白の亡霊(12)
4日間の道のりは、麻桜にとってかけがえのない時間だった。四年もの孤独の果てに、初めて触れた人の温もり。笑い声。会話の心地よさ。
それは彼女の胸に深く染みわたり、忘れられない思い出となった。
未桜もまた、すっかり麻桜になついていた。歩くときは自然と隣に寄り添い、夜は小さな手でマントの裾を握って眠った。その重みが麻桜にとって、ひどく愛おしかった。
やがて視界の先に、石碑が現れた。
荘厳な佇まい。古代の紋様が淡く輝き、静かに私達を迎える。
「……ようやく、ここまで来れたね」
指先をそっと石碑に触れる。
次の瞬間、微かな振動と共に声なき問いかけが脳裏をよぎる。
――名を刻むか。
深く息を吸い込む。
これまでと同じように、ためらいなく答えを心に描く。
「……“白”」
脳裏に白い光が弾け、名前が刻まれる感覚が広がった。
冷たい石に、新しい痕跡が確かに刻まれる。
――名を刻むか。
「…… “篠原 綾乃”」
光がまたひとつ弾け、冷たい石の表面に新たな名前が刻まれる。
「……綾乃さん、本当によかったの? 」
これでいい。
“白”の名だけではなく、“篠原綾乃”の名も深層に刻まれた。
世界はきっと、この事実をどう受け止めるかで騒然となるだろう。これからが、私の戦い…… ここからが本番なのだから。
「……ええ。これでいいの。子供は心配せずに大人に任せておけばいいのよ」
「もぉ〜、綾乃さんのイジワル!子供じゃないもん!」
私が、あなたの風除けに。苦しんだ分、辛かった分、麻桜さんは、幸せにならなきゃだめなのよ。
――
210階層、セーフティーエリア。石碑には2人の名前はすでに刻まれ、転送装置の前にたどり着いた。
いよいよ別れの時が来た。
綾乃は麻桜の前に立ち、堪えきれずに強く抱きしめる。
「麻桜さん……。あなたは未桜と私の命の恩人。あなたがいなかったら、私たちは……。ほんとうに、ほんとうに感謝しているわ」
その声には、母親としての切実な思いと、一人の人間としての敬意が込められていた。
未桜の小さな瞳からは、別れの寂しさがにじむ。
「……また、会えるよね?」
麻桜は小さく息を吸い、いつもの明るさを取り戻すように笑った。
「大丈夫! おねーちゃん強いんだから」
そう言って未桜の前にしゃがみ込み、そっと視線を合わせる。
「ねえ、またお外に出られたら……一緒に遊んでくれる?」
未桜の顔がぱっと輝いた。
「うん! 約束だよ!」
小さな指と麻桜の指が絡み、指切りが交わされる。
その光景を見て、綾乃は自然と微笑んでいた。
「麻桜さん……必ず無事に戻ってきて。そして、手紙は私がご両親に責任を持って届けるわ。それに――あなたがいつでも帰って来れるように、居場所を守る。だから、安心して」
彼女はそう言って、今度は少しおどけたように笑みを浮かべる。
「戻ったら、きっと忙しくなるわね。私も麻桜さんに笑われないように……頑張らなきゃ」
麻桜もまた、ふっと笑い返した。
この4日間で芽生えた絆は、きっと消えることはない。
別れの寂しさの中にも、確かな希望と約束が残されたのだった。
――
―― 4日前
その知らせは、あまりにも突然だった。
公園に開いた突発ゲート。
人々の悲鳴とともに、数十分のうちに周囲は封鎖され、警備隊が展開した。
しかし、人が飲み込まれる瞬間を見たという目撃情報は、すでに日本ダンジョン対策本部支部へと伝えられていた。
――転送被害者は、二名。
女性と、その子供。
「速報です」
テレビやネットの報道でアナウンサーの声が重なった。
「本日午後、東京都内の公園に突如出現した不安定ゲートによって、二名の転送被害が確認されました。被害者の名前は――」
画面が切り替わる。
青ざめた表情のキャスターが、手元の紙を震える手で読み上げた。
「……篠原綾乃氏。そして、その娘の未桜さん。篠原副支部長は日本ダンジョン対策本部支部の中枢を担う重要人物です」
ざわめきが、一気に日本中を覆った。
副支部長――それは現場の指揮を担うだけでなく、政治的にも大きな存在である。
そして、その娘までが一緒に飲み込まれた。
東京湾岸の日本ダンジョン対策本部支部。
指令室の中では緊張が走り、幹部たちが一斉に声を荒げる。
「篠原副支部長が……? そんな馬鹿な!」
「セーフティー確認班は何をしていた!?」
「まさか子供まで……これは一大事だぞ!」
報告が錯綜し、空気は混乱を極めていた。
もし副支部長を喪うことになれば、日本の冒険者管理体制に深刻な打撃が走る。
さらに、世論は激しく動揺するだろう。
支部長席にいた初老の男は顔を引きつらせながらも、机を叩いた。
「……すぐに全世界へ報告を上げろ! そして、本部にもだ! 篠原副支部長とその娘が不安定ゲートに飲み込まれた――これは国家的な危機だぞ!」
静まり返った指令室に、その言葉が重く響いた。




