女神様は暇つぶしに私を転移させたので、ごねて一つだけ何でも叶える指輪を貰いました。
サクサク読める(?)短編異世界転移小説です。
誤字脱字は通常運転です。優しい目で読んでください。
構成上、多少強引ですが楽しんで頂ければ幸いです。
「あ、起きた?」
昨日は散々だった。会議で使う資料を作成中に突如として停電が起きたのだ。おかげで完成目前だった資料は真っ白になり、ゼロからスタートになってしまった。
終電には何とか間に合い、疲労で重たい身体を引き摺るようにして家へ帰った。スマホを確認すると父親からは金銭を要求する内容が、母親からは入信を迫る内容が送られてきている。小さい頃、風邪を拗らせて入院したことがある。心配性の母親は、心配のあまり変な宗教にのめり込んだ。それ以降、我が家は崩壊してしまったのである。
文章の一部分が見えただけで余計に疲れてしまった。とりあえずパジャマに着替えベッドに倒れ込んだ…までは覚えている。
目を覚ますと真っ白な空間にいた。頭上から知らない女性が私の顔を覗き込んでいる。RPGの勇者お助けキャラみたいな、いわゆる典型的な女神みたいな服装をしている。美貌の持ち主は、嬉しそうに笑みを浮かべている。女神は口を開く。
「アナタの名前は?」
「私は、興津ユリ(オキツユリ)です」
「ユリ、ユリね」
私の名前を復唱すると、あざとくコテンと首を傾げた。絹のように美しいゴールドの髪がサラサラと揺れた。私は起き上がると女神と向き合うようにして座った。女神の整った顔を正面から浴びて倒れそうになる。
「おはようユリ。私はサロナ国の女神、サロナです」
立ち上がった女神サロナは恭しくお辞儀をした。サロナの上品な動きに目を奪われていると、彼女は嬉しそうな顔をして私の目の前に座る。身を乗り出すと、顔のすぐ近くまで近付いてきた。パーソナルスペースが狭すぎる女神である。
「ようこそユリ!私はアナタを転移させたの!」
「ゆ、夢…?」
私は試しに頬を伸ばす。伸ばすほどに痛みが増加して、夢ではないと実感せざるを得なくなる。目の前で満面の笑みを浮かべている女神も、今の正気とは思えない話も、全部避けられない事実なのだ。
「な、なぜ私は転移させられたのですか?」
「ん?ん~…面白そうだから?」
愉快犯にも程がある。サロナは立ち上がると、踊るような足取りで私の周りを歩き始めた。ご機嫌なサロナはステップを踏んでルンルン状態だ。
「突然そんなこと言われても困ります!戻らせて下さい!」
「え~?目の下真っ黒なのに、元の世界に戻りたいの?」
ここ数日の疲労に加えて、今日の停電事件もあった自分はボロボロだ。数日間は休みたいのも本音である。しかし休暇だとしても異世界転移とは意味不明だ。しかも恐ろしいことに夢ではない。
「確かに疲れてはいるけれど…」
「豊かな自然、きらきら光る海、美味しい食事、フカフカのベッド…なんて魅力的!」
サロナ跳ねるリズムに合わせて誘惑してくる。頭の中に美しい情景が勝手に浮かび上がってきた。頭を振って誘惑を追い出すと、サロナのほうに視線を向ける。私の視線から断固拒否という言葉を感じ取ったサロナは、頬を膨らませ怒りの表情を向けながら言った。
「う~!ユリの頑固者!でも休みたいのは事実なんでしょ!?」
「それは確かにそうだけど…」
「じゃあ分かった!頑固者のユリには特別プレゼント!」
サロナは自身の胸の前で手を握って目を閉じる。何かを聞きなれない言葉を呟くと、彼女の掌から眩い光が溢れ出てきた。サロナは暫くすると握っていた手を解いて、中に隠していたものを私に渡した。綺麗な石がついた指輪である。指にピッタリ嵌った。サロメは言う。
「この指輪は、一つだけ何でも望みを叶えられる特別な指輪よ!」
「つまりある程度、異世界を楽しんだら日本に帰れるってこと?」
「それ以外に使っても良いんだからね!」
女神の気まぐれに付き合わされるのだ。これくらい強力な指輪を貰えるのは当然とも言える。私の納得した表情を見たサロメは、安堵の表情を浮かべた。再び聞き取れない言葉を呟くと、私の足元に大きな魔方陣が浮かび上がる。
「サロナ国は最高なんだから!絶対、楽しんで、来いーーー!」
魔方陣が煌めくと、自分の身体が透けていく。サロナの叫びが途切れたタイミングで、私の意識も途切れたのだった。
☆☆☆
「一週間ほど楽しんで帰ろう…と思っていた時もありましたよ!」
「ユリ?これお願いしても良いかしら?」
「大丈夫!テーブルのお客さんね、行ってくる!」
時はさかのぼって二年前になる。
魔法陣でサロナ国へ飛ばされた私は、目を覚ますと地面に寝転がっていた。外は薄暗く、まだ朝日さえ出ていない時間である。暫くフワフワしていた私だったが、サロナに放り出されたと気付いた瞬間に青ざめた。そして同時に怒りも湧いてくる。
プンプン怒っていると、遠くから二人組が歩いてくるのが見えた。年老いた男女は私の方を見て指さしている。小走りで近づいてくると、優しい笑顔を浮かべて話しかけてくる。
「サロナ様の御告げ通り、迎えに来ましたよ」
「こんなに可愛い女の子を授けて頂けるとは、ありがたい限りだねぇ」
年老いた夫婦の名前はエドとルース。街で酒場を経営している。サロナから【酒場を助けてくれる女性が異世界から来た。広場で待っている】と夢の御告げがあったそうだ。そして毎日、広場の女神像を綺麗にしていた御礼だとも言ったそうである。半信半疑で広場に来たら本当に私が居た、というわけだ。
自国の女神様からの御告げということもあり、手厚く保護された。ご迷惑をかけた以上、私はそのぶん恩を返す主義である。とりあえず酒場での仕事を教えてもらい、異世界を楽しみつつ酒場で働きだした。
エドは話し好きのお爺さんで、お酒を飲むと酔って客と話しに行ってしまう。「昔は持てた!」と言って、食材などの重い荷物を運ぼうとするので、私がいつも手伝いをしているのだ。ワイワイ騒ぐのが大好きな、いくつになっても元気なお爺さんである。
ルースは優しいお婆さんで、料理がとても得意である。広場で邂逅した時から、彼女は誰よりも私に親身に接してくれる。一緒に買い物へ行ったり、掃除をしたり、料理をしたり。もはや自分の中では第二のお母さんと認識していた。
サロナ国の中心から少し離れた街、ライメア。そこに私は召喚された。さすが異世界と言うべきか、この世界には魔物がウジョウジョいる。ライメアは魔物が多く出没する森に一番近いこともあって、病院や酒場が多いのが特徴の街だ。
最初は街を適度に楽しんで、ある程度恩を返したら日本に戻るつもりだった。しかし今まで飲食店で働いたことが無かった私は、この夫婦の酒場で働く楽しさに目覚めてしまったのだ。酒場を訪れる人々との会話や、料理の提供など。まさに転職。初めての経験に辞めるタイミングを見失ってしまった。
そしてもう一つ、私が日本に帰らない理由がある。
時は異世界に転移してから二年経った今日に戻る。
月が夜空に浮かぶ頃オープンした店内は、相変わらず賑わっている。酒とジュースを持ってテーブル席に向かうと、座っている四人組に声を掛けた。
「あら~ありがとう、ユリちゃん」
彼女の名前はジェマ。凄腕のヒーラーで、常に笑顔の優しいお姉さんだ。ただし戦場に立てば、誰よりも逞しい女性とも噂で聞いたことがある。ちなみに、酒場にいる誰よりもお酒が好きで、しかも強いという公私ともに最強の人だ。
「オレも酒が良い!」
お調子者のイアンが、文句を言いながらジュースの入ったグラスを持って自分の前に置く。弓使いとして国では名を馳せているらしいが、中身は普通のガキんちょ。悪戯をしたり我儘を言ったりして周りに迷惑を掛けることもしばしば。だが、彼は可愛らしい容姿で全部許されるという、最強のカードも持っている人だ。
「未成年が生意気言うな!」
イアンを叱ったのは姉のアデレード。魔導士の彼女は主に、味方へのバフや敵へのデバフ掛けである。戦場全体を常に把握して、必要な魔法を用いて状況を有利に動かすのが自分の仕事だと、酒が入ると熱心に語ってくれる。イアンとアデレードの口喧嘩は、もはや酒場の余興扱いになっている。
「ハハハ、アデレードの言う通りだぞ。酒は大人になってからの特権だからな!」
豪快に笑い飛ばしたのは、このギルドのリーダーをしているケリスだ。闘士の彼は高身長で筋骨隆々、装備の厳つさも相まって、近寄りがたい雰囲気がある。しかし話してみると、非常に気さくで仲間想いの熱い男だ。ジェマと同じペースで飲むと、一番最初に潰れるのが彼である。
四人に飲み物を配ると、一つ余ってしまった。キョロキョロと店内を見てみるが、ギルド所属のあと一人の姿がない。早く乾杯したいイアンはソワソワしている。ジェマは困ったような笑みを浮かべながら、私に話しかけてくれる。
「ごめんなさいね、レイフ君ったら女の子に呼ばれちゃって…」
「なるほど」
レイフ、彼こそが私を日本に帰らせない最大の理由である。
私はレイフに、恋に落ちてしまったのだ。
サロナ国へ来て一か月ぐらい経った頃だろうか。ルースに頼まれて買い物に行った帰り、酒場にも時々訪れる厄介客に絡まれた。常連さんだから強く言えないのが辛い。「一緒にご飯食べようよ!俺が奢るよ」と言って腕を掴まれる。強引に迫られ困っていた時、颯爽と現れたのがレイフだった。
「君、手を離しなさい」
澄んだ声が辺りに響き渡る。見て見ぬふりをする群衆の中から、一人の男性が颯爽と現れた。女神に負けず劣らずなゴールドの髪に、アメジスト色の瞳、高い鼻筋と薄い唇。人形と言われても納得する美麗な男性、レイフは私たちの前で立ち止まる。
「なんだテメェ、文句あるのか?」
「嫌がっているのが見えないのか?」
レイフの問いかけに、苛立った常連客は私から手を離すと殴りかかる。いきなり始まった喧嘩に思わず目を閉じたが、次に開けたとき既に常連客は白目を剥いて地面に寝転がっていた。レイフは両手を軽く払うと、怯える私に近づき声をかけてくれる。優しい声色は胸を高鳴らせるには十分すぎるものだった。
「大丈夫でしたか?お怪我はされていませんか?」
「ひぇ…」
