白の亡霊⑥
重々しい扉を押し開けると、湿った冷気が頬を撫でた。
苔むした岩壁が淡く光を帯び、奥へと続く通路は闇に溶け込んでいる。
――ここが、309階層。
その入口に、黒々とした巨石が鎮座していた。
古代の紋様が脈動するように淡い光を放つ――記憶の石碑だ。
私は歩み寄り、掌をそっと触れる。
石碑は静かに震え、胸の奥に声が響いた。
――名を刻め。ここに至った証として。
「……白」
短く告げると、黒石に白の一文字が浮かび上がり、光の粒が宙を舞った。
消えていく輝きを見上げ、私は唇を結ぶ。
「……私にできることは、全部やってみる!」
その言葉を吐き出した瞬間、胸の奥に熱が宿った。
⸻
走り出してから、ふと違和感に気づく。
随分と距離を稼いだはずなのに、脚はまだ軽く、呼吸も乱れていない。
むしろ胸の奥には力が満ちていく感覚があった。
右手首で脈打つ銀の装飾――双蛇の腕輪。
「……これの効果?」
片膝をつき、深呼吸を整える。
私は意識を集中させ、魔力を引き上げて術式に流し込んだ。
「――鑑定」
視界が淡く揺れ、光の文字が浮かび上がる。
――双蛇の腕輪
ランク:★★☆☆☆(ランク7)
効果:魔力を緩やかに吸収し、持ち主の疲労を軽減する。
鑑定阻害 ― 自分よりランクの下の者からの鑑定スキルを妨害する。
ただし発動のたび、持ち主の魔力が少し削られる。
「……鑑定阻害まで……でも、魔力を持っていかれるのか」
小さく呟きながらも、口元に笑みが浮かんだ。
癒しの水も何百本と蓄えている。魔力量だって4000を超えている。
この程度の代償なら、十分に補える。
「……やっぱり、当たりアイテムだね」
腕輪は心臓の鼓動と同じリズムで脈打ち、頼もしさを伝えてくる。
⸻
視線が肩へ落ちる。
白い布――白法のマント。
ランダムBOX【虹】から手に入れて以来、ずっと身に纏ってきた。
けれど、今ならその正体を知ることができる。
再び魔力を引き上げ、術式に注ぎ込む。
「……鑑定」
光が走り、文字が浮かんだ。
――白法のマント(はくほうのまんと)
ランク:★★★★☆(ランク9)
効果:魔法耐性を大幅に強化する。
精神抵抗を高め、恐怖や混乱への耐性を付与する。
自分よりランクの下の相手からの鑑定を阻害する。
フードを深く被ることで、存在を特定されにくくする。
「……これが……」
白狼戦の記憶が脳裏に蘇る。
シールドを砕かれ、心臓を握り潰されるような恐怖に呑まれかけたあの瞬間。
それでも踏みとどまれたのは、このマントが精神を護ってくれていたからだ。
「……もし、なかったら……私はあの時、死んでた」
白いフードを深く被る。
空気が揺らぎ、存在感が薄れていく。
“麻桜”という名が遠のき、胸の奥に新しい名が浮かび上がった。
「……私は、白として進む」
その言葉は小さくとも確かで、前を向く力に変わった。
⸻
決意と走り出し
石碑に名を刻み、装備の力を知った今、迷いはなかった。
自動マッピングが、歩いた道を光の線で記録していく。
未知の領域を一つずつ塗りつぶすように、私は歩んでいく。
――転送された人が、この先で息を潜めているかもしれない。
私だけが、その可能性を探せる。
「……やれることは、全部やる!」
私は息を整え、掌をかざす。
「――聖域天蓋!」
砦のような光が身体を覆い、外敵を寄せつけない盾となる。
「――黒隠虚衣!」
影が纏わりつき、存在感が薄れていく。
シールドと気配遮断を最大展開。
魔力がごっそり削られるが、腰に差した癒しの水が心強い。
今の私には、準備も、力もある。
「……よし!」
フードを深く被り、私は石碑から駆け出した。
