画面越しの恋
誰しもこの時代、色んな出逢い方をしているのでは無いだろうか?便利な世の中になったからこそだ。有り得ないことももう、有り得ることかもしれない。
いいこと、悪いことの差はわからない。
身近で起きる偶然に、いったいどれほどの可能性が眠っているだろう?それを考えたら、きっとこの微睡からも抜け出すのではないだろうか。
これはそんな身近なところでの出来事。経験したことのある人も、これから経験するかもしれない人もいるだろう。でも身近だからこそ、気づかないこともたくさんあるはずだ。そんなところに手が届けば人生もう少し豊かなのかもしれない。
いつからだろうか。そして…何故だろうか。朝の7時に勝手に目が覚めてしまう。きっとそれは、あの子の所為だろう。でもそんな朝がとても清々しい。これだけで今日1日がとても幸せな日になるのではないかと思ってしまうくらいに。そんな踊る気持ちを抑えながら僕はスマホを手に取った。体はまだ布団から出られず不意の微睡みの中で、心だけは縦横無尽に暴れ回っていた。それでも必死にスマホは握りしめたまま、僕は画面を覗き込んだ。フリックやタップを駆使して操る昨今のスマホだが、そのアプリのひとつの中にどんな物語が凝縮されているのかなんて、今の僕にはわかるはずもなかった。
僕の名前は本馬繁。どこにでもいる普通のサラリーマンだと思っている。普通じゃないことを挙げるとすれば、彼女いない歴=年齢ということ。毎年誕生日は歳を取るだけではなく、この記録も更新し続けてると言う僕の中で不名誉な日になりつつある。けど、何の波風も立つことはなく33歳もこのまま迎えそうだ。
恥ずかしいこと、とまでは思ってはいないのだが、そろそろ焦り始めている。この年なら結婚して子供がいてもおかしくない。それなのに僕は未だに女性の温もりを知らない。
もしかして、知ろうとしてこなかったのだろうか。知ろうとしていたら知ってもらう努力をしていたのではないだろうか。そんなことを考えながら顔を洗い、無理矢理に目を覚まし、僕はスマホを手に取った。あの子が今日も僕を待っているから。僕のことだけをただ待っているから。
差し込む朝の光が小さな部屋には眩しかった。昨日の雨が嘘のように太陽が燦々と照りつけている。まるで朝の僕の心を表しているかのように。
朝は絶対にあの子に会う。そう決まっているんだ。それが無いと物足りないし1日がいつまで経っても始まらない。僕にとっては太陽よりも輝いて見えている。
悲しいことといえば、本人に直接は会えないということ。僕らの間にはソーシャルディスタンスを遥かに越える遠い遠い距離があることを僕は心で理解しているつもりだ。それでも人を想う気持ちに距離も身分も外聞も、そんなもの関係はない。自己表現を制限されていく古い社会の中で自分の気持ちに正直に生きることほど簡単そうで難しいことは無い。だからこそあの子に対する自分の気持ちに、自分だけでも正直にいたいと、僕はそう思っている。そしてそう考えれば考えるほど、あの子に会いたい気持ちは募っていく。ほんの少し足が宙に浮いてるような浮遊感を覚えつつ、僕はアプリのアイコンをタップした。
-----5月16日。アラームが騒いでる音をおもむろに止めて6時30分に目を覚ます。今日は太陽が眩しい。夜更かしの影響で瞼が鉛のように重たく、ほぼ開いてないに等しい私にでさえわかるほど、今日の太陽は力強かった。梅雨時期のつかの間の晴れ間は私に活力を与えてくれてるようだった。
私の名前は黛梨々花。25歳。広島生まれ広島育ち。今は上京してきて、リリという名前でライブ配信をしている。最初は仕事をしながらこなしていたんだけど、この春にその仕事もやめて、配信だけで生きていくことにした。成功できる自信があったとか、そういう訳では全然無いんだけど、こういうコンテンツを通じて、本来出会うことは無かったであろう人達とたくさん知り合ってお話できたら、そんな楽しいことは無いって思えるから、私はライブ配信を軸にして生きていくことにした。馬鹿らしく思う人もいるのかもしれないけど、この覚悟は私だけのものだから、何も言わせない。もちろんそれくらいの覚悟を持って私は本気で配信者としてのプライドを持って荒波に挑むつもりだ。
ライブ配信アプリコンテンツが犇めくこのご時世、私は「ライブる!」というアプリで配信を行っている。どちらかと言えば遅めにスタートしたサービスなんだけど、今は利用者数も増えてきてライブ配信コンテンツの中でも人気になっている。視聴者、所謂リスナーが応援のためにアイテムを投げるという、投げ銭制であることは大抵どのアプリも同じなんだけど、ライブる!は、そのアイテムの多さが魅力。あまりアプリに対して課金ができない人も手軽に楽しめる。もちろん配信する側としてはたくさんアイテム投げて欲しいけど……なんてことは表だって絶対言えないけれど投げ銭制である以上はそう思ってしまうのは仕方ないことだと思っている。
