俺はここで止まるわけにはいかない。他にも――待っている者がいる」


 その一言に、全員が息を呑む。

 詳しくは語られなかった。

 だが、“剣鬼”の背にある理由が、重さを持って響いた。


 りうは鼻で笑い、腕を組んだ。


 「……いいじゃん。ま、アンタなら戻ってくるでしょ。死んだら、つまんないけどね」


 カレンは俯いたまま、小さく祈るように呟いた。


 「……ご武運を」


 ナノは静かに目を閉じ、一度深く呼吸を整える。

 そして瞳を開いた時には、迷いは消えていた。


 「――わかった。剣鬼、任せる。戻ったら全員で作戦を詰める」


 アルザスは言葉を返さず、ただ静かに歩き出す。

 その背を見送る仲間たちの胸に、緊張と期待が渦巻いていた。


 

 石扉が、鈍く軋む音を立てて開いた。

 次の瞬間、部屋全体の空気が――落ちた。


 ズシィィィン……!


 重力が倍になったかのように、膝が勝手に沈む。

 肺が押し潰され、息が詰まる。

 ただ「そこにいる」だけで、世界が歪む。


 黒い霧が床から立ちのぼった。

 視界が揺れ、奥にある巨影の輪郭すら正しく捉えられない。

 だが、耳の奥を軋ませる低音が、確かに“それ”の存在を刻みつける。


 ――ゴォォォ……ォ……ン。


 鐘のような音。

 同時に、空間そのものがねじれた。

 岩壁が裂け、空気が逆巻き、空間の奥から巨体が浮かび上がる。


 それは獣でも竜でもない。

 無数の眼窩を持つ頭部。

 鋭く尖った甲殻。

 翼のように広がる骨の板。

 そして全身を覆う黒鉄の鱗が、光を喰らい尽くしていた。


 視線がぶつかった瞬間、アルザスの心臓が一度止まった。

 呼吸が許されない。

 見上げるだけで、己がちっぽけな塵に思える。


 ――バキィィッ!


 巨体が動いた。

 一歩、踏み出しただけで床が砕け、波紋のような衝撃が空間を走る。

 岩片が浮き、すぐに地へ叩きつけられる。

 重力が狂っている。

 ここはもう、戦場ではなく“異界”だった。


 アルザスはわずかに目を細め、手を剣にかけた。


 「……俺には、連れ帰らなければならない人がいる」


 呟きは重圧に飲まれ、誰にも届かない。

 だが、彼自身の覚悟だけは確かに刃へと刻まれていた。


 129階層――。

 その深淵を支配する“絶望”が、いま姿を現した。





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