白の亡霊④
311階層の荒涼とした岩場を抜け、私は石造りの階段を上がった。
胸が高鳴り、鼓動が耳の奥で響いている。
――この上が、310階層。
視界が開け、私は思わず息を呑んだ。
そこには今まで見てきたどの階層とも違う光景が広がっていた。
石造りの広間は柔らかな光に包まれ、空気は澄み切っている。
獣の気配もなく、耳を澄ませても何も聞こえない。
「……モンスターの気配が……ない」
この一カ月近く、常に戦いに囲まれていた私にとって、その静けさはあまりにも異質だった。
ここは――セーフティーエリア。
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そして広間の中央に、それはあった。
円環状の台座に浮かび上がる古代の紋様。
青白い光が脈打ち、淡い波動が空気を震わせている。
「……これが……転送装置だよね……」
言葉が漏れ、膝が震えた。
触れれば――帰れる。
パパにも、ママにも。
ずっと夢見てきた“地上”へ。
「帰れるんだ……! 本当に……帰れるんだ!」
声が弾んだ。胸が高鳴り、子供みたいに駆け寄りたくなった。
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その時、カサリと小さな音がして、腰のベルトに挟んでいた一冊が床に落ちた。
――学生手帳。
311階層で見つけた、白骨が抱きしめていたもの。
私は慌てて拾い上げ、胸に強く抱きしめる。
「……ごめんね」
言葉が掠れ、胸の奥に重く沈んだ。
ここに辿り着けたのは私で、彼ではなかった。
その違いが痛いほど胸に刺さる。
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転送装置を見つめながら、心が揺れる。
触れれば、すぐにでも帰れる。
けれど――地上に戻ればどうなる?
「……帰ったら、周りはきっと騒ぎ出す。
ダンジョン対策本部、警察、冒険者……。
私がどうやって生き延びたのか、誰もが知ろうとする」
呼吸が荒くなる。
次にダンジョンへ入れるのはいつか。いや、もう二度と許されないかもしれない。
そしてその間に――今、どこかで助けを求めている人がいるかもしれないのに。
私は学生手帳を胸に押し当てた。
「……帰るのは遅くなっちゃうけど……。
あんな思いは、もう誰にもさせたくない。
パパ、ママ……ごめんね。私、やるだけやってみる!」
迷いを断ち切るように、声に出した。
その瞬間、胸の奥に新しい強さが灯るのを感じた。
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転送装置の横には、いつものように記憶の石碑が立っていた。
光の紋様が脈打ち、触れると脳裏に声が響く。
『――名を刻む者よ、汝の名を示せ』
私は深呼吸し、しっかりと答える。
「……“白”」
光が走り、石碑に刻まれる。
「白 / 310階層到達」
その輝きを見つめ、私は拳を握った。
「……待っててね」
転送装置に背を向け、私は再び歩き出した。
310階層の静謐なセーフティーエリアをあとに、私は石造りの階段を登った。
一段ごとに鼓動が速まっていく。
やがて、重厚な扉が目の前に立ちはだかった。
白狼戦の記憶が甦る。
砕け散ったシールド。
震える膝。
死の恐怖に呑まれたあの瞬間。
――だからこそ、私は新しい技を生み出した。
天を覆うほどに広がる結界を、自分を守る砦へと圧縮する。
「どんな攻撃も通させない」――そう願って。
聖域天蓋。
そして、生きるために必要だったのは、敵に見つからないこと。
呼吸も鼓動も掻き消し、影に身を沈める。
「絶対に生き延びる」――その一心で編み出した。
黒隠虚衣。
名を与えた瞬間、イメージは形を結んだ。
白狼に打ち砕かれた過去が、今の私を創った。
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私は掌を広げ、魔力を放つ。
「――聖域天蓋!」
光の結界が天を覆い、ぎゅっと圧縮されて全身を包む。
消費魔力は1000。砦が完成した。
「――黒隠虚衣!」
影が衣となり、存在が世界から切り離される。
消費魔力1000。
呼吸すらも感じさせない。
すぐに腰から癒しの水を取り出し、喉に流し込む。
魔力が満ち、全身が研ぎ澄まされた。
「……準備完了」
私は迷いなく、両手で扉を押し開いた。
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松明が一斉に灯り、広間を照らす。
そこにいたのは――双頭の大蛇。
漆黒の鱗が光を反射し、二つの黄金の瞳が不気味に輝く。
それぞれの口からは熱い吐息が漏れ、牙は鋭く、先端から毒らしき液体を光らせていた。
尾が石床を叩き割り、地響きが広間を震わせる。
「……双頭の蛇……これが、ボス……」
黒隠虚衣により、私の姿は掴ませない。
だが、巨体はゆっくりとこちらを向いた。
――蛇特有の感覚、体温で位置を探っている。
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「……なら、時間は与えない!」
掌に漆黒の魔力を凝縮する。
研ぎ澄まされた黒炎は、かつてよりも鋭く重い。
「――黒炎閻魔・改!」
黒閃が広間を裂き、一方の頭を直撃。
閃光と共に、空間を抉るように片方の頭部が吹き飛び、床へと崩れ落ちる。
だが――もう片方の頭は、怒りに吼えてこちらを見据えた。
「……まだ、終わらない……」
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瞬間、巨体がうねり、尾が振り下ろされた。
轟音と共に床が砕け、破片が飛び散る。
直撃の一撃。
「――ッ!」
私は身をすくめるが、聖域天蓋が光を放ち、衝撃を弾き返す。
盾は砕けない。
恐怖に震えたかつての私ではない。
「……守り切った……!」
砦が守ってくれている。
胸に安堵が広がる。
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残る一つの頭が牙を剥き、熱気を帯びた吐息が広間に広がった。
双頭の大蛇はまだ健在。
だが、私は拳を握り、静かに構えを取り直す。
「――ここからは、私の反撃」