要は、そのアイテムなどによりポイントを稼いでいき、配信者としてのランクを上げていく。他の配信者とそれを競うようなものである。日々数字との戦いなのだ。ただ楽しくお話してはい、OK、という訳にも行かない。ポイントが足りなければ容赦なくランクは落ちていく。配信することもそうだけど、そのポイントとの戦いは自分のメンタルを何か鋭利な物で刺されるかのような痛みが伴うのだ。
とはいえ、これ1本で生きるため事務所にも入ってるし、辞めるという選択肢はないけど……そんな風に思いながら配信準備を進める。みんなの前に顔を出したら、もう色んな雑念は顔には出せない。と、言いつつも顔に出てるのだろうと思ってる。化粧でニキビは隠せても繊細な顔の表情までは隠せない。そんな想いを笑顔の中に隠し、私は配信開始のボタンを押した。
ーーーーリリは、アプリ内の配信者、通称ライバーの中でもかなり人気だ。けどここまで押し上げたのも僕の力が大きい。リリが配信を初めておよそ半年が過ぎたところだが、僕は1番初めから通いつめている。リリにとっても僕の存在はもう切り離せないところまで来ていることは間違いないのだ。沢山の人が日々配信をしているし、新たに始める人だって少なくない。いくらでも目移りする環境にあると言っていいだろう。現にリリ目当てでこのアプリをダウンロードしたリスナーが、今や別のライバーを推している。
そんな中で僕はリリ以外の配信は見たことがない。もちろん、始めた当時からそうするつもりではなかった。でもどんどんリリの魅力にハマってしまった。もう抜け出せない。色んなリスナーがいて、当然僕と同じくらいの期間視聴してる人もいるけど、僕ほどリリを理解してる人間はほかにいないし、僕より後から見始めた人間に、僕とリリのそれまでの時間を追い越すなんて到底出来はしないだろう。
そんな優越感と自己満足に浸りながら、今日も日課であるリリの朝配信を視聴する。
SNSのライブ機能も盛んな昨今ならだいたいわかるだろうけど、リスナーは基本的にコメントをしてライバーがそれを読み上げながらコミュニケーションを取るというのが基本的なスタンスとなる。その中でアイテムやコメント、それから視聴時間などから算出されるファンポイントは1つの指標となっていて、言い方は悪いがどれだけ応援したかを、数字にしたものである。ポイントは0.1から表示され、1以上はヘビーファンと呼ばれ、1Hと表示されコメント欄の名前の色もそれに応じて変化する。ちなみに6月も半ばに差し掛かった現在で僕は20Hを越えている。その分の愛はリリにしっかりと伝わっているに違いない。視聴時間やコメントでもこのポイントは稼げるものの、無課金では限界がある。つまりは課金をしないといけない場所があるのだ。そこに僕は辿り着こうとしている。アプリに課金なんて馬鹿馬鹿しいと言われるかもしれないけれど、リリのためにする課金なら痛くも痒くもない。つまるところ、これらを全てひっくるめて、これは僕のリリに対しての愛なのだ。
7時少し過ぎた頃。リリの配信が始まる。今日も少しだけお寝坊さん。緩やかな風に頬をくすぐられるような、何とも言えないむず痒い感覚に少しだけ口角が上がった。無論それはリリには見えないので悟られることも無いのだが。
画面には寝ぼけ眼で最低限のメイクをしながら配信する天使が映し出される。メイクで自分を着飾らなくたって君は可愛いのに。そんなことを思ったら思わずかわいい!とコメントをしてる僕がいる。
「しげるちゃん、おはよー。ごめんね、少し遅れちったー」
画面から透き通る様な天使の声が聴こえる。その声を聴いてしまえば5分程度の遅れなどあって無いようなものだ。それでも、7時前に起きてたのに、やらないのかと思った、と少し遠ざけたコメントをしてしまうのは悪い癖だろうか。
「えー、しげるちゃん、ごめんてー。いやでもね、昨日、池袋のカフェで見かけた人、イケメンでさー。声かけるか悩んだわー!また会えるかな?」
他愛もない話でその癖は上手くかわされた。