顔を覗き込むように確認するレイフだが、美しすぎる顔を突然近づけられた私は、無言で頷くことしか出来ない。本当は緊張していただけだが、それを恐怖のあまり話せないと勘違いしたレイフは、私に一つ提案をしてくれる。
「その大荷物は、お一人で運ばれるのですか?」
「あ、これは働いている酒場の買い出しなので…はい」
「そうですか、ならば手伝いますよ」
「え!そんな申し訳ないですよ!」
地面に置いていた、酒瓶が沢山入ったケースをレイフは軽々と持ち上げた。正直言えば食材に加えて、いつもより酒瓶の数が多いケースを持つのは大変だったのだ。腕が重さから解放されて喜んでいる。困惑する私をよそに、レイフは目線を合わせ極上の笑みを浮かべながら私に言う。
「大丈夫ですよ、普段から鍛えていますし。それに護るのは、騎士として当然の務めです」
心臓にハートの矢がズキューンと刺さった。一発で致命傷レベルだ。一目惚れした私はあの日、自分が何を話したか殆ど覚えていない。ただ歩く速度を私に合わせて、様々な話題を振ってくれるレイフの優しさだけは覚えている。
酒場に着くと、裏口まで荷物を運んでくれた。扉を開けると、帰りが普段より遅い私を心配したエドとルースが待機していた。私は二人の顔を見て自然と涙が溢れてくる。ルースが腕を広げると、私は迷うことなく胸に飛び込んだ。
「あらあら、どうしたのユリ?」
「僕から説明します」
泣いて何も言えない私の代わりに、レイフは全てを説明してくれる。エドは直ぐに誰か気づいたようで、怒りながら「あやつは出入り禁止だ!」と言っていた。ルースは話を聞く間、ずっと私をあやす様に背中を撫でてくれた。
零れる涙と乱れた呼吸が落ち着いた私は、涙を手で振り払うとレイフの方を向いた。泣き顔を見られるのは恥ずかしいが、一つ言い忘れていたことを思い出したのだ。
「先ほど御礼を言い忘れていました、助けて頂いてありがとうございました」
「あ、ああ…」
レイフは先程までとは打って変わって歯切れの悪い返事をした。そして気まずそうに目を逸らすと、顔を隠しながらゴホンと咳払いをしている。初対面の女の泣き顔なんて見せられたら、誰だって気まずいに決まっている。申し訳なくなって下を向くと、何かを察したルースが、フフっと微かに笑う声が聞こえた。
「そうだ騎士様、ぜひ御礼をさせてください!」
私とレイフの微妙な空気を、一瞬にしてぶち破ったのはエドの明るい声だった。本人の同意を得る前にエドは早速準備に取り掛かる。キッチンへ走って行った彼の後姿を見て、三人は笑っていた。
助けてもらった夜、貸し切りでレイフとギルドメンバーをもてなした。自己紹介をした後で、思い思いの時を過ごしてもらう。豪快に飲んで酔っぱらったケリスの踊り、イアンが遠くに置いたリンゴを正確に射貫く芸当、アデレードの高等魔法など、陽気な彼らと過ごす時間は貴重で、一生楽しい時を過ごし続けたいと私は思ってしまう。
「ユリさん、座っても良いですか?」
「あら~じゃあ私はルースさんの美味しいお料理を頂いてくるわね」
隣で顔色一つ変えず浴びるように酒を飲み続けていたジェマは、レイフが近付いてきたタイミングで移動してしまう。必然的にテーブルには私とレイフだけになった。レイフは向かい合うように座ると、自分の手に持っていたグラスのウイスキーを口に含んだ。
「すみません、お酒が入ると彼らはかなり…自由になるので」
「いえいえ、私も楽しませてもらってます」
一切噓をつかず、正直な気持ちをレイフに伝えた。レイフも私の言葉を聞いて安心したように笑みを浮かべる。お酒の力を借りたのもあって、レイフと楽しく話ができた。レイフが自分よりも二歳年上の二十五歳であること。魔物の森が近いこともありライメアに五年ほど滞在していること。この酒場は初めて来たが気に入ったこと。
「お、若いもん同士で楽しく盛り上がっとんな!」
ケリスと楽しく踊っていたエドは、私とレイフのテーブルに来ると会話に乱入してくる。明らかに酔っているエドの赤ら顔を見た私たちは、顔を見合わせて笑った。エドは笑いながら私の肩をバシバシ叩く。酔うと余計なことを口走る、そう言ってルースが悩んでいたのを唐突に思い出した。
「最初は異世界から来たと聞いて驚いたが、酒場に馴染んでくれてワシは嬉しいぞ!サロナ様には最大の感謝じゃな!ガハハハハ」
それだけ言うと、エドは再び賑やかな方へ戻って行った。残された私とレイフは無言になって顔を見合わせる。いたたまれなくなった私は、レイフの視線から逃れるように騒いでいる人たちの方を見た。もう良いかな?と思い私はレイフをチラリと確認すると、がっつり目が合ってしまった。
「異世界…ですか?」
「全部白状させていただきます」
綺麗な紫色の瞳に見つめられた私は、洗いざらい吐いた。異世界から来たことも、指輪に込められた魔法についても。私の右手中指に嵌められた指輪を、レイフは興味深そうに観察している。一応この国の女神で信仰心がありそうなので、我儘な女性であるという性格面は秘密にしてあげた。サロナには感謝してほしいくらいだ。
「大変興味深い話ですね…ユリさんは異世界から転移したと言うことですか?」
「こんな突拍子もない話を、レイフさんは信じてくれるのですか?」
「噓をついているとは思えないので」
何かを考えるような仕草をしたレイフは、やがて一つの結論を出した。
「ユリさんは暫く帰る予定は無いのですよね?もし宜しければ、アナタの街歩きに僕をお供させてもらえませんか?」
「え?確かにお休みを頂いた日は観光をしていますけど。でもご迷惑になりますし、レイフさんだってお忙しいでしょう」
突然の申し出に、嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちの両方に襲われる。こんなに綺麗な人と観光が出来るなんて夢のような話だ。控えめな反応をする私に対して、レイフは説得するように言葉を重ねる。
「ユリさんは非常に魅力的な人だから、今日みたいな輩に絡まれますよ?それに僕はライメア歴が長いのです。道案内は任せてください」
「そんな!もしかしてレイフさん酔ってます?」
イケメンに魅力的と言われて照れた私は、全てお酒のせいにしてしまう。話を流そうとする私の姿勢に、レイフはむっとした表情を浮かべる。そしてイケメンにしか許されない強硬に出た。グラスを持つ私の手を、レイフは自らの大きな手の中に攫った。いきなり手を握られて動揺する私に、レイフは追撃する。
「ユリさん、僕は酔ってません。ただアナタとデートをしたいだけです」
「デデデデ、デート!?」
素っ頓狂な声が出た。レイフの口角が上がっていて、笑っているのが見える。逃げられないと悟った私が頷くと、レイフの手はゆっくりと離れていった。イケメンって凄いなー、と月並みなことを思いながら残っていたお酒を一気に煽った。頭がフワフワしてきた気がする。
「デート、楽しみにしています」
「ひゃい!」
それ以降、私とレイフはデートと言う名の観光を何度もした。と言っても私は酒場が忙しいし、レイフも魔物討伐で大忙しだ。酒場でワイワイしている姿しか知らないが、ケリスが率いるギルドは超級に強い人の集まりなのだ。あちこちから依頼のため引っ張りだこと噂で聞いた。
忙しいはずなのに、レイフは時間を空けて私を連れ出してくれる。最初はライメアの観光地や食事処を案内してくれたが、数か月経てばサロナ国内に範囲を広げて遊ぶようになった。サロナが最初に言っていた、豊かな自然を肌で感じることが出来たのである。
そして遊びに行く関係は、二年経った今でも継続している。最初はデートと言われたこともあり、観光前日はテンションが上がって夜は眠れず、着ていく服に数時間悩んだ。だが進展しない関係性に、次第に私は察したのだ。これは友達として私を遊びに誘ってくれているのだと。
だから私も、レイフとは友達として接している。容姿端麗な彼は女性ファンが多い。ガチ恋勢が多いのも知っている。友達として二人きりで遊べるのは自分だけの特権なのだ。今みたいに女の子に呼ばれて席を立つだけで、いちいちモヤモヤしていると心がいくつあっても足りないのである。
「じゃあレイフの分もテーブルに置きますね」
「ああ、ありがとう」
まだ素面のケリスが応えてくれる。私はジョッキを置いて席を離れると、いつも通りの業務に戻った。
今日も変わらず酒場は大盛況である。
☆☆☆
「ふ~、今日もご苦労様だった!」
「じゃあ後はお願いするね」
「はーい、おやすみなさい」
二人が部屋に戻る後ろ姿を見守ると、掃除用具入れから箒を取り出した。今までは高齢のエドとルースが深夜から早朝まで起きて、掃除や後片付けをしていた。その姿を前から見ていた私は全て任せて欲しいと頼んだのだ。老体に鞭を打つのは一刻も早くやめて欲しかったから。
一通りの掃除が終わって、ふと店の前に置いている看板を片付け忘れていることに気づいた。看板を取りに行くため外に出ると、暗闇から足音が聞こえてきた。怯えながら顔を上げると、神妙な面持ちのレイフが立っていた。ぼやっと浮かび上がるシルエットと、彼の表情に違和感を感じつつ私は呼び掛ける。
「レイフ?」
「…はい」
口数の少ないレイフに疑問を抱きつつ、とにかく外は寒いと思った私は店内に案内した。レイフは小さな声で「ありがとうございます」と言って中に入ってくる。薄暗いオレンジ色の光が灯る店内で、表情の読めないレイフをカウンター席に導く。
私はお気に入りのボトルを開けると、ショットグラスに注いだ。カウンターを挟んだこの距離感が、私たち友達としての距離で妥当だろう。グラスを受け取ったレイフは何かを言おうと口を開いたが、言い淀んだ結果何も言わず黙り込んだ。
「どうしたの?そんな難しい顔をして」
「すみません、少し考え事を」
ようやく口を開いたレイフは、自身のポケットから一通の手紙を取り出した。レイフから手紙を受け取ると、中に入っていた数枚の紙を引っ張り出す。その紙には国章が捺されていて、ただの手紙ではないと一瞬で察した。目を通した私はレイフに言う。
「凄いね…まさか国からスカウトされるなんて!」
「そうですね、僕たちのギルド全員が同時にスカウトされました」
