主人 / 手紙
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夜の礼拝の最中、ルシフェルは隣にいる主人を盗み見た。
熱心に祈りを捧げる主人の横顔は美しく、どこか神聖で、やはり尊い。
主への信仰を忘れたわけではないが、今、ルシフェルが仕えているのは主人である。
……ああ、ジル様……私の愛しい君……。
貴族のドレス姿も麗しいが、修道女の控えめな装いも清らかでよく似合っている。
月光で染めたような銀髪に、伏せられた赤い瞳は神秘的で自然と視線が引き寄せられる。
真剣な面差しで一体何を祈っているのだろうかと思い、きっと魔族や平和への祈りだろうと予想がついた。主人はどこまでも真面目で、優しくて、いつだって自身を後回しにしてしまうから。
主人の望むように、思うままに生きてもいいと伝えたが、どこまで理解してくれているか。
魔王であった時の主人は堂々として、気高く、誰もが首を垂れるような威厳に満ちあふれていた。
今の主人も堂々として気高いが、触れれば折れてしまいそうな儚さもあり、心配になる。
……しかし、そんなジル様もまた魅力的で惹かれてしまう。
聖女に打ち勝ち、魔王のままであったなら、今もヴィエルディエナ様として生きていただろう。
大陸に君臨する魔王の姿も見てみたかったが、きっと、そこに今の主君の姿はなかっただろう。
慣れない清掃作業を懸命に行う健気さも、野菜の皮剥きが下手でどうしても歪になってしまう不器用さも、慣れない洗濯と格闘する姿も、全て、今の主人だから見ることができた一面である。
……そのようなジル様の何と可愛らしく、完璧なことか!
全てを完璧にこなす、強大な魔王の姿は凛々しくて、どのような命令にも従いたくなる。
けれども、今の主人は凛々しくも健気で、どこか初々しく、守りたいと思う。
完璧な宝石も美しいが、少し傷があるほうが愛嬌を感じるというのは誰の言葉だったか。
まさしく、今の主人はそれであった。意外な欠点が可愛らしい。
大神殿での暮らしに慣れた主人は生き生きと日々を過ごしており、ルシフェルはそれをそばで微笑ましく感じながら、共に過ごす。魔王の頃よりも近い距離に時折、鼓動が高鳴ってしまうが。
ルシフェルがそばにいなければ、事情を知らぬ司祭や聖騎士がジル様に群がったことだろう。
祈りを捧げ終えたジル様と目が合うと微笑み返される。
「待たせてすまない。つい、集中してしまった」
……やはり、我が主人は最高に愛らしい……!
「いえ、私も今終えたところです。さあ、夕食にまいりましょう」
「ああ」
先に立ち上がり、手を差し出せば、慣れたようにジル様が手を重ねる。
魔王時代にはこのようなことはなかったため、何度してもドキリとするが、細くたおやかな手に触れると歓喜に打ち震えそうになる。千年、孤独に耐えた。待ち続けたルシフェルの判断は正しかった。
食堂に向かうといつもの質素な食事が出されたが、今日はデザートに干した果物がいくらかあった。
主人はハンカチを取り出すと干した果物を丁寧にそれで包む。
どこに持っていくのかと見ていれば、目が合った主人が悪戯をする子供のように小さく笑った。
「あとで読書をしながら食べるんだ」
「なるほど。では、私の分もどうぞ」
ハンカチの中にルシフェルは自分の干した果物も全て入れた。
「いいのか?」
「ええ、私は特に食べたいわけではありませんので」
「そうか、感謝する」
こんな小さなことでも嬉しそうに微笑む主人。
……っ、抱き締めてしまいたい……!