根本的にライブ配信コンテンツは、配信側は顔も見えているし声も聞こえるけど、リスナーはコメントのみ。こちらの感情まではライバーには届かない。そのコメントひとつにライバーがどう思うかはこっちは表情や言葉でわかる部分があるが、こっちの感情は向こうに伝わることがない。なんとも言えないこの一方通行なラリーが僕にとってはすごく歯痒い。と同時に慎重にコメントしないと不快感を与えてしまうリスクもある程度考えなくてはならないのに、僕はあまりそれを考慮できてないように思える。直す手立ても特にないのだが。更に言えばこの配信において、これはリリに限ったことでは無いけれど、もどかしい気持ちになるのはほかのリスナーもいるという事だ。当然と言えば当然だが、自分とだけ会話してくれたら、もっと色んなことを聞いたり話せたり出来るのに、そう思ってしまう。そうやって、リリのことを考え出すと、自分の中で何かが走り出しそうなそんな感覚が目覚めるのだが、なんとかそれを抑えながらコメントを続ける。走り出しそうな何かは、まだ考えないようにしよう。
-----最近気になることがある。いや、顎のニキビも気になるけど、そうではない。配信についてだ。リスナーみんなとコミュニケーションを取って楽しい時間を過ごしていることに、何ひとつ嘘はない。そうじゃなきゃ続けられるわけない。だけど、最近少し気になるリスナーがいる。蜜を求めてお花畑をふわふわ飛び回る蝶のようなポジティブなものではなく、苦手教科のテストの答案用紙を返却される時に名前を呼ばれるあの瞬間を待つ時間のように相当にネガティブなものだ。ライバーは、今現状溢れかえるほどいるのに、これを相談できる人は私にはいない。かと言って、配信中に件の人物に問いかけることも許されない。八方を塞がれ私は動けない。考えないようにすれば、そよ風のように何も感じず通り過ぎるのだろうけど、コメントだけとはいえ、相手は人だ。一筋縄ではいかないだろう。ライバーたるもの、配信をしていない時も、次回配信に向け何かしら策を講じる。だから配信時間以外も配信について時間を割くことはあって当然なのだが、こんなネガティブエベレスト(ネガティブな事案の最大級の表現した私オリジナルの造語)は、高すぎて登頂できる自信もないし、ゴールが果てしなく遠い、いや、無いのかもしれない。そんな雲を歩くようなこと、私にはできない。
こう言ったものはそれこそニキビのように突然現れる。違いと言えば、治って跡形もなく消え去る事はないと言うことだろうか。多分仮に解決できても何かしら遺恨が残りそうだ。もはやそれは解決ではない。こんな事をずっと考えていたらストレスでニキビが増えるかもしれない…。
件のリスナーの名はしげるちゃん。私が初めて配信したその日から今日まで応援してくれている、古参のリスナーだ。本当にずっと応援してくれて、配信にもほぼ全てと言っていいほど来てくれている。今までの試聴時間やコメントのトータルは他のリスナーの追随を許さない。今私はライバーのランクがE〜S(その中でも更に区分けされている)まである中のAランクに位置しているが、ランクが低い時から見捨てることなく、他のライバーの配信を観ることもなく応援してくれている。配信当初を見守ってくれた人はいたし、今はたくさんのリスナーが応援してくれているけど継続してずっと応援してくれてるしげるちゃんは正直かなり稀な存在だ。
だから私も感謝しかない。ヘビーファンにも常になってくれる。20H以上取るのはテンプレートだ。そんなしげるちゃんだけど、自分で言うと寒気がするほど気持ちが悪いが、私の事が好きすぎて画面を通してしか会ったことはないのに、私に恋をしてる。はっきりとlikeではなく、これは紛れもないloveと言える。本人は悟られてないと思っているかもしれないけど、それはコメントだけでもわかるほど溢れてる。
かわいい、きれい、好き、タイプ…。そう言った好意的な言葉は他のリスナーも言ってくれる。もちろんしげるちゃんも。だけどしげるちゃんの発言は何故か質が違って聞こえてくるのだ。それはおそらく、私がフィルターをかけてしまってるのかもしれない。この人は本気で私を好きな人です、と言う。他のリスナーはそれはあり得ないという思考のもとコメントを見るから何とも思わない。けど一度違うフィルターでコメントを見て仕舞えばもう後戻りは出来ない。だが、そのフィルター越しにしげるちゃんのコメントを見る度に私の中のネガティブエベレストの標高は高くなっていく。
正直、画面を通して目の前にいない人とコミュニケーションを取るには今となってはいろんな手段がある。だから、そう言ったリアルな恋に発展することが0ではないと言うのは、頭の片隅にあることはある。けどそれが自分に降りかかってくるとは全く思っていなかった。ライブる!をそういう手段で使うと思っていないし、そういう邪な理由で配信をしてるわけでもないからだ。しげるちゃんは自分の中のそういう感情を制御するスイッチが無いのだろうか。母親の胎内に置いてきたのだろうか。甚だ疑問である。個性豊かな時代そんな気持ちを抑え込むことも、正しいことではないのかもしれないけど。暗黙の了解的にそう言う気持ちにはなってはならないと思い込んでいるだけなのかもしれない。