レイフはグラスに入ったウイスキーを一口飲む。その姿を眺めながら私は考え事をしていた。もちろん国に認められたという事実は、誰にとっても喜ばしい出来事だ。言われてみると、今日はいつも以上に酒を頼んでくれていた気がする。
通常、冒険者はギルドを組んで自分たちで受注する。必要な持ち物を各自準備して、討伐が成功したら報酬が貰える。討伐対象が強いと報酬も弾む、という仕組みだ。掲示板で討伐依頼を確認できるらしいが、早い者勝ちで世知辛いと愚痴っている人もいた。
しかし国公認のギルドになると話は変わる。まず、物資は全て経費で落ちる。討伐依頼は基本的に国からのため報酬が莫大。しかも奪い合いは発生しないのだ。何らかの理由でメンバーが欠けたとしても、補充されるメンバーは超一流冒険者である。唯一の欠点としては、依頼の難易度が極めて高いということ。公認で金も出すから、当然強いやつ葬ってくれるよね!ってことらしい。
冒険者の誰もが憧れる最高の地位、その高みへの招待状が今、目の前にあるのだ。だが条件として城下町に拠点を移す必要があるらしい。つまり全員がライメアから去るのが絶対条件である。
「僕は手紙を受け取った時に、他の皆と同じように嬉しく思えませんでした」
レイフは話し始めた。言葉を選びながら紡ぎ続ける。
「この街が好きで、この酒場が好きで…でも仲間たちと過ごす時間も同じくらい好きです。そして何より」
レイフは一度話すのをやめた。そして熱のこもった目で私を捉える。アメジストの瞳が、薄暗い店内で怪しく光り輝いている。私は唾を飲み、次の言葉を待った。
「アナタが好きです」
ショットグラスを置いたレイフは、カウンターの上に無造作に置かれた私の手に優しく触れて持ち上げる。そしてレイフは私の手の甲にキスを落とした。一瞬にして手の甲から体中に熱が広がる。
「地位とか名誉とか富とか、そんなもの要らない。僕はユリ、アナタが欲しい」
指が絡められると器用に中指に嵌めた指輪をスルリと取られた。サロナから貰って二年間使わず大事に持っている指輪だ。レイフは光にあてながら指輪を観察している。私の手は解放されたため速攻引っ込めた。これ以上自由に手を弄ばれたら心臓が持たない。
「ユリが僕を友達として見ていることは知っています。そしてアナタには、ここではない帰るべき場所があることも」
レイフは指輪を私に向けて差し出す。それを受け取ると、また右手の中指に嵌めなおした。自分が指輪の存在に甘えているのは自覚していた。自分に不都合なことが起きても日本に帰れば問題ない、そうやって軽い気持ちで接していたのも、彼には透けていたのかもしれない。
レイフは目を細め、口角を上げた。その悪い笑みは王子様として街で騒がれる、麗しき冒険者と同一人物とは思えない。獲物を狙う蛇のようにも見えてくる。
「でも僕はズルい男なので、ユリに選んで頂きたい。指輪を使ってユリの住む元の世界に戻るのか、それともサロナ国に残るのか…そして、僕の気持ちに応えて下さるのか」
レイフは立ち上がった。手紙をポケットにしまうと、大胆にもカウンターのこちら側に入って来る。私が後ろに一歩下がると、レイフが一歩近づく。少しずつ移動した結果、当たり前だが壁際に追い詰められた。逃げられなくなった私は、頭一つ分大きなレイフを見上げた。
「もし気持ちに応えてくれるのならば、僕は生涯アナタを愛することを誓います」
「…っ!か、カウンターの内側は関係者以外立ち入り禁止です!」
「なら僕が店の関係者になれば、こちら側に入っても良いのですよね?」
「そ、それはそうですけど」
言質を取られた気がする。レイフは満足そうにゆっくり頷くと、カウンターから出て行ってくれた。ショットグラスに入っていたウイスキーを、レイフは最後の一滴まで飲み切る。酒場の外に居た時と違い、憑き物が落ちたような晴れ晴れとした表情だ。逆に私の眉間に皺が寄る羽目になったが。酒場の扉を押し開けようとしたレイフだったが、その手を止めて振り返る。
「ユリ」
「な、何でしょうか」
たじろぐ私を見てレイフはクスクス笑う。
「そんなに怯えないでください。取って食ったりは、まだしないので。実は明日…と言っても今日ですが、他のギルドと合同で十日間ほどの遠征に行くことになりました。なので暫くこちらには来られなくなりそうです」
「そうですか…」
賑やかな皆に会えないのは悲しい。落ち込んでいる私を見てレイフは言葉を続ける。
「でも僕、次に会いに来る時は答えを聞くまで帰りませんから」
「え?」
「僕の告白は聞いてましたよね?」
素早い動きで次は左手を取られた。そしてレイフを止める間もなく薬指に口づけをされる。以前、日本の文化について聞かれた際に色々と教えた。その中で指輪の位置について話した記憶がある。指によって込められた想いが違う、そう話せばレイフは興味津々な様子で最後まで聞いてくれたのだ。
あのとき「サロナでは、愛する人に物を贈る文化はありません。言葉で伝えるのが普通だと思っていたので…とても新鮮で、ロマンチックだと思います」とレイフは言って、朗らかに笑っていた姿を今でも覚えている。そんな彼が左手の薬指をピンポイントで選ぶなんて、理由は一つに決まっている。
「では十日後に、またお会いしましょう。おやすみなさい」
レイフは胸元に手を当てて優雅に礼をすると店から出ていった。顔まで赤くなった私は、ドアベルが揺れる扉を見て硬直したままだった。
☆☆☆
遠くにある焚火からパチパチと爆ぜる音が微かに聞こえる。遠征から九日目、あと半日かけて道を進めばライメアに戻れる所まで来た。討伐が無事に終わり、他ギルドの冒険者たちは先程寄った街で購入した酒を楽しんでいる。僕は最初の一杯だけ貰うと、少し離れた場所に座り星空を見上げていた。
「こんな所に居たんだ~緊張した顔してどうしたのよっ」
後ろからアデレードが来ると隣に座った。僕の顔を見て彼女は察したように笑い、理由をわざと聞いてくる。恋愛の知識が少し浅い…と言うよりは本命の人に対して弱気になってしまう僕は、時々アデレードに相談をしていた。遠征前にユリに想いを伝えたのも彼女は知っている。
今まで魔物討伐だけを生きがいにしていた僕にとって、ユリとの出会いは衝撃だった。街で困っている女性が偶然目に入り、悪を成敗して助けた。騎士として当然であり、荷物を運び終われば帰って休むつもりでいた。
ユリは二人で荷物を運ぶあいだ、ずっと僕と楽しそうに話していた。直前まで怖い目に遭っていたとは思えない心の強さに感心しつつ、酒場まで荷物持ちと護衛をする。酒場では老夫婦が心配そうな面持ちでユリの帰りを待っていた。そしてユリの姿を見ると安堵の表情を浮かべる。
随分と親子で年齢差があるな、と思いながら観察をしていた僕は、隣に立っていたユリを見て固まった。直前まで僕と楽しそうに話していたユリの目から、大粒の涙が溢れていたのだ。広げられた腕に飛び込んだ彼女は、まるで子どものように声を上げて泣き始める。そこでようやく、ユリが気丈に振る舞っていたことに気づいた。
今日の出来事を説明している間も、ずっと彼女は泣いていた。僕が話し終えたタイミングで、顔を隠していたユリが振り返り僕と目を合わせる。
その時、僕の心臓が高鳴るのを感じた。
ユリの潤んだ瞳と泣き疲れた表情、その中に照れも混ざっているように見える。掠れた声でユリは僕に感謝を述べると、小さく微笑んだ。
騎士として人を護るのは当然の務め、役割だと小さい頃から父親に叩き込まれた。だから魔物を討伐するのは当たり前で、困っている人を助けるのも当たり前だった。助けたことをキッカケに、好意を向けられるのは慣れっこで、助けたお嬢さんの父親から様々な物をちらつかされても靡くことは無かった。僕にとって、全てが護るべき対象だからだ。
だが僕の信念は、ユリとの出会いによって木端微塵にされる。僕はユリの涙を見て、生涯彼女だけを護る騎士になりたい。そう思ったのだ。完全に一目惚れである。
酒場には積極的に訪れ、観光という名目でデートにも行った。ユリが異世界から来たことや、指輪の正体を明かされたとき、驚きと焦りが同時に芽生えた。彼女には帰る場所があり、そして帰る手段を持っているのだ。油断している彼女の指から、指輪を抜き取って川に捨てることさえ検討した。さすがに実行していないが。
ギルドの皆も僕がユリに想いを寄せていることに気づいたようで、ユリと出会った二年間で散々揶揄われている。そして早く告白して付き合って結婚まで漕ぎ着けろと圧をかけてくる始末。僕も今年で二十七歳、婚期としては既に遅れている部類に入る。年々大人の美しさで周りを魅了し始めたユリに、何人か悪い虫が寄って来ているのも把握済みだ。口説かれている彼女を見るのは懲り懲りである。
僕が想いを伝えた日の彼女の顔を思い出す。驚きと羞恥心から涙目になり、一瞬で真っ赤になった可愛らしいユリの顔を見て、表情を崩さず堪えた自分が一番偉い。下手したら脱力して膝から床に倒れ込むところだった。そんなダサい姿は絶対に見られたくない。
「ま、今回の告白で少なくとも【友達】からは脱却出来ると良いわね。まさかとは思うけど、色々すっ飛ばしてプロポーズなんてしてないでしょうね?」
思い当たる節があり僕は黙り込む。アデレードはその一瞬黙り込んだ隙を見逃さない。飲んでいたお酒を吹き出すと大笑いし始めた。何とかして友人関係を脱却したいと思っていたが、あのタイミングであそこまで言うつもりは無かったのだ。だが本人を前にしてタガが外れた。
「焚火の方までアデレードの笑い声が聞こえてたぞ」
「楽しそうね、私たちも混ぜて頂戴」
ケリスとジェマが並んでやって来る。僕は黙ってやり過ごそうとしたが、アデレードが全部話してしまい二人にも笑われた。僕は話しを逸らすために今回の討伐について話すことにする。
「今回の依頼は危険性があると言われて二十人で討伐に向かいましたが、予想していたより楽な相手で良かったですね」
「楽と言っても、双首の属性違いドラゴンだから難易度としては高めなんだぞ」
