白の亡霊(16)
水底に広がる巨大な空洞。そこはまるで地底湖そのものが牙を剥いたかのような光景だった。空間の大半を占める黒い水面が、不気味なほど静まり返っている。だが全員が知っていた。この静寂の裏に潜むのは、日本が長年越えられなかった壁――蒼淵竜リヴァイア・レギア
扉が重々しく開いた刹那――
「前衛、張れッ! 側面、走れ!」
怒号と同時に魔法障壁が幾重にも咲き、盾が石床を打った。隊列は寸分違わず展開し、最後尾まで一枚の“盾”へと変わっていく。
黒い水面が泡立ち、地底湖の心臓が鼓動するように空気が震えた。
次の瞬間、水面が爆ぜ、世界が跳ねた。
蒼白い鱗が、洞窟の光を砕いて散らした。
天井へと伸びる六本の首。鎖のようにうねり、やがてこちらへとしなって返る。洞窟全体が「獲物」と認識された、と全員が肌で悟った。
「下がるな! 第一波来るぞッ!」
六つの喉が同時に膨らむ。
次いで、轟音が響く。
空気が凶器に変わった瞬間。岩を断つ水圧の刃が、雨霰のように襲う。
「前衛、受けろ! 第二列、準備――換盾ッ!」
障壁に触れるたび、火花が上がる。盾表面に細かな亀裂が走り、魔力糸が悲鳴を上げる。
激しい衝撃に、右翼が僅かに押され、列が歪む。
「右翼、二列目前へ! 左、寄せるな、間合いは死ぬぞ!」
ナノの指示が帯電した鞭のように走り、崩れかけた列が再び繋がった。だが、第二波の震えが床から脛へと這い上がる。
その時だった。
「……退け」
無感情な低声。
“剣鬼”アルザスが一歩、前へ。刃を半身にかまえ、踏む。
六つの首の一つが蛇のように矢と障壁の間を縫い、喉奥を光らせて――強烈なブレスを吐く。
白い閃光のような強烈な水圧流が直線で走る。後衛をまとめて穿つ軌道。
アルザスは跳躍する。
一閃。音が遅れて到達したように思えた。
水流が割れ、霧散した飛沫の向こうで、裂かれた奔流が岩肌を一直線にえぐり取っていく。
「道は開いた」
その光景に、誰かが無意識に息を吐く。
その背後、カレンの澄んだ歌声が戦場に満ち始めた。
「――黎明讃歌」
柔らかな旋律が、石壁に淡い光を映しだした。
重かった足が軽くなっていく。視界が冴え、耳奥で跳ねる鼓動が、怖れではなく速度に変わる。魔力循環が太く、滑らかになるのを全員が体で理解した。
「回復班、強化重ねて押し上げろ! 攻撃班、短詠唱で削り続けろ!」
ナノの合図。
CresCentの前衛魔導が、炎と雷を点で刻み、線で焼き、面で押す。
鱗が剥がれ落ちる。肉が露出し。蒼い血飛沫が弧を描くように飛び散る。
――だが、傷口はすぐに塞がる。泡立ち、脈打ち、繋がっていく。
「再生が早い……! りうの火力が要る!」
「合図ちょうだい」
銀髪が揺れ、りうが片手をゆっくりと上げる。周囲に薄い光輪が浮かび上がると、星座のような魔法陣が次々重なった。
「全軍、圧を上げる! りうに時間を作れ!
前衛、首を押さえろ! 側面、乱入を切れ! 後衛、散開、相互遮蔽!」
盾が床を鳴らす。魔法が重なる。矢が走る。
アルザスが首の付け根を削り、攻め上がる勢いごと軌道を乱す。ナノの視線が、りうへと移る。
その瞬間、りうの指先が弾かれた。
「――星雨」
星の雨が一斉に降り注ぐ。
数百の光弾が同時落下。六本の首に斉射。正確に関節・器官を撃ち抜いていく。
鱗が爆ぜ、肉が刻まれ、蒼光がほとばしった。
「いい子。まだ立つのね?」
りうが目だけで笑う。
竜が痛みでのけぞり、咆哮は空気を裂く。突然、水面が不穏に盛り上がっていく。
「――来るぞ、津波! 全障壁、最大! カレンさん歌厚く!」
カレンの声が一段階、澄み切る。
「大合唱――みんな、絶対に離さないから」
魔力の膜が二重三重に重なり、前衛の背を歌が押す。
地底湖全体が持ち上がり、壁になって襲ってくる。
障壁が悲鳴を上げる、足場が削られ、盾がめり込む。
「右翼、止まれッ! 間を詰めるな、流されるぞ!」
ナノの声が走り、崩壊の始点が別の流れへと変わる。
それでも亀裂は走る。
アルザスが滑り込み、波の芯だけを素早く断つ。
切られた奔流が形を失い、飛沫に解けていく。
「……ッ、持ち直した! 今だ、押し返すぞ!」
「……フゥ……攻めるわ」
りうは第二層の魔法陣を開きながら、片目を細めた。
「ナノ、あと十数呼吸。落とすわよ……」
「よし――総員、りうのための時間を作る!
剣鬼、前を頼む! 首を二本、いや、三本、最低でも抑えろ!
CresCent、右弧を上がれ! StellaCiel、左を支えて“換盾”、落ちるなよ!
歌、切らすな、繋げてくれ!」
命令が流線形で戦場を進む。
指示と共に、全体が一つの獣のように動く。
アルザスが首の袈裟を薄皮一枚だけ切り、次の瞬間に深く断つ。
切口から蒼い血が線で走り、竜の動きがコンマ単位で鈍る。
「……今だ、りう」
「――星天殲滅」
天蓋が開いた。
洞窟の天井に、第二の空が広がっていく。
星々のような光点が螺旋を描きながら、中央に白い核が形成される。
轟、と音が鳴り、空間の密度が変わるのが分かる。
「全軍、俯け! 直視するな、目を焼くぞ!」
白光が降りる。
六本の首に同時着弾。
削り、穿ち、焼く。
竜の咆哮が悲鳴へと変わり、再生の泡が蒸発していく。
「――まだ、死なないの?」
りうが唇を引き結ぶ。魔法陣の縁が軋む。
蒼淵竜が、最後の抵抗を見せた。
水面深くから逆流する圧が伸び、六つの喉が同時に光を孕んでいく。