しかし、この悩みを顔にも声にも出せないのが腹立たしいのだ。いちいちしげるちゃんのコメントを訝しんで見てしまっては配信も成り立たない。しげるちゃんと縁切りしたいというわけではない。けどコメントは少し困るものが多いし、面白くもない。つまり、ちょっと迷惑…。さまざま想いが私の中を血液よりも循環していくのを感じていた。
脳内の整理整頓だけでエネルギーを使い果たしフラフラな私は寝ぼけ眼のまま、私の配信に遊びに来てくれているリスナーの配信を夜な夜な観に行った。
そこには、私の配信に多く来るリスナーが集う。そこでよく愚痴をこぼしたり、相談したりしている。そのリスナーは何か安心感もある。落ち着く、は言い過ぎだろうか。
とはいえ、彼らは私のこのネガティブエベレストについては知らない。話すにも勇気がある事案だ。何せ、リスナーにリスナーの話をするのだから。けれど彼らの話題は自然としげるちゃんの話になっていた。しかも私が思っていたことと同じ。あれはもう、リリにガチだ。その割に行動が伴わない。などなど、彼らのひとつひとつの言葉は段々と私をネガティブエベレストの頂へと導いてくれているようだった。
その時に、一つ気付かされたことがあった。直接この事案について口にしたことはなかったけど、みんなも同じ事を考えていた、そういうふうに感じるようなしげるちゃんの振る舞い(いや、コメントだけだが)だったということ。私の考えすぎだったらどれだけ自意識過剰な女だと思われたことだろう。どんなこともそうではあるが、自分だけ違う思考をしていたら孤独なものだ。もちろん、それが、思考を否定する材料にはならないけれど、わかってもらえない、分かり合えない環境は誰がどうであれ、孤独な暗闇に放り投げられたような、閉鎖的な空間でどちらに進んでいいのかもわからない深淵とイコールである。むしろそんな深淵へと独り、誘われようとしていた私をそこから思いっきり手を引っ張って連れ出してくれたようなそんな感覚だった。ちょっと涙が出そうになったけどこれは欠伸をした所為にしよう。ネガティブエベレスト登山を開始したようであり、同時にその山の標高が下がったようにも感じた。外を見たら、薄暗い3時の暗闇に僅かながら光が差し込んで来ていた。
------僕はリリのことを大学の友人の陣内哲也に相談することにして、カフェでへと呼び出した。
彼は唯一、プライベートなことも仕事のことも打ち明けられる友人だ。僕のことも誰よりも理解してくれているし、信頼できる数少ない友人だ。今までも何度も彼の言葉に励まされ、助けられてきた。そのせいか、彼からマイナスな言葉が出てくると言う予想は全くしていなかった。だから彼からこの言葉を聞いた時、僕は耳から入った情報を脳に信号として送れなかった。脳がその言語を理解することをやめたかのように。
「その子が魅力的であることは否定しないけど、実際、あまり現実的じゃない。だって会えないんだぞ?会ったことないからどうこういうのは時代錯誤なのかもしれないけど、会わなきゃどうにもならないこともたくさんある。百聞は一見にしかず。100回配信みても1回会うことに匹敵しないかもしれない。少し距離は近いのかもしれないけど、芸能人を好きって言ってるのと、大差ないぞ?」
こんなにも哲也に厳しい言葉をかけられたのは初めてではないだろうか。学科のマドンナに告白して光の速さでNO!を突きつけられ頭が真っ白になり絶望したあの池袋の夜も、課題レポートに追われて、徹夜でレポート作成を手伝ってもらったあの東長崎の夜も、サークル合宿の時に砂浜に座って未来を語り合った朝焼けのあの大洗も、内定を中々もらえず、精神崩壊を起こし疲弊し誰も信じられず全てを投げ出しそうになった俺を全力で止めてくれたあの銀座のおでん屋でも、彼は絶対に僕を否定しなかった。隣に寄り添うような言葉で僕を鼓舞してくれていた。でも今日は違った。哲也は変わってしまったのか。それとも僕が変わったのか。いや、時が流れてしまったからか。
とはいえ、彼の言葉に僕は完璧にぐうの音も出なかった。仰る通りです、以上の言葉も以下の言葉もこの世に存在してないのか。少なからず僕は見つけることが出来なかった。
哲也の言う通り、毎日会う学校や職場の人でも、よく行くコンビニの店員でもレストランのウェイトレスでもない。三次元のリリにはまだ出会えていない。それに、電話やリモート飲み会のように声と声での、ちゃんとした会話はほとんどできてない。確かに毎日観てるだけで、僕らの距離は平行線。初めてリリを観たあの日から何も変わっちゃいないんだ。冷たく横たわるあまりにも残酷な現実を僕はまざまざと見せつけられた格好だ。リリへの距離よりも、絶望への距離の方がよっぽど近くに感じてしまった。この世の終わりを見てしまったかのような、生気を失った僕を見て哲也は重い口を開いた。