僕の発言にケリスがツッコミを入れる。双首とは、名前の通り首が二つあるドラゴンを指す。右と左で属性が違うと厄介で報酬も跳ね上がる。今回まさに属性違いが出没したため依頼が来たのだ。結果論だがウチのギルドだけで十分相手できると考えられる。
「な~!コイツずっと草食うんだけど!」
会話に割り込んで文句言って来たのは、不貞腐れた顔をしたイアンだ。傍らには黒色の毛並みをした馬がモシャモシャと草を食べている。今回の討伐にあたりパーティで五頭の馬を借りた。すると何故か黒い毛並みの馬が、イアンだけに懐いてしまったのだ。他の人が乗ろうとすると、振り落とされてしまうレベルである。イアンは馬に「暴食」という名前を付けて、毎日休息ごとに草を食わせていた。アデレード曰く、馬がイアンを大食い仲間だと認識した…らしい。イアンは地面に寝そべると会話に参加する。
「そーいや、ここらへんが未開の地だから、難易度が高く設定されてるらしいぜ」
「は?そんなのアタシたち聞いてなくない?それ誰に聞いたのよ」
「え?あそこにいる受注したギルドのリーダー」
焚火を前に装備も脱いで楽しく踊っている男を指さす。聞かされていなかった新情報に、僕たちは返す言葉もない。双首のドラゴンが討伐の報酬を弾ませているのではない、未開の地の開拓込みで高く設定されていたのだ。詳細を聞き出そうとしなかった自分たちも悪いが、情報を共有されないのは如何なものか。
「オレがまだ焚火前グループにいると思ってなかったんだろな。また賑やかに戻ってるけど、流石に一瞬だけ空気終わって面白かったぜ」
「私たちがスカウトされたことも漏れてたから、嫉妬かしらね?見苦しいわ~」
イアンの言葉にジェマが笑顔で苦言を呈する。ジェマの怒りを肌で感じ、僕たちは全員黙って嵐が過ぎるのを待つ。馬だけが吞気に草を食べ続けていた。一刻も早く空気を元に戻すため、誰が次の話題を振るか目線で担当する人を押し付けあっているとジェマが口を開いた。
「そういえば、皆はスカウト受けるのかしら?私は断ろうと思っているの」
ジェマの発言に全員が驚く。冒険者なら誰もが憧れる国からのスカウト、普通ならば誰も断らないし快諾するような内容だ。皆で居た時に手紙を渡されて、アデレードとイアンは速攻で承諾書類にサインをしていた。ケリスが理由を聞くと、ジェマは少し考えたのちに口を開いた。
「私ね、今まで秘密にしてたんだけど…今年で四十歳になったの。お金も貯まったし、余生は辺境の地でのんびり過ごそうかな~って思うのよね」
「「「「え!?」」」」
自分より若い、もしくは年上だとしても今年で三十一になるケリスよりは若い、そう思っていた僕は唖然とする。ジェマは僕たちの新鮮な反応を見て、口元を隠すとクスクス笑った。彼女は薄く目を開けると、僕の方をじっと見る。相変わらず口元には優しい笑みを浮かべたままで。
「私の話はともかく、レイフはどうするの?」
「僕は…保留です」
「ユリの返答次第でしょ?じゃあ実質二人は抜けるってことね」
「リーダーとして言うならば、もちろん大切な仲間が欠けるのは悲しいことだ。だが俺個人としては、二人の門出を祝おうと思うぞ」
「ま、レイフはフラれたら祝うどころじゃないと思うけどな!イテェ!」
アデレードはイアンの頭を握り拳で殴った。殴られた部分を押さえながら、涙目のイアンが文句を言っている。負けじとアデレードも声を張って言い返し始めた。姉弟喧嘩を聞きながら、穏やかな時間が過ぎていく。闇が辺りを支配し始め、焚火の光が一層明るく見え始めた。
その時だった。
「キャー!」「やばいぞ!とりあえず逃げろ!」
焚火側で大きな悲鳴が上がる。悲鳴に驚いた僕たちは慌てて焚火がある方向を見た。
「なんじゃありゃ…」
イアンが思わず声を漏らす。僕は絶句して何も言うことが出来ない。そこには全長が二メートル超えの黒いスライムが居た。夜の闇に溶け込める色だったことと、騒いでいたことが不運にも重なり、全員気付くのが遅れてしまった。
スライム。中心に核があり、それを破壊することで倒せる魔物。平原で遭遇することが大半だが、弱点が丸見えのため新米冒険者でも簡単に倒せる魔物だ。属性によって色が違う。例えば赤色ならば火属性への耐久があり、青色ならば水属性への耐久力、今回の黒は闇属性への耐久力が高い。大きさも種類もスライムによって違うが、大半の冒険者が雑魚魔物と呼んでいる。
しかし、たかがスライムと言うのも大きな間違いだ。例えば今回のように大きなスライムは、通常のスライムより移動が速い。スライムが吐き出す粘性の液体は足に絡まると移動速度減少に繋がる。また知恵のあるスライムは自らの弱点である核を覆う場合がある。硬い葉で覆ったり、岩で囲ったりして攻撃から守る仕組みを作るのだ。
「助けてくれ!」
服を脱いで安心しきっていた冒険者、今回のパーティでリーダーを務めていた男が逃げ遅れている。スライムが吐き出した粘液が足に掛かり、随分と走りにくそうだ。彼の仲間たちが助けるべく、それぞれが武器を持ちスライムに反撃しようとした。
アデレードは自分の腰に下げていた双眼鏡で、彼らの戦闘をジッと観察していた。僕たちは今回のパーティメンバーが強いギルドの集まりと聞いていたこともあり、わざわざ自分たちが出る必要はないと判断していたのだ。刃がスライムに触れようとした瞬間、アデレードが叫ぶように言った。
「やばい!アイツただのスライムじゃない!」
アデレードの忠告と同刻、辺りに絶叫が響き渡る。スライムから突き破るように出てきたのは八本の脚、吐き出されたのはスライム特有の粘液ではなく、霧吹き上の液体だ。冒険者たちは液体を浴びた瞬間、痛みと苦しみが混じった叫び声を上げた。
「毒蜘蛛よ!スライムの中に隠れて様子を伺ってたんだわ!」
毒蜘蛛は大きく、冒険者にとって天敵と言っても過言ではない。移動速度が速く、毒を吹くため安易に近づけない。通常ならば目を潰して裏返し、内側から斬って倒すことになる。しかしこの大蜘蛛、目はもちろんのこと、身体全体をスライムで覆っている。簡単に倒せる相手ではなさそうだ。
毒霧を全身で浴びた冒険者たちは、倒れ伏している。ジェマが治癒魔法で蘇生を試みるが、時すでに遅し。彼らは即死だった。たった一度の攻撃で五人の命が失われてしまう。大蜘蛛はスライムから顔を出すと、地面に転がる死体を掴んで食べだした。恐ろしい光景に耐えられず、僕は目を逸らした。
「おいおい噓だろ…」
アデレードから双眼鏡を借りたケリスが、僕に渡してスライムを見るように指示する。より近くで見れるようになった僕は、スライムの弱点である核を探した。
スライムの核は大蜘蛛の背中の上に浮いている。しかし、その核を守るように動物の骨が組まれていた。人間の頭蓋骨らしきものも含まれている。観察していると、大蜘蛛の脚がスライムの中に一本だけ戻っていく。その脚にはたった今、大蜘蛛がしゃぶり尽くした一本の骨が掴まれていた。大蜘蛛は骨を核の近くに設置すると、再び捕食を始めた。僕は見た光景を全て説明すると、ポツリと漏らす
「し、信じられません。魔物同士が結託している?」
「あの大蜘蛛、相当賢い個体だな。あんなヤツが街に来たらひとたまりも無いぞ」
未開の地、未知の領域、何が居てもおかしくない場所。普通ならば念入りに準備をする必要があった。だがこの地の危険性を僕たちが知ったのは、ついさっきの話なのだ。
「ライメアに近付かせる訳には行かないわ。あそこには大切な人が沢山いるのだから」
ジェマの言葉に一人の女性が頭に浮かぶ。僕は深呼吸すると、口を開いた。
「ええ、勿論です。この大蜘蛛に街へは行かせない!」
僕の宣言に、仲間たちは大きく頷いた。剣を握る手に力がこもる。強気の発言をした裏で、僕の頭には別の言葉が浮かんでいた。【この戦いで仲間から犠牲が出る覚悟をしておく】だ。遠征で疲労も溜まり、回復ポーションも殆ど使い切った。加えて夜闇による視界の悪さとデータのない未知数の魔物、更にこちら側の人数減少等とにかく分が悪い。死の恐怖と隣り合わせの戦闘になるだろう。
「イアン、一つ頼みがあるわ」
「な、なんだよ姉ちゃん。そんなに改まって…」
「その馬に乗って街に向かいなさい」
真剣な目をしたアデレードの言葉にイアンは固まった。誰も二人の会話に割り込まず、静かに聞き続ける。そして誰も言わないならば、僕が言うつもりだった言葉をアデレードはイアンに投げかける。
「こんなに暗い場所じゃ遠隔射撃は無理よ」
「やってみないと分かんねぇだろ!ヤダよ!こんなところで離脱したくない!」
「イアン!」
イアンの言葉を遮るようにアデレードは彼の名前を呼ぶ。アデレードの鋭い声に怯んだイアンは、小さな声で「なんでだよ…」と言った。大蜘蛛は捕食を終えて次のターゲットを探している。もう一つのギルドを見つけると、迷うことなく前進し始めた。これ以上、じっと見ているのも危険だ。
「他の馬は魔物に怯えて逃げたわ。そしてこの馬はアンタにしか懐いてない。だからイアンは、この馬で街に帰って増援を頼んで来て。これはアンタにしか出来ない仕事よ」
「や、やだ、オレは皆と一緒に…」
「イアン」
先程の叱りつけるような声から一転し、アデレードは優しい声でイアンの名前を呼んだ。この場にいる誰もが、大蜘蛛と戦う危険性を理解している。誰かが犠牲になっても不思議ではないと分かっている。そして何より、イアンが仲間を置いてこの場を離れたくない気持ちだって十分に理解している。
「大丈夫、絶対に死なない」
「……分かった」
姉から弟への想いは伝わった。イアンはヒラリと馬に乗ると、全員の顔を見て下手くそな笑みを浮かべる。そして二度と僕たちの方へ振り返ることなく暗闇の中へ消えて行った。隣で鼻をすする音が聞こえチラリと確認すると、音もなくアデレードが泣いていた。ジェマが静かに彼女を抱きしめる。重い空気が流れる中、ケリスは咳ばらいを一つすると、全員の顔を見て言った。決意の宿った目をしている。
「さて、今回はこれまでの討伐の中でも類を見ない…非常に厳しい戦いになるだろう。だが俺たちは国が認めるほど強い、それは揺るがない事実だ。絶対に倒し、ライメアに全員で帰ろう!」
