記憶の外側でー1
Whispers:見えない足音、触れられない影**
夜の風が、ページをめくるように空気を揺らす。
リーンは人知れず、街の記憶をなぞる。
光の当たらない路地、何かを追いながら、誰にも気づかれないように痕跡を消す。
彼女の歩みは静かで、それでいて確かに過去と現在をつなぐ。
* * *
朝の空気は、ひと晩で生まれ変わったように清々しかった。
余計なものがまだ混じっていないから、呼吸がしやすい。私はその時間が好きだった。
宿の扉を静かに抜け出して、ひとりで歩く。
散歩というには目的が曖昧だったけれど、足取りは迷いがなかった。
この街に来るのは初めてのはずなのに、景色の曲がり方も、空の色の変わり方も、どこか懐かしい。
ふと、足が止まった。
古い写真屋があった。
石造りの外壁、くすんだショーケース、手書きのフォント。
すべてが時間に取り残されたようで、それでいて、その静けさが心地よかった。
ショーケースに並んだ写真は、どれも日常の断片だった。
家族、動物、卒業式、観光客――
そのなかに、ふと目を引くものがあった。
角に貼られた一枚。
木陰の下で肩を寄せ合う、ふたりの女の子。
笑顔だった。けれど、よく見ると、片方――右側の少女は、どこか憂いを帯びた目をしていた。
もうひとりは優しげに微笑んでいて、どちらも制服らしき服を着ていた。
背景の建物の輪郭、木々の生え方、光の角度――思い出すまでもない。
その写真は、私の手元にある一枚と、まったく同じだった。
鞄の中に大事にしまってあるそれが、微かに紙擦れの音を立てた気がした。
私はそっと指先で確かめる。たしかに、そこにある。
静かに端末を取り出し、写真屋のホームページを開く。
ローカルな作りのサイト。更新は不定期。写真一覧の中に、件の画像を見つける。
私は小さく息を吸って、操作画面を呼び出した。
メニューの奥。ログイン管理画面。特定のファイル名――
ごく短い処理だけが、数秒間だけ走る。
ページが再読み込みされ、先ほどの写真は別のものに差し替えられていた。
何の警告も表示されず、ログも残さず、ささやかな痕跡だけを残して。
私は端末を閉じ、もう一度ショーケースの方を見た。
外観は変わらず、飾られた写真もそこにある。
けれど、それがあとどれだけここにあるのかは、もうわからない。
「……こっちの方は、来ちゃだめだなぁ」
自分に向けた問いのように、誰にも届かない声で呟いた。
石畳の表面には陽の光が細やかに反射していた。
朝が動き出していた。
人通りが少しずつ戻り、パン屋の香りやコーヒーの匂いが通りに混ざっていく。
写真屋の前を離れ、私は再びゆっくりと歩き出す。
ささやかな違和感が胸に残ったまま、私はゆっくりと写真屋を後にした。
けれど、それを抱えたまま歩くことには、もう慣れている。
ふと足を止めた角の向こうから、ふんわりと蜂蜜のような甘い匂いが流れてきた。
微かな賑わいの気配。空気に混じる焼きたてのパンの香り。
朝の街が、静かに目覚めていく。
* * *
地図にも載っていない小道を抜けると、思いがけず開けた広場に出た。
その一角で、こぢんまりとした朝市が開かれていた。
まだ開店準備中の屋台も多く、ざわめきは静かだったけれど、かすかに焼きたてのパンと果物の匂いが漂ってきた。
私はその場を通り過ぎようとした。けれど――
「……わ、いい匂い……!」
背後から、聞き慣れた声が追いかけてきた。
振り返ると、レンがそこにいた。まだ少し寝ぐせの残る髪を押さえながら、小走りで私の隣に並ぶ。
「リーン、もしかしてこっちに来てると思って」
予想より早く朝食が始まると勘違いしたらしい。
私が笑うと、レンは「ごはんの前に歩くのも健康にいいし」と言い訳のように言って、でもすぐに市の並びへ目を輝かせた。
はちみつ、果物、手作りのジャム。
地元の木工品や、素朴な布地の小物まで――どれもささやかなものばかりだったけれど、彼女の眼差しは宝探しをする子供のように楽しげだった。
「これ見て、蜂の巣がそのまま入ってる! 食べたことない!」
「糖分のかたまりだよ、それ」
「でもロマンあるじゃん、こういうの!」
私は笑って首をすくめた。
こうして歩く時間が、こんなにも愛おしく感じるとは思わなかった。
任務の途中であることも、私自身が長くはここにいられないことも、今だけは遠くに感じられた。
レンが手に取ったジャムの瓶を眺めて、ふと口にした。
「こういう少し苦いの、リーン好きそう。柑橘の皮がちゃんと残ってて、すこし香ばしい匂いするし」
「……どうして、そう思うの?」
「んー……なんとなく、だけど。やさしい味っていうより、“芯がある味”って感じだから」
私は思わず黙り込んでしまった。
まさか、そんな言葉が返ってくるとは思っていなかったから。
彼女は時折、驚くほど本質に近いことを、無自覚に言葉にする。
「じゃあ、それにしよっか。今日のおみやげってことで」
レンはにっこり笑って、瓶を抱きしめるように持った。
この子が笑っていられる時間が、少しでも長く続きますように――
そう願うのは、きっと、わたしのほうだ。
* * *
朝市をあとにした頃には、空はすっかり晴れていた。
通りの向こうでは、パン屋がちょうどシャッターを開けるところで、香ばしい香りが風に乗ってこちらまで届いてくる。
レンはジャムの瓶を大切に両手で抱えながら、足元を確かめるように一歩ずつ進んでいた。
「……なんかね、こういう時間って、すぐ忘れちゃいそうだよね」
ふと、そんなことを言った。
「たとえば数年後、また同じ道を通っても、たぶん思い出せないんだろうなーって」
「それは、悪いことじゃないよ」
「うん、わかってる。でも、ちょっとだけ惜しい気もする」
レンはそう言って、顔を上げた。
陽の光がまっすぐに射していて、彼女の瞳がきらきらと光を返す。
それを見て、私はどうしてだか、返す言葉を失った。
「だからね。今日のこと、なんとなく記憶に残るようにしておくね」
「どうやって?」
「たとえば、今、すっごく苦いジャムを買ったって記憶にするとか」
「それ、あとで私が文句言われるやつじゃない?」
ふたりで笑いながら歩いた。
その笑顔も、気まぐれな言葉も、誰かに似ているようでいて、決して同じではない。
レンはレンでしかない。
それなのに、私は――
彼女の未来に、私がいないという前提で、日々を過ごしている。
ジャムの瓶を抱えたまま、レンはふと振り返った。
「ねえ、リーン。ありがとう。なんとなく、今日、すごくいい朝だった」
その声を聞いて、私は言葉に詰まった。
この子の隣にいられる今を、大切にしたいと思うのに、
その今が確実に終わってしまうことを、私は知っている。
「……うん。こっちこそ、ありがとう」
だから私は、それ以上、何も言わなかった。
伝えることも、伝えないことも、全部――私のわがままだと分かっていたから。
空はすっかり明けていた。
宿への帰り道、通りはすでに観光客や通勤の人々で賑わい始めている。
レンはジャムの瓶を抱えて、時折思い出したようにふっと笑っていた。
私たちはそれぞれ、何かを抱えている。
でも今は、その重さを測り合うような時間じゃない。
そのまま宿の扉をくぐると、ロビーには朝刊が積まれ、珈琲の香りが静かに漂っていた。
ふたりの1日が、また新しく始まろうとしていた。