「このアンリアルな状況を打破するにはそのリリって子と、会うしかない。そうしないと、いつまで経っても前には進めない。スタート地点にも立たないと思え。繁がもし本気なら、その気持ちは否定するわけにはいかないし。リスナーの中で1番、リリに近い存在にならないと。」
力強い哲也の言葉の束は僕の胸の奥深くに致命傷の如く突き刺さった。僕はスタートを切ることはおろか、スタート地点にもいないのか。その哲也の言葉にうん、そうだよな、と覇気もなく答えるのが精一杯だった。僕はそんな不甲斐なさごとアイスコーヒーで流し込み、伝票片手に会計を済まそうと立ち上がったが、かぶりを振る哲也の、無言の右手に制された。そして支払いは既に哲也が済ませていた。伝票を持つ僕の右手だけが、物憂げにぶら下がっていた。
「じゃあ、またな。繁。今日たまたま休みだったから会えてよかったわ!次は互いの誕生日会でもしようや。進展あったら言ってくれ。」
無邪気にそう言う哲也に、12月まで会わないのかよ、とツッコミを入れて別れた。1人で最寄りの駅の商店街を歩いていると、古くからある電気屋の店頭にテレビが鎮座していて、そのテレビには僕の好きな女優のCMが流されていた。
あぁ、かわいいな。単純にそう思ったけど、リリと僕の距離はテレビで観る女優とあまり変わらないのだろうか。さすがにそこまで離れてはいないだろう、と自分を勇気つけているのが客観的に見ても穴があったら入りたいほど惨めだった。だけど、実際会うなんてどうしたらいいんだ。哲也は僕にストーカーになれとでも言うのか。ライバーとリスナーという立場はやはり縮まらない距離のように感じてきた。この道を歩けば僕の自宅へと近づいていくように、少しずつでもこの均衡した距離を縮めたいと、僕は願ってやまない。斜陽から溢れ出てくる橙色が僕を後押ししながら沈んでいくように見えた。
------恋とか愛とか、それがどういうものなのか。答えがわかる人っているのだろうか。何が恋で、それがどうなったら愛なんだろう。とある日の配信後にお風呂に入りながらふとそんなことを思った。だからこそどうして、しげるちゃんだけ、リアルな恋だと私達は思ったのだろう。他のリスナーだって、好きとか可愛いとかたくさんの言葉をくれている。しげるちゃんしか言ってないわけではないのだ。湯船に浸かりそんなことを考えたら、沸騰しかねない。気付いたら30分以上湯船に浸かっていた。ふやけた身体をタオルで包みながら私はまた例のリスナー…(そうそう、サジタリアスという名前なのだが)の配信を観ている。どんなことを言っても彼は笑顔を絶やさずに我々の話を聞いている。そして彼自身が私の配信を見に来る都合上、私の配信と時間を被せないようにしてくれているから、裏を返せば予定がなければ大抵私は見に来れる。自分の枠で話せないことを話せる貴重な場所だと思っている。
この場合、サジタリアスのことを私はどちらかというと気に入ってると思う。だけどそれってLOVEではない。確かに初めて配信に行った時から楽しかった。それからずっと見に来てる。だけど、例えばそれをLOVEで決めつけるのは早計だし、あり得ないし…なんてこときっと自分の心と相談でもしないと答えは出ないはずだ。いや、心に問い掛ければ問い掛けただけ迷宮入りしそうだ。
そしてしげるちゃんの(おそらく)本気のその気持ちをなぜ私は受け入れられないのだろう。
さまざまな想いが私の心の交差点で交錯しまた新たなネガティブエベレストを生みそうな予感がした。それだけはご勘弁被りたいところだが、会ったことはないとは言え、これも人間関係って言うものなのだろう。複雑に絡み合う糸は時に解けない程に絡み、我々を縛り付ける。そのきつさのせいで身動きが取れなくなる。様々な感情により雁字搦めになってしまっては、温かなシャワーでもふやけたりしないし、洗い流せることもない。それでも強く髪の毛を洗っていたのは私が闇雲に雑念を取り払おうとしているからだろうか。タオルで水滴を拭き取った身体が冷える前に紅茶でも飲もう。
そう思った途端に紅茶の茶葉を切らしていることに気付いて更なる絶望が私を襲った。
目が覚めても、そこには新しい朝がいるだけで、私の心の整理など、ついてるはずもなかった。時間なんてきっと関係ないのだ。自分の気持ちと向き合えるのは、自分だけ。
え?私はしげるちゃんを好きってこと?
