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わたしを呼ぶ声がしてー2

風が、吹いていた。

どこか遠くの草原のような、でも街角にも似た匂い。

私の足元には影がなかった。だけど、ちゃんと存在している感覚だけはある。


目の前に、少女がいた。


年の頃は私と同じくらい。

けれどその瞳は、私よりもずっと多くのものを見てきたような深さがあった。


彼女は最初、笑っていた。

雨粒に手をかざして、その冷たさを楽しんでいた。

転んで、膝を擦りむいて泣いて、それでもまた立ち上がって笑っていた。

その全ての感情が、鮮やかだった。

彼女の世界は、まるで虹色で、音楽のように弾んでいた。


……だけど、それは次第に変わっていった。


彼女の世界から、色が一つずつ消えていった。

笑っていたはずの顔が、ほんの少しだけ、空っぽになっていく。


それに気づいた彼女は、“誰か”を創り出した。

自分と同じ姿をした、けれどもっと明るくて、

まるで太陽のような存在。

その“彼女”は、笑い方を教えてくれた。世界の美しさを思い出させてくれた。


でも、何度繰り返しても、

“楽しい”はだんだんと薄れていった。


いつのまにか、彼女は“楽しい”という言葉すら、使わなくなった。

気づけば、自分の中に残っているのは――

“悲しい”や“辛い”や“痛い”だけだった。


そうして彼女は、もう一人、“誰か”を創った。


今度は、柔らかくて静かな存在だった。

抱きしめてくれる。手をつないでくれる。

ひたすらに優しい、“母のような誰か”。


その“誰か”に、彼女は自分の心を預けた。

泣きたいときには、その胸に顔をうずめて。

眠れない夜には、そっと手を握ってもらっていた。


けれど、それでも、

“悲しみ”は、消えなかった。


楽しいことはすぐに薄れていくのに、

悲しいことだけが、何年経っても、いつまでも消えなかった。


忘れられない。

いつまでも心にとどまり続ける。


彼女の目は、どんどん静かになっていった。


――そして、最後に。


彼女は、何も語らない存在を作った。

名前もない。

笑わないし、泣かないし、手も差し伸べない。


ただ、そこに“在る”だけの存在。

感情を持たず、記憶だけを宿す、空白のような人形。


彼女は、それを“最後の創造”とした。


「もう、これ以上は……いらない」


その声は、どこかで私の心にも響いた。


まるで、私自身がその記憶の中にいたかのように。


私は足元を見た。

影が戻っていた。


けれど、そこには、うっすらと涙の跡がにじんでいた。


* * *


ぱちん、とまぶたが開いた。

天井の模様が、ぼやけた視界に浮かぶ。

どこか遠くで、鳥が鳴いている声が聞こえた。


胸が、少しだけ痛かった。

夢の内容は覚えていないのに、なぜか――泣きたくなるような寂しさが、残っていた。


私は枕元を見た。

そこにある、銀鎖のペンダント。

その中央の石が、朝の光を受けてかすかに、鈍く光っていた。


……あの夢の中で、

私は、誰かの“痛み”を知っていたような気がする。


けれど、思い出そうとすると、

その記憶は、まるで霧のように指の隙間から抜けていく。


「……変な夢」


つぶやいた声が、部屋にぽつんと響いた。


私はベッドを抜け出して、窓のカーテンを開ける。

柔らかな朝の光が部屋に差し込んで、

そのまま、街の空気がすっと流れ込んできた。


あの夢の少女――


あれは、誰だったんだろう。

もしかして……私だったのだろうか。


答えは出なかった。

だけど、心のどこかで、“それでも知りたい”と思っていた。


今日もまた、旅が始まる。


その先に、あの夢の続きを知る“何か”がある気がして。


* * *


それから数時間後――


朝の光が、カーテン越しにやわらかく差し込んでいた。


宿のロビーにはパンの香りが漂い、人の声が遠くで重なっている。

けれど、今朝の私はどこかその音すべてが、別の世界のものに感じていた。


「……リーン」


朝食のあとの静かな時間。

ベンチに並んで座っていたとき、私はようやく声をかけた。


「昨日のこと……わたし、変だったよね」


リーンは、少しだけ間をおいて、私を見つめた。

その目に映るのは、いつもの優しさと、ほんのわずかな戸惑い。


「……なにか、覚えてる?」


「うん。でも、ぜんぶじゃないの。

あのとき、わたし、怖くて、動けなかった。

助けて、って思った……でも、気がついたら、もう安全な場所にいて」


私は自分の手を見つめながら、ぽつりぽつりと話す。


「誰かが動いたみたいに、わたしの体が勝手に動いてて……

でも、あれって本当に“わたし”だったのかな」


リーンは目を伏せた。


私は続ける。


「昨日の夜、ペンダントを見てて思ったんだ。

記憶って、感情にくっついて残るって言ってたよね。

わたしの中にも、なにか……“残ってる”ものがあるのかなって。

わたしじゃないけど、わたしの中にいる“誰か”みたいな……」


それを言葉にした瞬間、背筋がすうっと冷えるような感覚が走った。

自分で言っておきながら、ぞっとした。


リーンはしばらく黙っていた。

けれど、やがて静かに口を開く。


「……そろそろ、話すときかもしれないね」


その声は、昨日までの彼女とは少し違っていた。

優しさの奥に、何かを“覚悟した”響きが混じっていた。


「昔の話を、少しだけ。

レン、今日の午後、時間くれる?」


「うん」


私は頷いた。

心の奥に、なにかが小さく鳴る音がした。


それは恐れかもしれないし、期待かもしれなかった。


けれど――知りたいと思った。



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