「勿論です。僕には帰る理由がある。必ずこの手でスライムと大蜘蛛を仕留めます」
「アタシだって負けない!弟に約束したんだから!」
「これが私にとって最後の大仕事ってことかしらね。皆は戦うことだけを考えて、私が必ず回復させてあげるわ」
「さぁ!行くぞ!」
ケリスの掛け声に合わせて、僕たちは大蜘蛛のいる焚火の方へ飛び出したのだった。
☆☆☆
「あ~いてててて!」
「ほら!無理するからでしょ」
エドは背中をさすりながら呻く。強引に重い荷物を持ち上げた結果、腰がグキッとなったのだ。聞き慣れない悲鳴に慌てて確認したところ、散らばった食材と床に転がるエドがいた。ルースも大きな溜息をついて、エドの頭に制裁を加えていた。痛そう。
「今日は酒場をお休みにしましょう。ユリも今日は集中できないでしょうし」
ルースに言われ、私はコクリと頷いた。予定通りならば今日、レイフが街に帰ってくる日だ。つまり私はレイフからの言葉に応える日である。
エドに肩を貸すと酒場の二階にある彼の寝室に向かう。ベッドの上に寝かせると、掛け布団をかけてあげた。弱々しい声でエドは「ありがとう」と言う。部屋から出て降りようとしたとき、部屋の中から独り言が聞こえた。
「ワシも妻も年だから、そろそろ店じまいが必要かもなぁ…」
私は聞いたことに罪悪感を抱きつつ、酒場に逃げるようにして戻った。ルースは窓際の席に座り外を眺めている。いつの間にか、雨が振り始めていた。
「あら、今日は強く降りそうね…」
私もルースの隣に座ると一緒に外を眺める。遠くには真黒の雷雲が見えていて、結局のところ、今日は客足が途絶えていたと考えられる。
二人で黙って外を眺めていると、突然遠くで人の騒ぐ声と馬の足音が聞こえてくる。その後ろに続いて医者の乗った馬車や、冒険者たちが列を作って道を駆け抜けていく。一瞬の出来事だった。私とルースは唖然とし、二人で顔を見合わせた。
「な、なに?」
「随分とお急ぎだったわね…」
パチパチと瞬きをする。遠くから雷鳴が聞こえ、得体の知れない寒気が全身を襲った。身震いする私を見て、ルースは穏やかな笑みを浮かべながら口を開く。
「ユリの好きなスープ、作ってあげるわね」
野菜がゴロゴロ入った私の大好きなスープ。思い浮かべただけで自然と笑顔になる。私の笑う顔を見たルースは、キッチンの方へと消えていった。私も彼女を手伝うべくキッチンに向かう。
結局この日、レイフが酒場に来ることは無かった。
とある酒場、男たちは酒を飲みながら話している。
『おい聞いたか?あのクソつえぇギルドばっかり集まった遠征、大失敗だったらしいぜ』
『マジかよ!?確か二十人パーティだったろ?』
『メンバーの一人と前日に飲んだ時に聞いたんだが、未開拓の地に十日間も行かせるなんて、メチャクチャだよな』
『で、その遠征はどうなったんだよ』
『七人行方不明、八人死亡だとよ』
『え?オレは全員死亡って聞いたけど』
『なんにせよ酷い話しだ…旨い酒を飲めることに感謝だな』
☆☆☆
レイフが遠征に行ってから十五日。音沙汰なし。
ベッドから起き上がると服を着替える。エドの腰痛が長引いていて、連日酒場は閉めっぱなしだ。正直言えばレイフが気がかりで、仕事に集中できない恐れがあるため助かっている。外を見ると今日も相変わらず曇り空だ。自分の気持ちを反映したような天気に、私は小さくため息をついた。
「レイフ、死んでないよね?」
言葉にしてから、不安を振り払うように首を左右に振る。
「私もレイフのこと好きですよ…だから会いに来てください」
私はレイフの気持ちに応えることを決意した。指輪を使わずサロナ国に永住することに決めたのだ。レイフの話を聞いてから、自分が何故日本に帰りたいと感じているのか改めて考え直した。あの時は突然サロナに攫われて、意味の分からないことを言われたから色々ごねたのだが。
自分の境遇を考えると、日本に帰る理由が見つからないと気付く。もし自分が生まれなかったら、両親は今でも仲良く暮らせていたかもしれない。サロナに居たら資料作成で時間を無駄にして、命を削る必要だって無いのだ。酒場で冒険者とワイワイ騒いで、エドとルースの手伝いをする日々の幸せを噛み締める。もしそこにレイフが居たら?きっと幸せすぎて、他に何もいらなくなるだろう。指輪の仕事は無くなった。もし使い切れと言われたら、エドの腰痛を治してくれと願おう。
「ユリ、お客さんよ?」
階下でルースが私を呼んでいる。朝早くから来るなんて、随分とせっかちなお客さんだ。私は返事をすると降りて入口に向かった。扉を開けると、全く知らない男性が立っている。
「あなたがユリ様で、お間違い無いでしょうか?」
「はい…そうですが」
「イアン様がお呼びです」
「イアン!?」
私はルースの方を見る。ルースは焼き立てのパンとミルク瓶をカゴに入れると、私に渡して頷く。行きたいという気持ちを汲んでくれたのだ。男性は私が付いて来ると理解したのか、扉を開けて馬車の方に案内してくれた。私はルースに手を振ると馬車に乗り込む。
焼き立てパンの香りが空間に広がって、一気に空腹に襲われた。ここ数日は全員のことが心配で、食事が喉を通らない状態だった。イアンが生きていることを知り、久しぶりに空腹を感じたと言うことは、自分の心に余裕が生まれたことを実感する。目的地に辿り着くまでモグモグ食べていると、ゆっくりと速度を落として馬車が停まった。サロナで一番大きな病院の前だ。
「病室までご案内させていただきます」
入り口で白衣を着た優しそうな医者に代わると、静まりかえった病院の廊下を二人で歩く。足音がカツン、カツンと響き渡っていた。導かれて辿り着いたのはベッドが二つ置かれたとある病室。ベッドは全面カーテンが閉まっていて、中に誰がいるか判別つかない。
「右側のベッドにイアン様がいらっしゃるので…」
手で示された方のカーテンを捲った。ベッドに座っているのは、間違いなくイアンだ。頬や鼻の頭に絆創膏が貼られている。腕や脚は包帯でグルグル巻きだ。イアンは私の顔を見ると、目を見開きポロポロと涙を零し始める。慌てた私はイアンに話しかけた。
「どうしたの?大丈夫?」
「ご、ごめっ…!オレ、ユリに、謝らないと!本当に…ごめんっ…」
イアンの涙は留まることなく溢れ続ける。ポケットに入れていたハンカチを取り出すと、両手が包帯で巻かれたイアンの代わりに、涙を拭いとってあげた。呼吸が乱れながらもイアンは謝罪し続ける。イアンは十八歳だが大人びた青年だった。年相応どころか幼く見える反応を始めて見た私は、ハンカチを持つ手が僅かに震える。口に出すのも嫌な、最悪の言葉が頭によぎる。
泣きじゃくって何も言えないイアンを宥めつつ、私はもう一つのベッドの方を向いた。私とイアンの会話や、イアンの泣き声に一切反応しない静かなベッド、そこには誰が眠っているのか。勇気を振り絞って私はカーテンを開ける。
「ジェマ!」
ベッドにはジェマがいた。病衣を纏い、目を開けて穏やかに呼吸を繰り返している。一見すれば普通だが、彼女を見た途端イアンの泣き声のボリュームが更に上がる。私の呼びかけに反応したジェマは、ゆっくりと視線をこちらに向けた。
ガラスのような瞳に、ぽっかりと開いた口。いつも忘れず湛えていた微笑みは失われ、魂が抜けたような表情が私を捉える。暫く見つめ合った私たちだが、ジェマが先に目を逸らした。正面にある白い壁を見続けている。心ここにあらず、ジェマは空っぽになっていた。
「ジェマ…私だよ?ユリだよ…?今度飲み比べしようって約束したじゃん」
病室の扉が開き、先程の医者が入ってくる。私に近づいてくると、苦しそうな表情を浮かべながら教えてくれた。魔力は自分の限界を超えて使うと、足りない分は己の心を消耗するらしい。
「わたし達も手は尽くしました。目に見える怪我は治せましたが、見えない心までは戻らず…」
医者が話しているにも関わらず、ジェマは音を立ててベッドに潜り込んだ。目を閉じると寝息を立てて寝始める。誰よりも周りに敏感で、空気を読むのが得意な女性だった。少なくとも会話中に雑音で遮るような人ではない。別の何者かにジェマが変わってしまったことを、私は認めざるを得ない。
「ユリ様、許可が出ましたので…ご案内したい場所があります」
「分かりました。イアン、少し待っててね?すぐに戻ってくるから」
イアンに声を掛けると、私たちは病室を出る。どこに連れて行かれるのか、それを問う元気すら無い私は黙って医者の後ろを追う。階段を下りて薄暗い通路を進むと、一番隅っこで中から人の悲痛な声が聞こえてくる部屋の前に辿り着いた。目を背けていた現実と向き合うべき時が来た。医者は言う。
「通常ならば立ち入り禁止なのですが、今回は多くのご遺族がこの場での面会を申し出ましたので。異例ですが許可があれば立ち入りが可能となっております…どうぞ」
扉が開かれる。薄暗い空間には真っ白の棺がズラリと並んでいた。納められた冒険者と縁のある人々が、棺の前に立って涙を流している。震える声で何度も名前を呼んでいる者も居れば、この現状を信じられず涙を流すことさえ忘れてぼんやり眺めている者も居た。
震える足に鞭を打ちながら前に進む。悲しみに満ち溢れた場所で、私は医者に連れられて目的地に辿り着いた。部屋の一番奥、そこに三つの棺が並んでいる。医者は私に向かって言った。
「私の同僚が現地へ行きましたが、彼は言っていました。『こちらの騎士様のおかげで、ライメアに危機が訪れずに済んだ』と。討伐の詳細を私は存じ上げませんが、きっと役割を果たされたのでしょう」
医者は棺の小窓から覗くように促される。私は深呼吸をすると、覚悟を決めて小窓から覗き込んだ。そこには、静かに眠るレイフが居た。寝ているようにしか見えない。先程イアンが泣きながら謝っていた姿を思い出す。彼は自分だけ生き残ったこと、そして他の仲間を守れなかったことに対して謝っていたのだろう。心の傷は生涯残り続けるに違いない。私は涙を必死に我慢して、唇を震わせながらレイフに語りかける。
「レイフ、私に『またお会いしましょう』って言ったでしょ?気持ちも聞きに来るって…どうして?目を覚ましてよ。誰よりも強かったんじゃないの?お願いレイフ…お願い」