そんなはずはない。その感情は一切合切持ってはいけない。ライバーとして失格だから。愛したくても愛せない。いや、愛さないけど。自分で何言ってるのかわからなくなったからとにかくミネラルウォーターをコップ一杯一気に飲み干した。人間の感情は飲み干せるわけもないけど。
なんとか顔を整えて朝の配信の準備をしよう。そんな折、1通のDMが届いた。サジタリアスからだった。実はライブる!には、サポーターという機能があって、5人までリスナーの中からサポーターを選び、配信のお手伝いを頼めるというシステムがある。サジタリアスはその1人なのだ。おそらく、朝の配信に遅刻しがちな私を見兼ねて、連絡をくれたのだろう。ほら、と思いながらDMを開封すると内容はそれだけではなかった。
ーリリ、起きてるか!6時30分ですよ!…ところでさ。しげる、どうするつもり?このままサポーターに設定しておくの?ー
そう。しげるちゃんもサポーターの1人なのだ。それも誰よりも歴は長い。サジタリアスが1番最近サポーターになったけど、お互いがお互いの配信を見ている分、他のリスナーより色んな会話をしている。私のことを理解もしてくれてる上でこの話をしてくれてるのだろう。
だが実際、邪険に扱ってしまえるほどの材料はあるとは言い難い。だからこそこの状況が息苦しいのだ。特定の人よりアイテムでの協力は弱く、その人達からしたら物足りなさはあるだろうが、私の配信に対して惜しみなく投げてくれてる方だと思うし、コメントなどでのサポートもマメにこなしてくれている。ただその質に対しては目に余る部分もある。悩みの種であることは拭えない事実ではある。配信前に悩まさないでよ!と思いながら、でもこの質問をサジタリアスがしてくるのは、決断は私にしか出来ないからに他ならない。なんて思っていたら、DMには続きがあった。
ーしげるを突っぱねるなら、直接会うしかないだろうね。最初で最後になるだろうけどね。ー
え?何を言ってるのかは、私の脳の処理能力では到底理解し得なかった。いろんなことが理解不能だ。
会わないと解決されないことなのか。それほどの出来事が今現状起こっているのか。そもそも会うなんて。ライバーとリスナーの立場で。それはモラルとしてどうなんだ。とか。
私は一旦、起きてることの報告と、朝からしげるちゃんの話はしないでよね、と送ってかわした。wを多めにつけたのはせめてもの優しさだ。とはいえ、これがサジタリアスからの優しさであることもまた事実である。会ったことないのによくここまでしてくれるな、とか。元も子もないことを思うことさえある。朝から摂取するには些かカロリーの高い案件だったが気を取り直して配信を始めようと、ボタンを押す頃には定刻である7時はとっくに過ぎていた。
-----リリに会うには、会いたい気持ちがどこまで本気なのか理解してもらわないといけないというのが大前提で、それをリリ本人が許容しなくてはならない。言うは易し、行うは難し。障壁は1つや2つで済みそうにもない。1つか2つだけにしても、その高さたるや、想像に難くない。でも越えないと僕はずっとこの平行線の上を歩くだけだ。曲がりくねることもないし、交差点もない。ただ平坦で真っ直ぐな道。いや、未知と言うべきか。まずはその入り口に立たなくてはいけない。未来への入り口は止まってくれないし、聳えてるわけでもないから、見逃せば乗り遅れる。僕が、僕自身の気持ちと向き合って、前に進まないといけない。頭で理解してるのになかなか体は動かない。そんな時に見る、リリの配信は一体どんな気持ちで見たらいいんだろう。もちろん表情は向こうに見られないけど、僕はどんな顔をしてこの配信を見ているんだろう。不意にそんな気持ちになり、コメントが進まなかった。無表情のまま増えていく他のリスナーのコメントをただ眺めていた。話題は先月行われたライブる!内イベントでリリが見事入賞した、駅広告掲載のことについてだった。いよいよ、リリが載ってる広告が掲載される日が近づいていた。掲載される駅は横浜市内。桜木町駅だ。県内に住んでる自分としてはいとも簡単に見られる場所だ。
