白の亡霊(11)
しばらく休息を取りながら、私たちは言葉を交わした。
私は世界の情勢を――今の“白の亡霊”の存在、そして世界にただ一人作られたプラチナランクについて、彼女へと話した。
石碑に名が刻まれるたび、世界中が揺れたこと。
人々が畏怖し、尊敬し、時に警戒の目を向けていること。
麻桜は目をぱちぱちと瞬き、頬をぷくっと膨らませた。
「……なんか、やだぁ。“白の亡霊”って……かわいくないよ。もっと他の名前がよかったぁ……白の……蝶……バタフライ。か、可愛くないか。むぅ……」
拗ねたような表情に、私は一瞬、目を見張った。
――ああ、この子はまだ十八歳。
外から見れば規格外の存在でも、その中身は年相応の少女なのだ。
やがて彼女は、ぽつりと思い出すように、自分のことを語り始めた。
四年前、突発的な不安定ゲートに呑み込まれ、秘境に転送されたこと。
紙もペンもなく、ランダムBOXから手に入れたものだけを頼りに生活を築いたこと。
“魔法”を編み出すために、何百、何千と失敗を繰り返したこと。
そして、孤独に押し潰されそうになりながらも、必死に生き延びてきたこと。
必死に話す彼女の姿。
それはまるで、堰を切ったように溢れ出す心の奥底。
――孤独で、辛くて、それでも生きるために諦めなかった日々が、痛いほど伝わってきた。
十四歳。
子供にとってあまりにも過酷すぎる現実だった。
私は気づけば、腕を伸ばしていた。
「……よく、頑張ったわね」
そう言って、彼女の体をぎゅっと抱きしめた。
その瞬間、麻桜の肩がびくりと震える。
「……っ」
感情が溢れ、声にならない。
それでも麻桜は、グッと唇を噛みしめて、涙をこらえた。
――その瞳に映るのは、強さだけじゃない。
本当は、ずっと誰かに認めてほしかった、そんな少女の素顔だった。
焚き火のように小さな明かりを囲みながら、麻桜はぽつりと語り出した。
「……“白”って刻んだのは。 本当は、最初は迷ったんだ。神崎麻桜って本当の名前を残すべきかどうか。でも……誰も助けに行けない、こんなに深い階層で、私の名前が伝わればきっと、パパとママは心配すると思った。だから……せめてもの隠れ蓑として“白”って。昔やってたゲームでつけたキャラクター名なんだ」
そう言って、少しだけ寂しそうに笑った。
――両親を心配させたくない、ただその一心で。
その言葉の奥に、孤独の中で必死に自分を支えてきた小さな決意がにじんでいた。
私は胸が締め付けられる思いで口を開いた。
「……麻桜さん、あなたのご両親は、今でもあなたが無事に生きていると信じてるの」
麻桜が大きく目を瞬いた。
「麻桜さんがいなくなったこの四年間……ご両親は、ずっと冒険者たちに探索依頼を出してきた。その中には、国内に3人しかいない、ブラックランクの1人もいた。何度も、何度も。あきらめることなんて、一度もなかった。あなたの帰りを――今でも……。あなたが戻ってくるまで、これからもずっと待っているのよ」
その言葉を聞いた瞬間、麻桜の肩が小刻みに震えた。
両腕で自分の体をぎゅっと抱きしめ、顔を伏せる。
「……パパ……ママ……」
抑えきれない涙が頬を伝い、光にきらめいて落ちていく。
強くあろうと張りつめていた心が、ついに決壊したかのように。
私はそっと麻桜の背に手を添えた。
「大丈夫。あなたは帰れる。その時はきっと、ご両親が笑顔で迎えてくれるわ」
その言葉に麻桜は唇を噛み、震える声で「……うん」と返した。
「一緒に帰りましょ……ご両親のもとへ」
綾乃の言葉に、麻桜の瞳が大きく揺れた。
「……帰りたいよ。すぐにでも……」
胸の奥からこぼれる本音。だが、その声は震えていた。
次の瞬間、麻桜は小さく首を振り、マジックポーチの中から古びた学生手帳を取り出した。擦り切れ、角は崩れ落ちそうになっている。
「……これ、見てほしいの」
差し出されたそれを綾乃は受け取った。ページを開いた瞬間、息が詰まる。
「……これは……」
中には、当時十五歳だった少年の名前と顔写真。
――麻桜が、311階層で見つけた白骨死体が持っていたもの。
少年もまた、不安定ゲートに呑まれ、この深淵で命を落としたひとりだった。
「私だけじゃないんだよ……転送されてきたのは」
麻桜は静かに言った。
「でも、その人は……助けを待ちながら、ひとりで、あの階層で……」
言葉が震え、拳を握る。
「だから私は、まだ帰れない。綾乃さんや未桜ちゃんみたいに……助けを求めてる人が、今もどこかで生きてるかもしれない。私がやらなきゃいけないんだよ」
そう言って見せた笑顔は、涙を隠すように無理に作ったものだった。
強がりで、でも確かな決意がそこには宿っていた。
綾乃は胸が締め付けられるのを感じ、ぎゅっと学生手帳を抱きしめた。
「……そう……なら、私からもう何も言えないわね」
しばし目を閉じ、深く息を吐いてから、そっと提案した。
「……それならせめて……ご両親に手紙を書きましょう。あなたが生きていて、強く歩んでいることを伝えられるように」
麻桜は驚いたように瞬きをし、やがて小さく「……うん」と頷いた。
小さな明かりの中、麻桜は紙とペンを取り出し、静かに筆を走らせた。
文字はわずかに震えていたが、一字一句、心を込めて綴っていく。
やがて、短い手紙を折り畳み、綾乃へと差し出した。
「……お願い。私が帰る前に、これを……パパとママに渡して」
綾乃は両手でそれを受け取り、真っ直ぐに麻桜を見つめた。
「……ええ、必ず。私が責任を持って届けるわ」
その瞳には揺るぎない誓いが宿っていた。
しかし同時に、綾乃の胸には重い懸念が渦巻いていた。
――もし、この子が“白の亡霊”であると世間に知れ渡れば。
ダンジョンから戻ったその日から、麻桜の平穏は決して許されないだろう。
国も、世界も、彼女を手放さない。
(そんなの、あまりに残酷だわ……)
助けられた母として、ひとりの人間として――綾乃は心に固く誓った。
自分の立場を最大限に利用してでも、この少女を守る。
頭を必死に回転させながら、理想的な構図を組み上げていく。
それは、麻桜という存在を利用するのではなく、守り抜くための盾となる構図。
白の亡霊としての力ではなく、ひとりの少女・神崎麻桜として生きられる未来を――。
「……麻桜さん。私に考えがあるの」
綾乃はそう言うと、何かを決意したかのように微笑んだ。




