白の亡霊⑨
――ドガァンッ!!
再び衝撃。
シールド全体が大きく軋み、蜘蛛の巣状のひびが広がった。
「ひっ……!」
綾乃の胸が凍りつく。
次はもう持たない――直感で理解できた。
闇の中、光壁の揺らめきに照らされ、怪物の姿が浮かび上がる。
岩肌のような皮膚に、ねじれた牙。
背丈は人の数倍――巨大な猿のような怪物が、憎悪に満ちた金色の瞳を光らせていた。
「な、なに……これ……っ、聞いてない……こんなの……!」
恐怖で声が裏返る。
未桜は母の胸に顔を押し付け、小さな声で必死に泣きじゃくる。
「ママ……やだよ……こわいよ……っ!」
「だいじょうぶ、ママが……いるから……っ!」
綾乃は震える声で言い聞かせる。
だが自分自身、その言葉に縋るように口にしただけだった。
怪物が咆哮を上げ、拳を振りかぶる。
その影が光壁に覆いかぶさり、綾乃は絶望に息を呑んだ。
「やめて……」
涙で滲んだ視界。
綾乃は未桜を抱き寄せ、身を縮めて最期を覚悟した。
――ゴウッ!!
闇の奥から奔る漆黒の閃光。
それは一直線に怪物の顎を撃ち抜き、黒炎が肉を抉り、骨を焼き砕きながら燃え広がった。
「ギャァアアアッ!!」
断末魔が洞窟を震わせる。
頭部は黒炎に呑み込まれ、灰色の煙を上げながら崩れ落ちる。
巨体が壁際に叩きつけられ、のたうつ間もなく黒い残滓へと変わっていった。
綾乃は息を呑み、言葉を失った。
「な、何が……起きたの……っ……」
未桜は涙を溜めたまま、母の服をぎゅっと握る。
恐怖と安堵の入り混じった沈黙を破ったのは――
――コツ、コツ、コツ。
静寂を切り裂くように、規則正しい足音が近づいてくる。
綾乃は息を呑み、未桜を抱きしめる腕にさらに力を込めた。
闇の奥から、白い影がゆっくりと姿を現す。
フードを深くかぶったその姿。
白いマントが薄暗い空気の中に浮かび上がり、手には黒炎の残滓をまとった淡い光が揺れていた。
「……し、白の……亡霊……」
綾乃の声は畏怖と確信に震えていた。
石碑に刻まれる名、報告書で繰り返し見た存在。
その影が、白の亡霊だと直感が告げていた。そして、今まさに自分と娘の目の前に立っている――。
影は迷わず歩み寄り、未桜を安心させるようにしゃがみ込むと、そっとフードを外した。
白いフードの下から現れたのは、年若い少女の顔だった。
汗に濡れた額、真剣な眼差し。
恐怖に震える未桜と視線を合わせ、柔らかく微笑む。
「間に合ってよかったよ…… 大丈夫? 怪我してない?」
その澄んだ声は、不思議と胸を解きほぐすように響いた。
畏怖に凍りついていた心が、少しずつ溶けていく。
少女は2人を包む光壁に目を細めると、ボソリと何かを呟く。
「……ふうん、簡易型の防御シールドか」
小さく息を吐き、指先をそっと壁に触れる。
その瞬間、淡い光が揺らぎ、糸を解くように魔力の線がほどけていく。
――スッ。
音もなく光が収束し、まるで霧が晴れるようにシールドは掻き消えた。
「……はい、これでもう大丈夫」
驚きに目を見開く綾乃。
未桜は恐る恐る顔を上げ、シールドが消えたことに気づき、ぽかんと口を開けた。
少女はそのまましゃがみ込み、未桜と視線を合わせて柔らかく笑う。
「ほら、もう隠れなくても平気。おねーちゃんが来たからね」
少女はそっと未桜の頭を撫でた。
「……ほんとに……?」
未桜の声はか細く震えていた。
「ほんとにっ。おねーちゃんは強いんだぞー!だからもう泣かなくていいんだよ」
にこっと笑うと、未桜の強張った表情が少しずつ緩み、涙をこらえながら「……うん」と小さく頷いた。
その光景を前に、綾乃の心は大きく揺れる。
――ひと目見て、そう思った。
この少女こそが“白の亡霊”。世界を揺さぶり続けてきた存在に違いない、と。
「……白の……亡霊……?」
再び震える声で呟く綾乃に、少女はきょとんと首を傾げ、ぽつりと返した。
「へ……? しろの……ボウレイ?」
拍子抜けするほど無垢なその反応に、綾乃は思わず息を詰めた。
畏怖すべき影の正体は、想像もしなかった、あどけなさを残した少女だったのだ。
幼さをわずかに残しつつも、その瞳には確かな強さが宿っている。
綾乃の胸が強く打つ。
――知っている。この顔を。記憶の奥に、確かに刻まれている。
四年前、不安定ゲート事故で姿を消した少女。
報告書の片隅に記され、誰もが「もう生きてはいない」と考えた存在。
だが母親である自分には忘れられるはずがなかった。
もし未桜が同じように転送されてしまったら――その恐怖を幾度も想像してきたからだ。
震える声が、唇から漏れる。
「……神崎……麻桜さん……?」
その名を呼ばれた瞬間、少女は目を丸くして小首を傾げた。
「え……? どうして……私の名前を……」
あまりにも自然で無垢な反応に、綾乃の背筋が震える。
やはり――間違いない。
目の前にいるのは、四年前に失われたはずの少女だった。