レイフは安らかな顔で眠り続ける。どれだけ名前を呼んでも、私が涙を流しても、彼の目が開くことは無かった。彼の煌めくアメジストの瞳を二度と見ることは無いだろう。アデレードとケリスの棺も続けて顔を確認する。どちらも穏やかな顔をして眠っていた。
「アデレード、イアン泣いてるよ?はやく行って揶揄わないといけないじゃん!ケリス、私にあの変なダンス教えてくれるって約束したじゃん!なんでよ…」
私はレイフが眠る棺に再度近付き覗き込む。シュレディンガーの猫のように、もう一度確認したら実は生きている可能性を信じていた。しかし彼は相変わらず眠り続けている。医者に促され私はフラフラになりながら部屋から出る。一生分の涙を今日一日で流してしまった気分だ。
私と医者はイアンとジェマのいる病室へ戻った。イアンは私のパンパンに腫れた目を見て、どこに行っていたのか察したようだ。ジェマは気持ち良さそうにむにゃむにゃ言いながら寝ている。医者は私が何時でも帰れるように、馬車を呼びに行ってくれたようだ。私は近くにあった移動させられる椅子を持ってイアンの近くに行く。泣き止んだイアンは鼻を啜りながら私の方を見た。
「ユリ、目が腫れて不細工になってる…」
「アンタも同じなんだから。その、アデレードのことだけど…ご愁傷様です」
「…うん。オレさ、弓矢が専門だから夜は何も出来ないんだ。それで姉ちゃんに応援呼べって言われて、絶対死なないからって言われて…なのに戻ったら皆が死んでた」
イアンは再び目を潤ませながら話を始める。仲間を置いて一人で応援を呼びに行くことになったイアン、戻ると全員が死んでいたなんて私なら絶対に耐えられない。特にイアンの場合は、この戦いで自分の姉を亡くしている。何を言うべきか迷っていると、イアンはユリの目を見て自嘲気味に言った。
「レイフさ、五日目の時点で『早くライメアに戻ってユリに会いたい、美味しい酒を皆で飲みたい』って言ってたぜ?なのに何もしてないオレだけが生き残ってさ~ごめんな」
「イアンやめて」
イアンの言葉を遮ると私は彼の手に触れた。想いを込めて優しく握ると、イアンの手の震えを感じた。
「自分を傷つけるようなこと言うのは絶対やめて。もし皆が死んでいたら私は耐えられなかった。イアンが生きてて本当に嬉しいよ。ありがとう」
握った手に力をこめるとイアンの頬に涙が伝った。視線を下に向けた時、ふと私の指に嵌められた指輪が目に入る。私の頭の中に全てを打開できる…かもしれない方法が思い浮かぶ。あの憎たらしい女神様と二年ぶりに再会する時が来た。
「ねえイアン、もし良かったら今回の遠征について詳細を教えてくれない?」
「あ、ああ…良いけど」
私はめそめそ泣いている場合ではない。今、人知を超えた行動をできるのは私しか居ないのだから。大きく息を吸うと、ゆっくり時間を掛けて吐いた。心の中で覚悟を決めてイアンの話に集中する。色々と衝撃的な情報があったが、何とか全部を頭に詰め込むことに成功した。良いタイミングで医者が病室に入って来る。
「帰りの馬車が来ました」
「分かりました、わざわざありがとうございます。イアン帰るね」
「また来てくれよな」
私はイアンとジェマに手を振ると、医者と一緒に病院の入り口まで行く。来る時と同じ人が外に待ってくれていて、無事に酒場まで届けてくれた。裏口から入るとエドとルースが話している声が聞こえた。「ただいま」と言いながら入ると、二人は笑顔で「おかえり」と言ってくれた。「パン美味しかったよ」と言ってカゴを返すと、ルースは不自然な笑顔を浮かべながら受け取ってくれた。何かを隠している。エドが珍しく遠慮がちに話しかけてきた。
「ユリ、大事な話をしても良いか?」
「うん。どうしたの?」
「ワシもルースも年齢には勝てん。話し合った結果、このタイミングで閉めることにした。もちろん閉めるからと言って、ユリを追い出すわけではないぞ?」
言葉を失った。泣きっ面に蜂とはまさに今の状況である。二人の申し訳ない顔を見て、笑顔を作らざるを得ない。頬を引き攣らせながら私は言った。
「そうよね、エドは今も腰を痛めてるし…ある意味丁度良いタイミングだったのかも」
「すまん、ありがとう」
「ううん、謝ることじゃ無いよ?ちょっと私、やりたいことあるから部屋に戻るね」
頭を抱えながら二階に上がると自室に滑り込む。ご丁寧に鍵もかけて、完全に一人きりになると指輪を外した。両手で包み込むと心の中で強く念じる。「サロナ、出てこい!」と。すると手の中から強烈な光が発せられ、持っていられない程に指輪が発熱する。慌ててテーブルに置くと、指輪についていた透明の石からキラキラとした輝きの集合体が生まれた。それはやがて人の形になり、見覚えのあるシルエットへと変化する。
「おそーーーーーい!」
我儘女神サロナが現れた。早速文句を言われてムッとしてしまう。暫く無言で睨み合いをしていたが、サロナの一言で我に返ることになる。
「それで、私を呼んだってことは指輪の使い道が見つかったのよね?ま、最愛の人も死んだし酒場も閉まるんでしょ?そりゃ私でも元の世界に帰るわ」
「帰りません。全員を生き返らせてください」
私の言葉にサロナは驚いた顔をする。私が帰る以外の選択肢を出すとは思っていなかったようだ。サロナは少し考えた顔をしてから私に言う。
「まーいいけど。じゃあ十八人を生き返らせるで問題ない?」
「あの~、一つ質問いいかしら?今生きてる二人のうち片方が心を失ってしまって。その人を助けることも含められるのかしら?」
「え、それは無理、お願いは一つしか聞けないよ。十八人を生き返らせるか、一人の心を取り戻すか…どっちか一つだけ叶えてあげる」
「ちょっと待って、やっぱりお願いの内容を変えるから!」
前に会った時よりサロナの性格が悪くなっている気がする。私は必死に考えて、どうにかして全員が幸せになる方法を考える。今回の遠征で冒険者たちに何が起きたのか、どういった結末を迎えるのか。これらの情報を有効活用できる最適解。じっくり考えて、一つの結論に辿り着く。
「サロナ、時間を戻すことはできる?」
「もちろん!なんてったって私は神様なんだから…日本に戻らなくて良いの?あれだけごねたのに!」
クスクス笑ったサロナは、煽るような発言をしてくる。私が無言で睨むと「キャッキャッ」と笑ってサロナは手を叩いた。神様じゃなかったら殴っていた。
「アハハ怖い顔!ふぅ…じゃあ、ユリの願いは遠征が始める前に戻るってことで合ってる?」
「それでお願いします」
「オッケー!それじゃあ次に目を覚ました時、楽しみにしててね~」
サロナが何かを呟く。強烈な睡魔に襲われ、私は不可抗力でベッドに倒れ込んだ。布団をかける元気すら無い私は、顔から大胆に突っ込むと居眠りを始める。眠った私の身体はキラキラした光に包まれて、存在そのものが綺麗さっぱり無くなってしまう。ベッドには不自然な人型が残るだけだった。
☆☆☆
「…ぼんやりして、大丈夫ですか?」
意識がぼんやりとしている。薄く目を開けると正面にはショットグラスを持って、心配そうに私を見ているレイフが座っていた。アメジストの瞳は美しく輝いている。呼吸をしていて、私に話しかけてくれている。生きているレイフの姿を見た私は、呼吸を忘れてレイフに見入った。話すことさえ忘れてジッと彼を見続けると、レイフは照れくさそうに視線を逸らした。
「そんなに見つめられると、穴があいてしまいそうです」
「よかった…本当に良かった!」
「ユリ?」
私はレイフの手を握るとブンブン振り回す。その時、自分の指に例の指輪が嵌められていないことに気づいた。これで私は日本に帰られない。一生をライメアで過ごすことが確定になったのだ。頭の中に日本に居た友人や家族が思い浮かぶ。あちらでは私の消失によってどのような変化が訪れるのだろう。せめて誰も不幸せにならないよう、サロナが上手くケアをしてくれることを願うまでだ。
「今日は随分とテンションが高いですね…」
この後、あの日と同じように告白された。例のプロポーズまがいの言葉も受け取る。一度同じ経験をしたはずなのに、恥ずかしくなって前と同じ反応をしてしまう。私のドキドキした顔を見て満足げなレイフは、扉の所であの時と同じように左手の薬指に口づけした。
「では十日後に、またお会いしましょう。おやすみなさい」
「私…待ってますから!必ず帰って来て下さいね!」
私の発言にレイフは驚いたように目を見開いた。そして嬉しそうに笑顔を浮かべると酒場から出ていく。後ろ姿を見送った私は、酒場の掃除を爆速で終わらせて自室に向かった。机に向かうと、真っ白なノートを取り出して情報を書き込んでいく。今の私は眠っている場合ではない。
「絶対に誰も失いはしない!」
勝手に落ちようとする瞼を強引に開き、意識が遠ざかろうとすれば頬をつねる。閉めていたカーテンの隙間から朝日が顔を覗かせた頃、私の握り続けていたペンが手放された。数ページにも及ぶ未来の出来事が事細かに書かれた【預言書】の完成である。
大きく伸びをすると、凝り固まった全身がボキボキと音を立てる。カーテンと窓を開けると、朝日の輝きを真正面から浴びることになった。冷たい風が肌を撫でて気持ちが良い。あの日は確か天気が悪かった記憶がある。だが早朝は清々しいほどに晴れていたのだ。天候にさえ背中を押されている気持ちになった私は、元気に階段を降りると外に飛び出した。
ギルドの皆が住んでいる建物の扉をノックする。ケリスが扉を開けてくれて、息も切れ切れになった私の顔を見ると驚きつつ招き入れてくれた。遠征の直前で私が来たことに、他の皆も様々な反応を見せている。特にレイフは私の顔を見て、見たことのない顔をしていた。
「これ!遠征で時間がある時に読んで欲しい」
ケリスに渡すと、困惑しつつもノートを受け取ってくれる。近寄ってきたジェマが心配そうに私の顔に触れた。目の下にある隈を心配してくれているようだ。少し先の未来で、彼女は心が失われていた姿を思い出す。優しい彼女の行動に、涙が出そうになるが堪えて笑顔を作った。
「分かった、では夜にでも読むとするか」
「あれ?今日は指輪つけてないんだ。珍しいね」
