白の亡霊(20)
治療班の光が拠点を照らしていた。
仲間たちの傷口はまだ完全に塞がらず、治療が続いている。
蒼淵竜を討ち果たしてから一日――その余韻はまだ肉体に、精神に深く残っていた。
張られた陣の中央には、巨大なアイギスが並び、休息する者、武具を点検する者、交代で周囲を警戒する者。
沈黙と小さな声が混じり合う、その重苦しい空気を、突如として震わせる音が破った。
――キィン、と水晶盤が光をはね上げる。
アイギスの通信班が慌てて立ち上がった。
「日……日本支部から通信です!」
全員の視線が一斉にそちらへと向けられる。
ナノは深呼吸を一度だけして、低くも通る声で応じた。
「こちら129階層前線拠点、指揮はナノ。……伝えろ」
数拍の静寂。
次いで、澄んだ声が場に落ちる。
『篠原綾乃――無事が確認されました』
しんとした空気に、誰かの短い吐息が混じった。
まるで張り詰めていた糸が、ふっと緩むように。
「……綾乃さん……」
カレンは胸に手を当て、目尻に滲むものをこらえきれずにいた。
清らかな歌声を持つ彼女が、今はただ祈るようにその名を口にする。
「よかった……」
前列の冒険者たちからも、安堵の息が重なる。
篠原副支部長の名は、日本支部にとって重い。だが、それ以上に、“母”と“子”を失わずに済んだという現実が、全員の胸を温めていた。
だが、続いた一言が、その温もりを氷の刃で裂いた。
『……刻まれた座標は、211階層です』
「……なに……?」
重々しい呟きが幾つも漏れる。
211階層――。
誰一人、到達したことのない深淵。
それは“絶望”と同義だった。
「……211階層、か」
誰かが呻くように繰り返す。
救出の道が、遠く、霞の向こうへ消えていく。
胸の奥に冷たい手が伸び、心臓を掴まれるような感覚。
『さらに……白の亡霊の名も、同じく刻まれています』
その一言で、空気は再び揺らいだ。
「……白の、亡霊……」
ざわめきが走る。
誰もが噂でしか聞いたことのない亡霊。
白い幻影のように階層を越え、石碑に名を残す――その正体が、現実に息をしていることを、石碑だけが証明している存在。
沈黙を裂いたのは、りうだった。
彼女は口角を皮肉に持ち上げ、足を組み替える。
「……へぇ。やるじゃん……白の亡霊」
軽く吐き捨てるようでいて、その声はどこか楽しげだった。
強者を認めるからこそ生まれる響き。
そして、その“白”と同じ戦場を望むような、熱を帯びていた。
カレンは瞼を伏せ、祈るように小さく言った。
「無事でよかった……綾乃さん……きっと、未桜ちゃんも」
アルザスは言葉を持たなかった。
ただ剣に手を置き、静かに佇む。
その沈黙は、周囲の者に“剣鬼”の重みを思い出させるには十分だった。
ナノは全員の表情を見渡し、ゆっくりと吐息を落とす。
やがて、彼は静かな声で告げた。
「……篠原綾乃、無事が確認された。だが座標は211階層――救出は、白の亡霊が成し遂げた。俺たちの“任務”は、ここで終わったとも言える」
誰も声を出さなかった。
しかし、その場に渦巻くのは安堵でも絶望でもない。
もっと別の熱――。
ナノは一歩、前に出た。
光に縁取られたその姿は、魅惑的でありながら、場を支配する力を帯びていた。
「……だが、俺たちは119階層の壁を越えた。
世界が幾度挑んでも退けられた蒼淵竜を倒し、今は未到達の129階層に立っている」
沈黙の中、その言葉だけが重く沈む。
「俺は――一冒険者として思う。
最高戦力が集った今こそ、突破の機会だ。
冒険者なら、挑んでみたいと思わないか?」
ナノの声は淡々としていた。
けれど、その瞳には静かな炎が宿っていた。
「俺は、その価値があると思う」
そして、ふっと口角を上げる。
「だが強制はしない。判断は各自に任せる。
一人でも反対があれば、今回は帰還する」
その瞬間、全員の視線が交錯する。
仲間の呼吸が聞こえるほどの沈黙。
この選択が未来を変えると、誰もが理解していた。
ナノは静かに続けた。
「……三十分。
それぞれ、よく考えて答えを聞かせてくれ」
炎のような熱と、氷のような冷たさ。
それらが入り混じる緊張が、拠点を支配した。
外の闇よりも重い沈黙の中、全員の胸がただ一つの問いに向き合っていた。
――進むのか。
――退くのか。
決断の刻は、確実に近づいていた。