休日だった僕は近くの公園の花圃を眺めながら配信を見ていたが、同時にスケジュールを確認した。掲載期間は6日間。その中で僕が桜木町に行けるのは日曜日しかない。いや、まぁ、広告を眺めるだけだ、駅さえ閉まってなきゃ見れるのだが。これを僕は千載一遇のチャンスと位置づけた。リリも広告を見に行くはず。それなら自然に出会うことが可能な、またとないチャンスだ。ともなればリリがいつ行くか、それをそれとなく聞き出せば…。
ブリキのオモチャのゼンマイを巻いてる段階だろうか。ようやく動き出せる、そんなところだろうか。哲也の言うスタート地点さえ見えてきたような気がして身体中が高揚感に包まれてきた。
とは言え、日付と時間帯を合わせなくてはいけない。時間帯はまぁいい。問題はリリがいつ桜木町駅に赴くかと言うこと。配信を休む日は基本的には予め決めておくことが多いリリ。だとしたら予想も立てやすい。しかも日曜日はリリがほぼ毎週休みにしてる曜日。千載一遇のチャンスは神をも味方につけたかもしれない。配信で探る限り、他の連中はその日には行かなそうだ。それはそれで好都合。前からサポーターを任されてる人達には顔が割れてる。誰にも見られない方がいい。僕の頭の中で野望だけがどんどんと大きくなることに、自分の心が飲み込まれたようで不安にもなるが、そのおかげで力が漲ってくるのも確か。僕は本能に忠実になろう。
ひとつ、僕が今後リリに会うにあたって、気になるのはサジタリアスというリスナーだ。まぁ、僕に取っては雑魚でしか無いのだが、最近サポーターにも設定されているし、そいつが深夜にやってる配信にリリはよく足を運んでいるらしい。まぁ、他愛もない話をするに終始していると読んでいるが、今までノーマークだった人間がリリと仲良くなるのは由々しき事態と言っていい。出る杭は打つ必要もある。そいつは、年齢、住まい、背格好など何かと僕との共通点も多い。早めに対処しないとならないかもしれない。
新たな障壁の爆誕に僕はより一層頭を悩ませていた。
------さて、どうしたものか。人生が簡単に思惑通り行くとは到底思ってはいないが、こうも壁だらけだと嫌気もさして来る。だが、途中で逃げ出すことも許されない。早朝の駅の喧騒を牽制するように僕はイヤフォンで耳を塞ぎ、画面と睨めっこしていた。いや、見てるだけでは何も始まらないし解決もされやしないのだが。刑事ドラマや探偵ドラマでも、決定打、所謂「動かぬ証拠」が全ての命運を握る。限りなく可能性が高いとしても、推測では物事は語れない。邪推と言われればそこまでだろう。だから、その邪推を「動かぬ証拠」へと昇華させなくてはならない。無論、簡単な話ではないから、先程のように項垂れていたわけだが。とはいえ、推測の域を出ないことは間違いないのだが骨組みに少しずつ肉が付いてきてることも確かだ。僕が考えた計画が上手く行けば、これは邪推なんかではなくなるのだ。真実へと変わる。今は、魔法のようにすぐにその状態に持っていくことは不可能だが時間は裏切らないはずだ。僕は自分にそう何度も言い聞かせた。泥舟に近いような体たらくの船ではあるが大海原に航海に出るしかない。それに対してどのように後悔するにしても、何もしないよりはマシだろう。暗礁に乗り上げるまで漕ぎ進めよう。どのみち港はもう見えない。後戻りするつもりもないのだが。今は脳内に沢山の点が存在していて、少しずつ線で結ばれていってるような状態だ。その点が全て線で結ばれた時、一体どんな物語が完成するのだろう?誰が涙を流して、誰が幸せの笑みを浮かべているのだろう。おそらく僕がどんな道を辿ったとしても、全員が笑うことはない。それだけはわかっている。僕は電車内でポケットから手帳を取り出し、状況を整理した。電車が見覚えのある景色の中を駆け抜けている。何も変わらない毎日から何も変わらない毎日へと僕を運ぶ。けれど、明日は少し違うかもしれない。いや、今日という日も昨日とは少し違うのかもしれない。変わらない毎日を変えられるのは結局自分次第。ふぅ、と強く息を吐き出して、駅へと降り立った。いつもとは違う日が始まると信じて。
------日に日にしげるちゃんの発言がエスカレートして見えてるのは私の被害妄想なのだろうか。サジタリアスからDMが送られて来て以来余計に気にしてしまっている。一発殴ってやろうか。私が勝つと思う。でも実際、サジタリアスの配信でもしげるちゃんの話題は増えて来てる。みんなも気にしてるということだろうし、警戒しろよ、とよく言われている。警戒も何も、会うことないんだから大丈夫!って心で思ってる。みんなが心配してくれているのは嬉しいけど。そんな軽い気持ちでいたことを、激しく後悔する日が来るなんて、この時私は頭の片隅でも思っていなかった。そう、梅雨なんかどうでも良くなる程、憂鬱で、人生最大の恐怖を感じる6月が訪れようとしていることなど、5月の心地よい風に吹かれた私には予想出来るはずもなかった。