アデレードが私に指摘する。ケリスもアデレードも生きている現状に感謝しつつ、私は右手を持ち上げて彼女に見せた。あの指輪は日本に帰る最後の手段として、絶対に失くさないように肌身離さず常に着用していた。だから指輪も嵌めずに来た私にビックリしているのだろう。
「もう必要ないの、あれは」
「へ~、オレてっきり他の男から貰ったものだと思ってたわ。いって!んだよレイフ!」
後ろから茶々を入れたイアンだが、近くにいたレイフに頭を小突かれている。あれが万能な指輪だと知っているのは、このメンバーの中だとレイフだけだ。ただ彼がイアンの頭を殴ったのは、話題を逸らすためと言うよりも私怨が含まれている気がする。
「十日後、沢山美味しいお酒を準備して待ってます。だから絶対に帰って来て下さい!」
私の言葉に全員が力強く頷いてくれた。その後、全員と軽く会話をすると外に出た。酒場に戻ろうとする私の手は、後ろから扉を開けて追ってきた人に引かれた。その人の腕の中に閉じ込められて、身動きが出来なくなってしまった。周りに人が居ないことに安堵しつつ、犯人の顔を見るため見上げた。
「ち、ちょっと!レイフ!?」
後ろから抱きしめられ動揺する私をよそに、彼は腕に力を込めて逃げられない状況を作る。ジタバタしていた私は、諦めて彼の身体に自分の背中を預けた。大きな身体に包み込まれて、彼の心臓から鼓動を感じ生きていることを実感した。そう、彼は生きている。
「指輪はユリが元の世界に帰るために使う、そう聞いていましたが?」
「……全て先程のノートに書きました。あれを読めば全部分かると思います」
レイフの腕の力が弱くなる。それを見逃さなかった私は、スルリと抜け出すと向き合った。彼の瞳は心配そうに揺れていた。安心してもらうために笑顔を浮かべる。そして私はレイフの所在なさげな手を両手で包み込んだ。私よりも大きくて角張った手は、ギュッと握り返してくれる。
「分かりました。アナタの、その目を信じます」
ゆっくりと名残惜しそうにレイフは手を離す。私が手を振ると、彼も手を振り返してくれた。レイフが戻ったのを見届けた瞬間、安心で私に眠気が襲ってきた。とにかく酒場に戻ったら一度ぐっすり眠ろう、そう決めた私はフラフラになりながら歩きだすのだった。
☆☆☆
「な、なんだこれは」
ケリスがユリから受け取ったノートを見て呟く。口を開けて間抜けな顔をしている横に並ぶと、僕も隣からノートを覗き込んだ。冒頭部分に【預言書】と書かれている。
【このノートに書かれていることは、全て本当に起きた出来事です。私は悲劇を避けるべく、未来から戻って来ました。……】
一日目の夜、訪れた村の近くでテントを張らせてもらい、それぞれのギルド毎に別れて休憩をとる。焚火がパチパチと爆ぜる音さえ耳に入らなくなるくらいに、衝撃的な内容が次々と飛び出す。近くで休息をとっていた三人も、僕たちの異変に気付きノートを読みに来た。
「は?今回の莫大な依頼料は、未開拓の地だったから?オレちょっと確認してくる」
「スライムと毒蜘蛛が結託?そんなこと普通なら有り得ないわ…」
イアンは今回の依頼を引き受けたギルドが休んでいるテントに走る。アデレードは頭を抱えてブツブツと呟きどこかに行った。ジェマは無言で文章を読み始めると、ケリスの手からノートを奪い取り一人で読みだしてしまった。一番最後まで読むと、無言でケリスにノートを返す。普段見ることのない真顔を見てしまい、僕とケリスは冷や汗を垂らす。この顔は怒っているとき限定の激レア表情だ。
「私、ユリが嘘をついているとは思えない。だからこそ私たち、絶対に帰りましょうね」
それだけ言うと、ジェマは持ってきた荷物の整理を始めた。十日間の遠征で荷物を一度に持つのは厳しいため、訪れる村や街で適宜買い物をすることになっている。ジェマは魔力を失わないように、心を失くさないように、魔力回復のポーションをいくつか持ち込んでいたはずだ。
イアンが走って戻ってきた。怒りの表情を浮かべて「あいつらオレたちに隠してた!」と言う。それだけ言うと、次は別のギルドが休むキャンプ地まで走って行く。他の人たちにも確認するようだ。ノートに書かれている通り、これから訪れる地に関するデータは何も無いのだ。まだ一日目だったから準備は出来るが、知らずに行けばリスクを回避するのは難しかっただろう。
読み終わったケリスが僕にノートを手渡す。「アデレードとイアンには渡さないように」と静かに言ってケリスは背中を向けてしまった。焚火の炎が揺らめき一瞬だけ見えたケリスは、怒りや悲しみの混じった複雑な表情を浮かべている。ユリから貰ったノートをじっくり読み込む。長い時間をかけて最後まで読んだ僕は、気づけば歯を食いしばっていた。
「ユリに辛い思いをさせて…クソッ!」
行方不明が十一名、死亡が七名、生存が二名、壊滅的な結果がユリによって記されていた。そして僕とケリス、アデレードは激闘の末に死亡。イアンは生き残るが大怪我を負い心にも深い傷を負った。ジェマは魔力の使い過ぎで心を消耗し壊れてしまった。散々な結果にユリも衝撃を受けたに違いない。彼女の胸の内を思い、僕の胸が痛くなる。最後のページに丸く濡れたようなシミがあり、小さな字で書かれていた。
【絶対に帰って来てください】
昨日の夜、終始恥ずかしがっていたユリが突然、泣きそうな表情に変わって僕を見つめていたことを思い出した。あの時のユリは既に未来を知っていたのかもしれない。生きている僕を見て、彼女はどう思ったのだろう。
「ノートを読んだ以上、僕たちが死ぬわけにはいかない。そうですよね、ケリス?」
「ああ、もちろんだ」
僕の言葉にケリスは力強く返してくれる。ノートを閉じるとケリスに返した。焚火の炎をじっと見つめ、僕は固く決意をする。絶対に生きて帰り、彼女のもとへ戻ると。
九日目。
「先に戻れって、どういうことだよ?疲れたし日程にも余裕があるから休んで帰ろうぜ」
「ライメアに良い酒場があるんだ。そこで休もうや」
ケリスに言われた他の冒険者たちは、酒場と聞いて目を輝かせる。ここにいる誰もが美味しい酒を飲んで、旨い飯を食いたいと思っているのだ。その言葉に流された他の冒険者たちが、いそいそと帰る準備を始める。そして荷物をまとめた彼らは、休むのをやめてライメアへ元気よく歩いて行ってしまった。物凄く単純な人たちだ。
「さて、邪魔者も居なくなったし…とりあえずアタシは皆の強化と、あとは周囲を照らせば良いのよね?これから早速準備してくるわ!魔法陣を描いてくる!」
「私もさっきの村で山盛りポーション買ったわ。これで遠慮なく怪我して頂戴ね」
「オレは見えるなら何でもできる!サクサクっと倒しちまおうぜ~」
各々が戦いに向けて準備を始めた。僕は目を閉じるとユリの姿を思い浮かべる。きっと彼女も、今日は眠れない夜を過ごしているに違いない。自分の相棒である剣を磨き、軽く振りながら調子を整える。
全員の用意が完了した。僕たちは岩陰に隠れて魔物が現れるのを待つ。静まりかえった空間、誰かが唾を飲む音が聞こえる。そしてヤツが現れた。
一見すれば大きなスライムだが、その中に凶悪な魔物がいるのを僕たちは知っている。魔物が魔法陣の中心に来た時、ケリスはアデレードに合図をして僕たちに目を閉じるように指示した。事前に描き込んだ魔法陣を発動させるため、アデレードが呪文を唱える。凄まじい閃光が周囲を照らした。
闇属性の魔物は光に弱い。そして周囲が明るければ、イアンの弓の才能を存分に活かすことが出来る。光を浴びたスライムは、ドロドロと溶けて弱点をさらけ出す。骨で囲われている核だが、骨の一本一本の隙間から弱点が見えてしまっている。
「おいおい!丸見えだぜ!」
イアンが弓を引き絞ると、狙いを定めて矢を放った。真っ直ぐと矢は飛んでいき、骨と骨の間を通り抜けて核に突き刺さる。形を保てなくなったスライムが完全に消えると、中から見たことがない大きさの蜘蛛が出てきた。ユリのノートを読んだ通りならば、あのサイズで毒蜘蛛だ。事前情報があるお陰で落ち着いて見ていられるが、初見だったら動揺していただろう。
大蜘蛛はスライムを失ったことに驚き、慌てて森の方へ逃げようとする。僕たちに背中を向けた瞬間を逃さない。ケリスと岩陰から飛び出すと、左右に分かれて無防備にさらけ出された背中から襲い掛かる。ケリスは大きな斧を、僕は直前まで磨き上げた剣を使い、大蜘蛛の脚を次々と斬り落とす。
八本の脚を失った大蜘蛛は、丸いシルエットになりキーキー鳴き出した。この時、僕は一瞬だけ油断してしまった。死にかけの大蜘蛛はなんとか生き残るために毒を吐き出す。対応に遅れた僕は右腕に毒を浴びて、痛みが瞬時に肩へと広がっていく。右利きの僕にとって非常にまずい展開だ。
腕に力が入らず下ろしていると、腕に温かい光が巻き付いた。その光が消えた時、僕の腕の毒は綺麗さっぱり無くなっていた。岩陰の方を見ると、ジェマが笑顔で手を振る姿が見える。
「おいレイフ、大丈夫か!?」
「もう大丈夫です!とどめを刺しましょう!」
ケリスは持っていた斧を地面に捨てた。ベルトに挟んでいた毒無効の手袋をはめると、動けずひたすら騒ぐ大蜘蛛を後ろから掴み上げる。岩陰から聞こえてきた「せーの!」という掛け声に合わせて、かなり重たいはずの大蜘蛛をひっくり返した。弱点は僕のすぐ目の前だ。
「これで終わりだ!」
大蜘蛛に飛び上がると、勢いをつけて剣を突き刺す。顔や服に気持ち悪い液体が大量に掛かるが、我慢して剣を胴体の深くまで刺し続ける。断末魔をあげていた大蜘蛛だったが、弱々しい声へ変化して静かになった。剣を抜くとブシャブシャと液体が溢れ出てくる。ケリスが「終わったか?」と問いかけてくる。僕が頷くと、彼はニッと笑った。
「討伐完了だ!」
ケリスの大きな声が辺り一面に響き渡る。岩陰から見ていた三人も飛び出してきた。大蜘蛛から降りてみんなの前に立つと、イアンから開口「汚い」と指摘される。アデレードが無言でイアンの頭を殴ると、僕に対して魔法をかけてくれた。一陣の風が吹いて、あちこちに飛び散っていた液体が吹き飛ぶ。
「さ、ライメアに帰りましょう?」