主人は拒絶しないだろうが、確実に困らせてしまうだろう。
ドラゴンであり、魔王であった主人は戦争に明け暮れていたため色恋をよく分かっていない。
無理に押して引かれるのも怖いが、主人の嫌がることや困ることはしたくないのだ。
食事を終え、主人を部屋まで送り届ける。
自室の扉を開けた主人がふと振り返った。
「フェルよ、少し寄っていかないか? 今後についても話がしたい」
「かしこまりました」
主人の部屋に入り、扉を少し開けておく。
その上で防音魔法をかければ、通りかかった者が覗けば中が見えるものの、話し声までは聞こえない状況になる。こうしておけば貴族の令嬢である主人の体面を保てるだろう。
狭い部屋には机と椅子、ベッド、ワードローブが一つしかない。
主人はベッドに腰掛けたので、ルシフェルは椅子を持ってきてそれに座った。
「さて、大神殿での生活に慣れてきたが、我の評判はどうだ?」
「上々でございます。貴族でありながら清掃にも真面目に取り組み、人当たりも良く、特に治癒院での働きは既に街の人間達の耳にも入っているようです。初日は人が少なかったのに、二日目以降にジル様の患者が多かったのは話を聞きつけた者達が来たからというのも理由でしょう」
事実、神殿内でも主人の評価は日増しに上がっている。
聖属性のみを持つ珍しい主人に人々は密かに注目し、治癒魔法の能力の高さに驚いた。
主人のことだからそれに気付いているだろう。
「特に、四日目に治療した男性はどこぞの侯爵家の当主だったそうで、貴族の間でもジル様の話が流れ始めております」
「もしかして、少し小太りのあれか。治癒士として働き始めたばかりの我を指名するから妙だと思ってはいたが……」
「デビュタントの件もありますので、誰もがジル様のその後を知りたがっていたのかと。怪我を理由にジル様の様子を探りに来たのかもしれません。わざとそのままにしておきましたが、よろしかったでしょうか?」
「計画通りだ。貴族達の『ジルヴェラ・ドレヴァン』の印象を変えていくのに丁度良い」
現在、社交界では主人の話題で持ちきりである。
家族に虐げられ、たった一人でデビュタントを迎えた令嬢。
主人に対する評価は様々だが、全体的に見れば同情する声が多く、一人でも堂々とデビュタントに出てダンスを踊った主人を称賛する声もあるほどだ。
……当然だ。私の主人は主にも劣らぬお方なのだから。
そんな主人は『ジルヴェラ・ドレヴァン』という名を広め、聖属性は最弱という常識を塗り替えようと考えているらしい。そのために地道に治癒院で治療を行い、聖属性魔法の修練を積み、自身の名前と聖属性の有用性を広めている最中だ。
「しかし、聖属性の強さを証明するならば、皆の前で聖属性の上級魔法を放てば済むことではありませんか?」
「その辺りはこれからだ。いきなり行っても大半は『何か裏があるのでは』と疑いを持つだろう。最初に聖属性の有用性を広めておけば、その後に強力な魔法を使っても疑念を持たれにくくなる」
それに、人々の記憶の中にジルヴェラの名前を良いものとして残したい。
「ああ、そうだ。ドレヴァン伯爵家はどうだ?」
主人に頼まれて、闇属性の影魔法で伯爵家の使用人達の影を密かに繋げてあった。
そこから情報を得ていたが、伯爵家はあの夜会以降、勢いが落ちているようだ。
「まるで葬式でもあったかのような雰囲気ですね。王家主催のあの夜会の後から、どこの家も伯爵家を敬遠しているようです。稀に夜会や茶会に招く家があるものの、見世物扱いだったとか」
そのせいか伯爵夫人はかなり気落ちしているらしい。
公爵家もあれ以降、少し社交を控えているようだ。
だが、両家の婚約は継続したままなので、伯爵家は公爵家からまだ見捨てられていないのだろう。
「今後ジル様のお名前が広まれば、伯爵家が連れ戻しに来る可能性があります。もしくは貴族の家から招待を受けるかもしれません。……ジル様の籍はまだ伯爵家に残っているので」
伯爵家から籍を抜く書類を送ったものの、まだ戻ってきていない。
破り捨てるようなことはしていないようだが、どうすべきか決めかねているようだ。
この状況で主人が伯爵家から出れば、人々は更に伯爵家について噂をし、その噂がどのように広がっていくか予想がつかないのだろう。
「まあ、それについては伯爵の返事待ちだな」
「そうですね。……操って署名だけさせましょうか?」
「やめておけ。あとで『書いた』『書いてない』の同じ応酬の繰り返しでややこしくなるだけだ」
ふう、と溜め息を吐いた主人の表情には憂いが僅かに滲む。
ドレヴァン伯爵家は主人を大切にしなかった。
それだけでも、ルシフェルからすれば万死に当たる行いだ。主人が許してくれるなら、死ぬよりもつらい目に遭わせ、絶望と苦痛の中で自ら死を望むようになるまで苦しませたいのだが。
優しい主人にそれを言っても困らせてしまうので黙っている。
「とりあえず、今しばらくはここで真面目に暮らそうではないか」
「かしこまりました」
そうして話を終え、ルシフェルは立ち上がった。
あまり長居をして主人の自由時間を減らしては良くないし、己を律するのも大変だ。
「それでは、失礼します」
「ああ、また明日。……おやすみ、フェル」
「おやすみなさいませ、ジル様」
