春風の街にてー2
外に出ると、空の色はすっかり変わっていた。雲が厚く流れ込み、空の端がしずかに染まり始めている。風が重たく、頬に触れる空気が少し冷たい。
「え、雨……?」
ぽつ、ぽつ、と頬に冷たい滴が触れる。次の瞬間には、ざあっと、まるで合図でもあったかのように、空が音を立てて泣き出した。
「わ、けっこう本降りだ……!」
「春って、油断できないね」
リーンが袖口の水を軽く払いながら笑う。その仕草はいつものように無駄がなく、濡れた髪からはまたあのやさしいリネンの香りが立ち上ってくる。
「……ねぇ、あれ」
彼女が顎で指し示した先に、雨宿り用の軒下があった。その壁際、細いパイプの根元に、黄ばんだビニール傘が一本、ぽつんと立てかけられていた。
忘れ去られたようにそこにあって、誰のものでもないように見えた。
「……使っていいのかな」
私は傘に近づき、そっと柄の部分に触れた。軽い。骨の一部が少し歪んでいたけれど、持ち上げたときのバランスは悪くない。ビニールの表面には細かな擦り傷があり、何度も使われてきた痕跡があった。
「置き傘ってやつかな? 旅先だし、ありがたく借りようか」
リーンが言ったその声は、雨音に少しかき消されて、後から柔らかく響いた。
私はゆっくりと傘を開いた。バサリという音とともに、透明なビニールが弧を描いて広がる。その内側に、外の灰色の世界が淡く映り込んだ。
雨は強く、傘の上に打ちつけられる粒がリズムを刻んでいた。その音を聞いていると、胸の奥がじんわりと揺れるような感覚があった。
「……なんか、前にもこういうことあった気がする」
ぼんやりとした記憶の端をなぞるように、私はつぶやいた。
「どこで?」
リーンの声は静かで、急かさない。私は傘の内側を見上げながら、しばらく黙って考える。
「うーん……覚えてない。ただ……同じ匂いがした気がする。雨の匂いと、この傘のビニールの感じ」
雨とビニールの混ざった匂い。それはどこにでもありそうで、でもたしかに、過去のどこかと結びついていた。名前のない記憶。触れそうで、指の隙間からすり抜けていくもの。
雨の音が、静かに、けれど止む気配なく続いていた。
「ねぇ、デジャヴってさ、本当に記憶の断片だったりするのかな?」
私はふと口にした。言葉にしてしまえば壊れてしまうような、頼りない感覚。けれど、それでも聞いてみたかった。
リーンは傘越しに私の方を見て、小さく微笑んだ。
「どうだろ。脳の勘違いって言われることもあるけど……でも、レンの感覚って、誰よりも繊細だと思うよ」
「繊細って……それ、褒めてる?」
「もちろん」
お互いの顔が、雨の帳の中で揺れるように笑った。
どこにも行けない、どこにも急がない、ただ雨宿りをしているだけの時間。でも、不思議なことに――そのひとときが、確かに「今、ここにいる」っていう感覚を、強く胸に残した。
やがて、雨が静かにやんだ。
傘の上を打っていた粒が、ひとつ、またひとつと音を落とし、気づけば静寂だけが残っていた。空を見上げると、雲の切れ間から光が射していた。まるで灰色のカーテンがすっと引かれたように、優しい陽の光が、少しずつ地上へ戻ってきていた。
空気の匂いも変わっていた。濡れた石畳と、雨に濡れた花の匂い。そして、ほんのわずかに暖かさを含んだ風が頬を撫でる。それはまるで、「もう大丈夫」とでも言うように、私たちの背中をそっと押してくれる風だった。
午後の陽差しが、柔らかく石畳を照らしていた。
水たまりには光が反射して、まるで小さな湖のように空を映している。通りの端に、子どもたちの笑い声が戻り始めていた。どこかの家のバルコニーからは、洗濯物を干す人の影がちらりと見えた。
そんなふうに、街全体がそっと目を覚ましていくのを感じながら、私たちはまた歩き出した。
なんとなく、気になって立ち止まった観光案内所の一角に、小さなコーナーがあった。そこには“自由ノート”と呼ばれる、旅人たちが思い思いの言葉を綴った冊子が静かに置かれていた。
紙の手触りは少しざらついていて、何人もの手を経てきたのが分かる。ページをめくると、走り書きのメッセージや、絵のようなイラスト、詩のような言葉が並んでいる。人の温度が残っている気がして、自然と指が止まった。
知らない誰かが書いたはずのそれらが、不思議と身近に感じられた。私は指先で、一枚一枚を丁寧にめくっていった。
そして、ふと――ある一文が目に飛び込んできた。
「“もし忘れてしまっても──この世界で、誰かが思い出せるように”」
……あれ?