ジェマの声に全員が頷く。気づけば周りが明るくなり、朝が近付いてきた気配がする。剣についていた液体を軽く払うと、腰に直して大きく伸びをする。澄んだ空気で肺を一杯にすると、僕たちは帰る準備を始めるのだった。
☆☆☆
昨日は大忙しだった。レイフたちのことでこっちは一杯なのに、そういう日に限って団体客が来たのだ。普段見ない顔ぶれであることに違和感を感じた私は、さりげなく酒場に来た理由を聞いてみる。すると彼らは、この酒場を薦められて来たと言う。誰に教えられたのか知らないがあの忙しさ、ある意味では心配で胃が痛くなるよりマシだとも言えるだろう。
約束の日、疲れ切った私は昼頃まで爆睡していた。眩しい日の光で目を覚まし、時計を見てベッドから跳ね起きた。普段ならば買い出しを終えている時間、つまり完全に寝坊である。ネグリジェの状態で階段を勢い良く下り、エドとルースに謝るために扉を開ける。なぜか賑やかなことに気付かなかった私は、勢い良く扉を開けた。ルースが振り返って私に言う。
「あら、おはようユリ。今日はゆっくりだったわね」
「おはよう…じゃなくて、ごめんなさい!寝坊しちゃった!」
「昨日は大変だったからな、仕方ないじゃろう。それよりも…」
エドとルースが左右に避ける。いつもの席に、いつもの五人が座っていた。
「おはようございます。良く眠れたなら何よ……すみません!」
いつもの丁寧な口調と穏やかな声色が、私の姿を目視した瞬間に上ずる。彼の首が超高速で上を向いて天井を見つめていた。近くにいた四人が揶揄うようにケラケラと笑っている。ルースに「着替えておいで」と言われ、私は恥ずかしさのあまり無言で何度も頷くと速攻で自室に戻った。
服に着替え再び部屋に戻ると、五人が居るテーブルに混ざらせてもらう。酒場の空間にお腹が空く香りが漂い、ルースがキッシュを持って来てくれる。エドは代わりに今日の分の買い出しに行ってくれたようで、片付けてくると言って出て行った。具だくさんのキッシュを全員で食べながら、私は心を込めて全員の顔を見ると言った。
「レイフ、ケリス、ジェマ、アデレード、イアン…おかえり!」
私が知る最悪の未来、それが回避できたと思うと涙が出そうだ。全員が笑顔で美味しいものを食べて、楽しく会話している姿を見られただけで、私のやったことが無駄じゃなかったと実感できる。右手の中指がスースーして気持ち悪いが、サロナで、ライメアで生きていくうちに慣れるのだろう。
今日の朝頃、五人は満身創痍で戻ってきたらしい。報酬をたんまり貰って家に荷物を置きに戻ろうとしたタイミングで、大荷物を担ぎ休憩をしているエドに会った。見過ごせなかった彼らは、家に戻るのをやめて荷物を持つと酒場まで送り届けてくれたのだ。ぎっくり腰を回避したとは言え、何度も重い荷物を持てば時間の問題だろう。頼むから本当に無理するのはやめて欲しい。
「あのノートのこと、信じてくれてありがとう」
「この二年間の付き合いで知っているからこそ、誰もユリが嘘を書いているとは思わなかったぜ。それに、聞いたら本当に情報を隠してやがったし!」
私の言葉にイアンが怒りを込めて返してくれる。事前準備が無ければ、非常に危険な魔物だったことは既に知っている。だからこそ強敵を簡単に倒せたと聞いて「やっぱり彼らは強いんだ」と実感した。
「あれ?指輪は?もう必要ないって言ってたけど」
「……あの日、なくしちゃったんだ」
隣に座る目ざといアデレードに指摘され、私は小さな嘘をついた。正面に座っているレイフは一瞬だけ目を見開くが、特に何も言わずキッシュを頬張る。指輪に込められた魔法は私とレイフだけの秘密、そして失われた以上、私が帰る以外に使ったと理解しているのはレイフだけだ。アデレードは「一緒に探そうか?」と提案してくれるが、丁寧にお断りした。
「いいの、悩む必要がなくなったし。これでレイフと、ちゃんと向き合える」
私がそう言うと、正面で二つ目のキッシュを取ろうとしていたレイフの手が停止した。ずっと胸に秘めていて、一度は言えなかった想いを彼に伝える。あの時のように後悔したくないから。周りの皆も私の発言に驚き、一瞬で静かになる。私はレイフの目を正面から見つめると、笑顔で想いを伝えた。
「私もレイフのことが好きです。私とお付き合いしてください」
「~~~っ!」
私のストレートな言葉に、レイフの顔が茹蛸のようになる。耳まで赤くなった彼は両手で自分の顔を包み込むと、指と指の隙間からチラリとこちらを見る。そして蚊の鳴くような小さな声で言った。
「僕が言うはずのセリフだったのに……」
暫く顔を隠していたレイフだったが、深呼吸すると彼は手を離した。先程までのフニャフニャした雰囲気から、いつものキリっとした表情に戻る。レイフは口元に笑みを湛えながら言ってくれた。
「僕もユリを愛しています。ですがユリ、本当にお付き合いで良いのですか?」
紫色の瞳が私の視線を全て攫って行く。座っている誰かが「なんか退散した方が良くない?」「暴走し始めたぞ」と囁いている声が聞こえてきた。
レイフは手拭きで汚れていた手を綺麗にすると、ポケットから小さな箱を取り出した。彼が言うに、今回の遠征中に寄った街で良いものを見かけたそうだ。私に似合うと思い、買ってくれたお土産だと言う。パカリと開けると、紫色の宝石が輝く指輪があった。凛とした声でレイフは言った。
「ユリ、僕をアナタだけの騎士にしてください。生涯アナタを護ることを誓います」
「……はい」
レイフは私に左手を出して欲しいと言う。言われるがままに差し出すと、彼は紫色の宝石が輝く指輪を取り出した。そして迷うことなく左手の薬指に指輪が嵌められる。怖いくらいにサイズがぴったりだ。レイフは私の左手を見て満足げな表情を浮かべていた。
「やはり、紫色にして良かったです。ユリにピッタリだ」
レイフの独り言に、また誰かが「独占欲が丸出し」と言っている。確かにこの色と輝きはレイフの瞳とそっくりだ。言われて気づいた私は、照れくさくなると同時に助けてほしくなり、初めて他のメンバーがいる方向を見る。全員から温かい目をされていた。
「誰か助けて…」
「無理よ、レイフは意外とメンドクサイ男だから頑張って」
アデレードに見捨てられる。もう一度レイフの方を見ると、彼は整った顔立ちを限界まで溶かしながら、私のことを見つめ続けていた。
☆☆☆
二か月
「は~大変だった!」
「アデレード、イアン!久しぶりね。あっちにケリスもいるわよ」
私が示した方向に姉弟は並んで向かって行く。ケリスも二人に気づき手を振っていた。
アデレードとイアンは国からのスカウトに応えた。しかしギルドを組むのではなく、臨時で魔導士や弓使いが不足しているギルドに入っているそうだ。だから仕事が終われば酒場に来てくれるのである。
ケリスはスカウトを断り、冒険者の組合を作った。と言うのも例の遠征で、故意に情報を伝えられなかったことが、彼にとって引っ掛かることだったのだ。興味を持ったケリスは、他の冒険者にも同様のことがあったのか聞きまわった。そして同じ被害に遭った冒険者やギルドがいると知った彼は、組合を作り全員が平等に情報提供されるような、冒険者のための条例を作ろうとしているのだ。
ジェマはライメアから離れ、自然豊かな村で悠々自適なスローライフを過ごしている。時々手紙が届いて、いつか遊びに来て頂戴と送られてくるのだ。一度長めの休みを取って遊びに行くのも悪くない。
レイフもスカウトを断り完全に騎士をやめた。だから結局のところ二人しか国からのスカウトに応えていない。異例中の異例らしい。
現在、この酒場は二人で切り盛りしている。エドとルースは高齢のため続けるのが難しくなり、息子夫婦の住むところへ行った。二人が充実した余暇を過ごせるように願うばかりだ。
姉弟の注文を聞いた私がカウンターに入ると、カウンター席に座っていた酔っ払い男が話しかけてきた。怪しい滑舌だが、私のことを誘っていることだけ理解できる。
「ユリちゃん本当に可愛いなぁ~~俺と一緒に遊ぼうよぉ」
「ごめんなさいねぇ」
「そんなこと言わず~~~夜も得意だからさぁ~~」
酔っ払い男が手を伸ばして触れて来ようとする。嫌な顔をして男の方を見た時、この酔っ払いが出禁したはずの厄介客だと気づいた。買い出しの途中でナンパしてきた厄介客が、いつの間にか店内で悠々と酒を飲み、あろうことか再びナンパしてきたのだ。懲りない人である。
「貴様、僕の妻に触れようとするとは……覚悟が出来ているな?」
遠くで女性客に捕まっていたはずの男が、いつの間にかカウンターにいる私の真横に立っていた。殺意マシマシの瞳に睨まれて厄介客は青白くなる。だが酒の力があってか男は案外にも強情で、隣に立つ私の夫レイフを睨みつけると言った。
「うるせぇ!ユリちゃんは皆のユリちゃんだぁ!だから俺のユリちゃんでもある!」
「いいや、違う!ユリは僕の大切な人だ!」
白熱し始めた二人を、私は冷めた目で見ている。周りにいる客は口喧嘩をする二人に、ワイワイ囃し立てながら確実に煽っている。埒が明かなくなり止めようとした私だが、いきなりレイフに腰を抱かれ巻き込まれるのを瞬時に察する。
「僕の妻は誰にも譲らない」
私は逃げようとしたが間に合わない。頭をガッシリ固定され、公衆の面前で口づけを交わすことになった。情熱的な光景を目前で浴びた厄介客は、泡を吹いてひっくり返る。私も恥ずかしさが勝って硬直し、身動きが出来ないまま受け入れるだけだ。店内は指笛が鳴り響き、歓声で溢れ返る。
レイフも売り言葉に買い言葉、後ろに引けないのか普段より長く深く私に口づける。そしてレイフは唇を離す直前に、私の唇を軽く舐めるイタズラをした。すぐ近くにあるアメジストの瞳の奥には、怪しい炎が灯っている。場の空気に完全に吞まれている様子のレイフは、周りに客がいるのを完全に忘れ私を見つめながら言った。
「僕はユリの騎士になると誓った身ですから、生涯アナタを護ります。そして幸せな家庭を、この素敵な酒場で築きましょうね」
最後まで読んで頂きありがとうございました。
もしお時間あれば、この作品の評価して頂けると幸いです。
よろしくお願いします!