春風の街にてー3
買い物のあとは、通りを少し歩いて、小さな飲食店に入った。日が傾きかけていて、オレンジ色の光が店内の木製テーブルをやわらかく染めていた。窓際の席に案内されて、私はほっと息をついた。
リーンがオーダーしたスープから、湯気がふわりと立ちのぼる。その香りが鼻をくすぐった瞬間――胸の奥に、妙な懐かしさが走った。
「……この匂い、なんだか懐かしい」
思わずぽつりと口をついた言葉に、リーンが少しだけ目を細めた。
「そう? 初めて食べる味じゃないの?」
「うん……味は覚えてないんだけど、なんとなく……こういう香り、昔どこかで」
記憶というより、感覚だった。その場の景色や人の顔は浮かばないのに、匂いや空気だけが、ぽつりと心に引っかかる。
「感覚って、記憶に残りやすいんだって。特に、匂いと味は、脳に直結してるから」
「へえ……そうなんだ」
私はスプーンを手に取って、スープを口に運ぶ。味は、特別じゃない。けれど、じんわりと染み渡るようなあたたかさが、どこか懐かしい。
食べながら、胸の奥に広がっていくのは――静かな、波のような感覚だった。懐かしいのに、思い出せない。知ってる気がするのに、確信が持てない。
「……変な話だけどさ、私、思い出せないんだよね。子供の頃のこと」
口にした瞬間、自分でも驚いた。そんなこと、今までちゃんと言葉にしたことなんてなかった。
「?」
リーンが静かにこちらを見る。その瞳の奥が、少しだけ揺れた気がした。
「ほら、普通さ、小学校とか、友達の名前とか、あるじゃない? でも私、ふわっとした景色だけで、ちゃんとした記憶が全然ないの。なんか、ずっと、旅してた気がするんだよね」
笑ってみせた。深刻にするつもりなんてなかった。ただ、不思議だっただけ。けれど、リーンは少しだけ、視線を伏せた。
「変な話でしょ?」
「ううん、レンらしいって思っただけ」
「え、それどういう意味?」
「ナイショ」
くすりと笑う彼女の顔を見ていたら、なぜだろう――ふわっと心が落ち着いた。曖昧な記憶の中でも、今この瞬間だけは確かで、温かかった。
そのあと、小さな露店の前で足を止めたのは、偶然だった。
夕暮れが濃くなり始めた通りの端。人の足音もまばらになった路地に、ぽつんと灯りがともっている。街灯の光がその下だけをやわらかく照らしていて、まるでそこだけ時間が止まっているようだった。
その光の輪の中に、小さな木製のテーブルがひとつ。布も敷かれず、素朴な木目のまま。その上に、銀鎖のペンダントがひとつだけ、ぽつんと置かれていた。
装飾品というには寂しげで、でも見捨てられたようには見えなかった。
中央には、野茨を模した繊細な細工。葉の一枚一枚まで彫り込まれていて、蔓は柔らかく絡み合い、どこか意志を秘めたような曲線を描いていた。その合間に、小さなダイヤモンドが数粒、控えめに埋め込まれている。けれど、光の反射はどこか鈍くて、吸い込まれるような黒みを帯びている瞬間すらあった。
「……これ……」
私はなぜか、そのペンダントから目を離せなくなっていた。
まるで、見つけてくれるのを待っていたように、そこに“在った”。
手を伸ばしかけたとき、不意に声がかかった。
「それに興味を持ってくれたのかい?」
驚いて顔を上げると、年配の男性がそこに立っていた。店主だろうか。くしゃくしゃの毛糸帽をかぶり、肩には羽織ものを引っかけただけのラフな格好。けれど、その瞳は曇りなく、深く澄んでいた。
「変わったモチーフでね、人気はないけど、私は好きなんだよ。どこか……芯があるというか」
「……芯、ですか?」
「うん。華やかじゃないけど、主張がある。あと、そこにある石。ダイヤなんだけどね、ちょっと光り方が悪くて、安くなっちゃってさ。SAなんとかってブランドのものらしいけど、有名じゃないし。気に入ったなら、安くしとくよ」
私は再び視線を戻した。銀鎖の端から、ペンダントヘッドがわずかに揺れている。細工の隙間から裏面がちらりと覗き、何かの刻印が見えた。
身をかがめて、そっと角度を変える。擦れていて、はっきりとは読めないけど、こう書いてある気がした。
「S…A…R…A……?」
その瞬間、小さく震えるような微かな音が、胸の奥で響いた気がした。心の鼓動でも、耳鳴りでもなく――それは、まるで“奥の記憶”が反応したような感覚だった。
気のせいかもしれない。でもその音は、懐かしいようで、知らないようで、ひどく心を揺らした。
「レン、それ……」
リーンが、ぽつりと口を開いた。
「野茨の花言葉、知ってる? “純朴な愛”。……いい意味、だよね」
私はその言葉にうなずきながらも、どこか現実感の薄い空気に包まれていた。
「ふうん……そっか。私は、花言葉とか、あんまり詳しくないけど」
そっと、ペンダントを手に取る。ひやりとした金属の感触が、肌を撫でた瞬間に、背筋をなぞるような震えが走った。
特別な意味は、きっと、ない。でも……なぜか、手放したくない気がした。
それは欲しい、ではなく、“ここにあるべきもの”という感じ。自分でも説明できない、けれど確かな引力。
「これ、もらっていきます」
* * *
レンがペンダントをそっと手に取ったその夜――。
窓の外、まだ世界が青く霞んでいる。目覚ましより少し早く目が覚めてしまった。
(あれ……)
布団の向こう、もうひとつのベッドが静かに沈んでいる。整いすぎたシーツ。毛布の折り方がまるで動いていない。
「また、いない……」
ぽつりと呟いて、私は上半身を起こす。こういうのは、いつものことだ。初めての街に来たときは、決まってこれだ。
「……下見、しすぎじゃない?」
ベッドの端に座って、壁際に置かれたスーツケースをぼんやり眺める。リーンは“朝の散歩”と言うけど、地図で調べたり、道を確認したり……そこまで几帳面な人だったかな?
(別に悪いことじゃないけど……)
私は静かに立ち上がると、服を選びながら、口元に小さく笑みを浮かべた。
「迎えに行こう。なんとなく、そんな気分」
スマホをポケットに入れて、軽く髪を整える。ドアノブに手をかけると、ふわりと朝の冷気が鼻をかすめた。
その冷たさに、ほんの一瞬だけ、胸の奥に微かな“違和感”が残った。でも――私はそれを、まだ“気のせい”のまま胸にしまった。
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