妙に胸の奥がざわついた。まるで、懐かしい曲の一節を思い出した時のように。
筆跡に、見覚えがあった。癖も、筆圧も――これは。
「……え?」
私は慌てて手帳を取り出し、そこに書かれた自分の文字と見比べた。あまりに似ていて、言葉を失った。そっくり、なんてものじゃない。まるで、コピー。
でも、私はこの街に来た記憶がない。この駅も、景色も、ノートも……頭のどこにも引っかかっていないのに。
心がざわつく。時間の流れが、ほんの一瞬だけ止まったように思えた。
「ねぇ、ちょっと寄ってみよ?」
リーンの声に現実に引き戻されて、私は顔を上げた。通りの向こう、ガラス窓の向こうには、春の風を写したようなワンピースたちが並んでいた。淡いパステルカラー、ふんわりしたシルエット。陽光を浴びて、どれもとても柔らかく見えた。
* * *
「また? さっきも服屋、二軒寄ったじゃん」
私はちょっと呆れながら言ったけど、内心は少しだけ嬉しかった。
リーンがこんなふうに誘ってくれるのは、彼女なりの気遣いだって分かってる。
「でもここ、可愛い系も大人っぽいのもある。欲張りなレンにはちょうどいいかも?」
「私は欲張りじゃないし……」
口を尖らせてみせると、リーンはくすりと笑って、もう店のドアを押していた。
その後ろ姿は、どこか風に溶け込むみたいで、つい見とれてしまう。
店内は、やさしい木の香りとほんのりとしたアロマの香りが混じり合って、落ち着く空気を作っていた。
壁際には春色のブラウスやスカートが規則正しく並び、中央のテーブルにはナチュラルな素材のアクセサリーが整然と並んでいる。
どこか、絵本の中の雑貨屋さんみたいな空間。
私とリーンは自然に、それぞれのラックへと別れた。
私はふと、くすみピンクのスカートに目が留まる。
控えめな色味の中に、リボンの端に小さな花の刺繍がそっと施されていて、思わず手に取った。
柔らかな布地が指先を滑り、軽やかな手触りに思わず微笑む。
「……こういうの、好きなんだよね。あんまり主張しすぎなくて、でもちゃんと“かわいい”」
ぼそりと呟きながら、スカートを胸元にあてて鏡を覗き込む。
ほんのり血の気の少ない自分の肌に、その淡いピンクは優しく映えて、手首に巻いたシルバーのブレスレットともよく合っていた。小さなチャームが揺れるたび、ほんの少しだけ、胸が高鳴る。
鏡に映る私は――なんだか、少しだけ自信ありげに見えた。
「……これくらいなら、冒険しすぎないかな」
ふと漏れた独り言。すると、背後からリーンの声が届いた。
「それ、似合うよ。でも、ほんとはこういう色好きでしょ?」
振り返ると、彼女が手にしていたのは、淡いミントグリーンのトップスとグレーのスカート。
どちらも落ち着いた色だけど、清涼感があって、品の良さを感じさせる。
「え、でもそれ、私には似合わな……」
自分で言いかけて、言葉が詰まる。確かに――この色、嫌いじゃない。むしろ、好き。
なのに、“似合わない”ってどこかで思い込んでいた自分がいた。
「知ってる。でも、好きでしょ? そういう色」
リーンの笑顔は、どこか茶目っ気があって、それでいて妙に安心できる。
その一言が、私の中の迷いをすっとほどいていくようだった。
「……なんで分かるの?」
「そりゃもう、レンのことなら、だいたい分かるもん」
私は、少しだけ頬を染めながら、そのセットもそっと手に取った。
リーンはというと、店の奥にあるラックでロングワンピースを手に取っていた。
深いダークグリーンの生地に、小さなリーフ模様が静かに浮かんでいる。遠目には無地にも見えるけど、目を凝らすと繊細な柄が浮かび上がる――まるで、彼女自身のようだった。
その佇まいに、ワンピースは不思議なほど馴染んでいた。
何かを主張するでもなく、でも確かに“そこにある”。静かで、けれど力のある存在感。
「それ、すごく似合いそう……」
思わず漏れた本音に、リーンは振り向いて微笑んだ。
「ふふ、ありがと。でも、ちょっと地味すぎるかなって思ってたとこ」
そう言いながら、彼女は同じく落ち着いたアイボリーのカーディガンを合わせる。
その手つきが、また綺麗だった。
指先が滑るように布地を撫でて、袖の長さをそっと整える。まるで、何か儀式のように丁寧に、正確に。
その所作がとても自然で、見とれてしまう。
リーンの横顔は、相変わらず端整で、けれど冷たくはなかった。輪郭の柔らかさと、その奥にある確かな芯。どこか、彫像のような静けさと、春の朝みたいなぬくもりが共存していた。
すれ違いざま、ふわりと鼻先をかすめたのは、リネンの香り。
香水の匂いじゃない。あの、柔らかな柔軟剤の匂いだけが、彼女の空気を作っていた。
「じゃあ、これとこれで、試着してみようか」
選んだ服をそれぞれ腕に抱え、ふたり並んで試着室へと向かう。
店員さんに会釈してから、カーテンの向こうに入った。
狭い空間で着替える最中、壁越しにリーンの声が聞こえてくる。
「ねぇ、ボタン外れそうになってる……ちょっと手、貸してくれない?」
「もう、また雑に着るから……貸して」
私は少しだけカーテンを開けて、手を差し伸べた。
するとすぐ、リーンの細くてしなやかな指が、するりと私のボタンを直してくれた。
その動きはまるで機械のように正確で、タグが見えないように綺麗に整えてくれる。
「……完璧。はい、できた」
「ありがと」
試着室を出て、ふたり並んで大きな姿見の前に立つ。
そこに映る私たちは――まるで、本当の姉妹みたいだった。
おそろいじゃないのに、不思議と調和していた。色味も、雰囲気も。鏡の中の自分が、少しだけ自信を持ったような顔をしているのが分かる。
「……こうしてると、なんか変な感じするね」
「うん。変じゃないけど、不思議っていうか」
「おそろいじゃないけど、並ぶとしっくりくるって、不思議だよね」
そんな言葉を交わしながら、私たちは鏡越しに微笑み合った。
ささやかで、何気ない瞬間。
だけど、胸の奥にそっと灯るような――あたたかい時間だった。
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