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「いいねの向こう側」

作者: 小川敦人

『いいねの向こう側』


「デジタルの光は、時として人の心を映す鏡となり、時として深い闇となる。」

田中翔太は、青白い光を放つスマートフォンの画面を見つめながら、二十八階建てのガラス張りのオフィスで、また、ため息をついていた。

都内のIT企業で働く彼の指先は、無意識のうちに画面をスクロールしていく。

Twitter、Instagram、TikTok—それらは今や、現実の延長でありながら、どこか独立した異世界のようだった。

数週間前まで、彼の人生は万華鏡のように色鮮やかだった。

洒落たカフェでのランチ、夕暮れに染まる高層ビル群、友人たちとの笑顔の断片。

その一つ一つが、見知らぬ誰かの心に触れ、小さな共感の印を残していく。

それは、デジタルの海に浮かぶ、確かな存在証明だった。

あるいは、そう思い込んでいただけなのかもしれない。

世界は、時として理不尽な変化を強いる。

プラットフォームのアップデートという名の波が、彼の築き上げた小さな世界を一瞬にして洗い流した。

"いいね"の廃止…その理由として掲げられた「ユーザーの心理的負担軽減」という言葉は、皮肉にも翔太の心に新たな重荷を背負わせることになった。

スマートフォンの画面は、いつしか鏡となり、そこに映るのは自分だけ。

デジタルの静寂は、現実の孤独へと姿を変えていった。かつての友人たちは、まるで霧の向こう側に消えてしまったかのようだった。

彼は気づいていなかったが、これこそがSNS依存の一つの形だった。

他人からの承認という麻薬に、知らず知らずのうちに溺れていたのだ。


「また、一人で考え事?」

背後から差し込む声は、清々しい朝の光のようだった。同僚の山口由香が、温かいコーヒーの香りとともに、彼の世界に入ってきた。

その手には、白い磁器のカップが揺れている。

現実の人の声は、画面の向こうの反応とは違う温度を持っていた。

「最近、どこか遠くにいってるみたい。」

由香の優しい心配りに、翔太は曖昧な笑顔で応えた。

それは、デジタルの世界では決して表現できない、微妙な陰影を持つ表情だった。

その夜、幼馴染の佐藤亮との再会は、翔太にとって思いがけない転機となった。

古い木の温もりが染みついた居酒屋で、琥珀色のビールを前に、二人は言葉を交わす。

亮の存在は、デジタルの喧騒とは無縁の、確かな重みを持っていた。

「SNSのない世界なんて、考えられなかった。」と翔太は告白する。

「だからこそ、今ここにいる価値があるんじゃないのか?」亮の返答は、シンプルだが深い。

「画面の向こうの世界に逃げ込むより、目の前の人と向き合う方が、ずっと大事なんだよ。」

その言葉がきっかけとなり、翔太は新しい世界への扉を開く。

日曜日の午後、彼が訪れたカフェには、アコースティックギターの音色が流れていた。

そこには"いいね"もフォロワーも存在しない。ただ、温かな空気と、生の言葉が行き交うだけだった。

誹謗中傷も、見栄も、不安も存在しない。ただ、人と人とが向き合い、共鳴し合う空間があるだけだった。

店員の春香との会話は、まるで小さな啓示のようだった。「現実の関係って、最初は少し怖いかもしれません。

でも、その分だけ深く、確かなものになっていくんです。SNSは便利だけど、本当の絆は、こうして面と向かって作られていくものかもしれません。」

帰り道、翔太は夕暮れの街を見上げた。高層ビルに映る夕陽は、いつもより温かく感じられた。

デジタルの光の向こうに、新しい世界が広がっているように見えた。

それは、画面の中の仮想の輝きではなく、確かな人の温もりが待つ世界だった。」


週末のアコースティックギターの集まりは、彼の生活の一部となっていた。

春香の柔らかな笑顔と温かな言葉に触れるたび、胸の奥で何かが震えるような感覚があった。

スマートフォンの冷たい光の代わりに、彼女の存在が彼の世界を照らし始めていた。

「翔太さん、今日もギター、上手くなってますね。」

春香の言葉に、翔太は子供のように嬉しくなった。SNSでの「いいね」とは比べものにならない、生の言葉の温度が心地よかった。

だが、愛は時として人を盲目にする。

ある日、カフェに立ち寄った翔太は、春香が若い男性客と親しげに話す姿を目にした。

何気ない会話のはずなのに、その光景は彼の心を激しく掻き乱した。

スマートフォンを握る手に力が入り、画面に細かなヒビが入るのも気づかないほどだった。

その夜、久しぶりにSNSを開いた翔太は、春香のプロフィールを探していた。見つからないことは分かっていた。

彼女はSNSをほとんど使わないと言っていたから。それなのに、彼は検索を続けた。

他人との関わりを知りたい、彼女の世界を全て把握したいという欲望が、理性を押しつぶしていく。

「俺、おかしくなってるのかな。」

亮との飲み会で、翔太は弱音を吐いた。

「それが普通だろ。好きな人のことを考えすぎちゃうのは。でも、縛りつけようとしたら、相手は遠ざかっていくぞ。」

亮の言葉は的確だったが、それを受け入れる余裕は翔太にはなかった。

ある雨の夜、カフェの閉店後、翔太は春香に告白した。

「好きです。あなたのことが。」

雨音が二人の沈黙を埋めていく。

「ごめんなさい。私、実は…」

春香の言葉が続く前に、翔太にはわかっていた。彼女の目に浮かぶ困惑と優しさが、全てを物語っていた。

「婚約者がいるんです。」

その言葉は、翔太の世界から一気に色を奪っていった。

スマートフォンの画面のように、現実も突然モノクロームに変わったような気がした。

数日後、オフィスで山口由香が心配そうに声をかけてきた。

「また、スマホばかり見てるね。」

翔太は苦笑いを浮かべた。画面の中の世界は、少なくとも自分を裏切ることはない。

そう思いながらも、それが逃避でしかないことは分かっていた。

「由香さん、人を好きになるって、こんなに辛いものなんですね。」

「でも、それを感じられるようになった翔太くんは、前より生きてる気がするよ。」

その言葉に、翔太は考え込んだ。確かに、春香との出会いは彼に多くのものを教えてくれた。

喜びも、痛みも、全ては現実の世界でしか味わえない感情だった。

夕暮れ時、翔太は久しぶりにギターを手に取った。バーチャルな世界は、確かに安全で心地よい。

でも、本当の人生は、この現実の中にある。たとえそれが時に残酷でも、時に理不尽でも。

春香との恋は実らなかったが、それは翔太にとって大切な経験となった。

人を愛するということは、相手の自由を認めること。そして、自分の中の醜い感情と向き合うことでもある。

スマートフォンの画面に映る自分の顔を見つめながら、翔太は小さくため息をついた。これからも、きっと様々な感情に揺さぶられるだろう。

でも、もう後ろには下がらない。現実の世界で、誰かを本当に愛せる人間になりたいと、彼は強く思うのだった。」




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