光の線がマッピングされていく。
踏みしめる一歩ごとに、胸の奥で決意が強く燃え上がった。
⸻
アメリカ合衆国ワシントンD.C.。
世界ダンジョン対策本部――通称 WDA(World Dungeon Authority) の会議室に、再び警告音が鳴り響いた。
巨大スクリーンに映し出されたのは、記憶の石碑に刻まれた最新の記録。
そこには、またしても一文字――「白」 が浮かび上がっていた。
⸻
ホワイトレイス。
すでに319階層に到達し、世界で唯一のプラチナランクに認定された存在。
だがその名は一度きりではなく、309階層に至るまで、すべての石碑に刻まれ続けていた。
⸻
WDA本部
「……また白の名が刻まれたか」
幹部のひとりが深く息を吐く。
「319階層でプラチナランクと認定されたのは正しかった。
だが、あの存在は止まらず、309階層にまで到達している」
別の幹部が顔をしかめる。
「平均して二日ほどで一階層を突破している。
通常なら最高ランクのクランですら、一階層の攻略に二週間から一ヶ月はかかる。
300階層ともなれば、どれほどの時間がかかるかすら未知数……それを、この速度でだ」
議長が重々しく頷いた。
「規格外という言葉では足りん。人類の常識そのものが揺らいでいる」
さらに分析官が静かに口を開く。
「……不可解なのは進行の方向です。冒険者は誰もが深層を目指す。
なのにホワイトレイスは、なぜか逆に“上層”へと向かっている。
深層攻略が目的でないとすれば……一体、何を見ているのか」
沈黙が落ちた。
誰も答えを出せないまま、スクリーンの「白」を凝視していた。
⸻
東京湾岸にそびえる巨大施設。
日本ダンジョン対策本部支部にも速報が届き、ざわめきが広がった。
「……309階層。やはり“白”は本物だ」
支部長が険しい表情で口を開く。
「319階層に到達した時点で異常だと分かっていた。
だが、こうして二日ごとに石碑に名を残している以上、偶然ではあり得ない」
横に控えていた篠原綾乃副支部長が、冷静な声で口を添える。
「ですが支部長。普通なら深層を目指すはずなのに、“白”は逆に上層へと進んでいます。
……別の目的があるように思えてなりません」
支部長は短い沈黙の後、低く答えた。
「……いずれ帰還すれば、その理由も明らかになる。
だがその時、この国がどう向き合うか――覚悟が必要だ」
綾乃は小さく頷いた。
冷静な眼差しの奥には、一児の母としての複雑な感情が揺らいでいた。
⸻
国内最大クラン CresCent の会議室も、緊張に包まれていた。
ギルドマスターのナノは華奢な体を椅子に預け、モニターに映る「白」の文字を見つめる。
「……やはり本物だ。319階層に到達し、転送装置で帰還せず、309階層でも名を残した。
プラチナランクという枠組みそのものが、この存在のためにあるようなものだね」
ブラックランク冒険者、閃光姫リウが腕を組み、低く呟く。
「普通は深層を目指すもの。
でも“白の亡霊”は逆に上がっている……。何を探しているのかしら」
ナノは視線を落とし、柔らかく微笑む。
「分からない。ただ一つ確かなのは――迷っていないということだ。
あの存在は確かに“何か”を目指して進んでいる」
⸻
世界のざわめき
ロシア、中国、ヨーロッパ各国でも同じ速報が伝わり、人々は息を呑んでいた。
「深層を目指さず上層へ……そんな冒険者は過去にいない」
「異質だ。だが、それこそがプラチナランクの所以なのだろう」
ホワイトレイス。
その一文字が石碑に刻まれるたびに、世界の常識は少しずつ揺らいでいく。