部屋から出て、目の前の扉が閉まり、しっかり鍵のかかる音を聞いてから離れる。
大神殿とはいえ不届き者がいるかもしれないし、主人は強いので何かあっても大丈夫だと分かっていても、心配でつい確認してしまう。
それと同時に毎回、目の前で閉まる扉に切なさも感じた。
……ずっとジル様のおそばに侍らせていただきたいものだ。
小さく息を吐きながら、ルシフェルは廊下を歩いていく。
このような醜い感情を抱いていると知ったら、主人に失望されてしまうだろうか。
* * * * *
姉が出ていってから二週間が過ぎた。
デビュタント以降、シルヴィアの下には手紙が沢山届くようになった。
しかし、内容は出席予定だった夜会や茶会の主催者からのお断りか、姉のその後についてそれとなく探るようなものばかりで、シルヴィアや両親の苦しみに寄り添ってくれるものはない。
断りのなかった茶会に一度行ったのだが、他の令嬢や夫人達の「デビュタントを失敗するなんて恥ずかしいわ」「同じ家に住んでいて姉の状況を知らなかったはずがありませんわよね」という嘲りと好奇の視線にさらされ、母と共に逃げるように帰ってきてしまった。
それ以来、母は部屋に閉じこもってあまり出てこない。
食事の時は見かけるが、朝は起きてこられないらしく、昼だけだったり夜だけだったりといった様子で不規則な生活になってしまっているらしい。見かける度に母は少しずつ痩せている気がした。
父はあちこちに出かけているが、毎回疲れた顔で帰ってくる。
優しかった両親は別人のようになってしまった。
父は神経質に変わり、必死になって他の家との繋がりを保とうとしている。
母は気落ちして引きこもり、父やシルヴィアの話を聞いてくれない。
このままではドレヴァン伯爵家が──……シルヴィアの世界が完全に壊れてしまう。
「……そんなの絶対にダメ……ありえない……っ」
シルヴィアの世界はここしかない。ここでしかシルヴィアは幸せになれないのに。
……どうして、お姉様はいつもわたしの欲しいものを持っていってしまうの……?
愛する人と結婚し、両親に可愛がられながら伯爵家で幸せに暮らす。
ただ、それだけを願っていた。シルヴィアは好きなものに囲まれて暮らしたかった。
けれども洗礼を授かってから姉はおかしくなり、何かが狂っていった。
「……どうしよう……どうすればいいの……?」
姉は大神殿で楽しく幸せに暮らしているらしい。
最弱の聖属性しかないくせに、治癒魔法でみんなの気を引こうとしているのだろう。
……わたし達はお姉様のせいでこんなに困って、苦しんでいるのに!
目に映る手紙すら憎くて、机の上にあるそれらを手で払い落とす。
沢山の手紙が床に落ちていった。
その中で一通、見慣れた名前が視界に飛び込んでくる。
思わず手を伸ばし、封を切って手紙を確認する。
そこにはシルヴィアや伯爵家を心配する言葉が綴られており、姉に対する非難とシルヴィアへの同情が読み取れた。シルヴィアの一番のお友達からの手紙だった。
何度も読み返し、シルヴィアを責めたり馬鹿にしたりする言葉が全くないことを確認して、嬉しくなった。
……ああ、きちんと分かってくれる人もいるんだわ!
元は姉の友人だったけれど、シルヴィアがもらってあげたお友達だ。
少し口うるさいところはあるけれど、お友達の中で一番思うように動いてくれる。
ふと天啓のように良い案を思いついた。
聖属性しかないくせに良い気になっている姉の矜持を折る、とても良い方法がある。
すぐにこの手紙に返事を書かなければ。
余計な手紙を全て床に落とし、場所を作ると便箋を広げ、ペンを手に取る。
急いで手紙を書き、おかしなところがないか読み返して確認をする。
「……これなら、きっと……」
最後に封蝋をしてから、ベルで使用人を呼ぶ。
あの夜会の後から使用人が少し減ってしまったと父が言っていたけれど、減ったなら、その分を補充すれば良いだけの話なのに。お金さえ出せば平民は喜んで飛びついてくるのだから。
使用人が扉を叩き、部屋の中に入ってくる。
手紙を避けながら近づいてきた使用人に手紙を差し出した。
「これを出してもらえる?」
「かしこまりました。それから、お嬢様にお手紙が届いております」
銀盆に載って差し出された手紙を受け取り、裏返せば、エイルリートの名前が書かれていた。
「まあ、エイルリート様からだわ!」
急いで手紙を開けて中身を確認すれば、確かにエイルリート様からのものだった。
この二週間、エイルリート様は謹慎させられていたそうで、手紙の返事を出せなかった謝罪、そしてようやく謹慎が解けたので会いに来たいということであった。甘やかな愛の言葉も書かれており、シルヴィアは二週間ぶりに幸せな気持ちになる。
「ああ……エイルリート様……!」
……やっぱりエイルリート様はわたしを幸せにしてくれる人なんだわ!
姉の婚約者だった時からずっと好きだった。互いに想い合っていると分かっていた。
姉の婚約者だったエイルリート様なら、わたしを幸せにしてくれる。
だって、いつだって姉からもらったものは良いものだったから。
エイルリート様もきっと良いものなのだ。
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