神奈川県内の駅に私の広告が掲載される。あの人気シンガーソングデュオの歌でもお馴染みの桜木町駅だ。いよいよその掲載時期が近付いてきて、配信でもその話題が頻出するようになった。桜木町駅が近い人は絶対見に行く、と鼻息荒く宣言している。(コメントのため本当に鼻息が荒いかはわからない。)みんなもワクワクしてる。その雰囲気がライバーとしては何よりも嬉しいことだ。
だけどしげるちゃんだけは執拗に私が広告を見に行く日を聞こうとしてる。しげるちゃんだって、県内に住んでるんだから、いつだって行けるじゃん!そう思いながら、配信してる手前、配信を休む日をそこに充当することは概ね予想がついてしまうだろうとも思っていた。現に、最終日である日曜日に出向くことはもう決めている。おそらくそれはしげるちゃんも予想していることだろう。でも流石に時間帯まで把握は出来ないだろう。私はまたそんな軽い気持ちでいた。
配信を終えた後私は、一緒に広告を見ようと約束してる友人畑中萌にしげるちゃんの話を相談してみた。
「なにそれ!激ヤバじゃん!!こわっ!!」
萌のテンションは妙に高かった。何なら笑っている。それもそうだ。会ってちゃんと話したこともない人間に好意を抱かれてるなんて相談自体が感覚的すぎて的を射てない。ただ、現代の日本ならあり得ない話ではない。なんて思っていたら萌はいきなり真顔へと変身して言葉を続けた。
「もしも、本当に不安でどうしようもないのであれば、警察に相談。月並みだけどそれしかない。アカウントをブロックすることだって出来るわけだし、対処方法はまだあるよ。」
確かにそうだ。アカウントをブロックして単純に遠ざけることだって私には可能なのだ。いざというときの対処方法はまだまだ残されている。そう考えたら少し胸の支えが取れたような気がした。あくまで現状を打破出来たわけではないけど、ブロックは現実的な処方だ。と言うのも、警察に相談に行くことは簡単だけど、その後本格的に彼らが動いてくれるとは申し訳ないが思えない。ましてや、会ったことない人がその対象だから余計に、だ。君の思い込み、取り越し苦労、そう言われるのが目に見えていた。だから最後の最後、リーサル・ウェポン的なポジションに据えておこう。その最後の武器を手に取らないに越したことは無いのだから。
たくさんの武器を手に入れたような感覚の私は、まるで無敵状態になったかの如く、強気だった。そもそも、結局はそれが大ごとになるなんて言うことは頭の片隅に少しあるだけで本気で捉えていなかったと言うことなんだろう。痛い目など、遭ってみないと痛いのかもわからない。何より自分の広告が掲載されるんだ。しかも神奈川の主要な駅に。それを喜ぶべきだ。そう、私は自分に言い聞かせ、今にもひっくり返りそうな心を必死に落ち着かせていた。
色々考えたところで、如何にもこうにも日程を調整することも出来ない。あまり頭が良くない私でも、しげるちゃんが日程を合わせてくるだろうと言うことは容易に考えついた。うまく鉢合わせることなく終わらせる、それだけだ。そう、それだけ。それだけのはずなのに心のどこかでは一抹の不安は残り、こびりついて取れそうになかった。萌に相談して楽になったのは間違いないけど根本的に解決できたわけではない。いや、そもそも問題が発生してるのかもわからない。
考えすぎると迷宮から抜け出せず判断を誤りそうだから、これ以上あまり考えないようにしていた。
そんな時にサジタリアスが配信を始めたので気を紛らわそうと私はその配信を見ることにした。
サジタリアスの配信は私の配信とはまるで違う、本当に自由な配信だ。サジタリアス自体、別で仕事をして、私の配信を見て、寝る前の深夜に配信をしてる。
「しげるちゃん、絶対リリと日程合わせてくるよね」
そうコメントしたのは私の配信もサジタリアスの配信も常連でサジタリアスとは結構仲がいい、おしんだった。
画面に映るサジタリアスも大袈裟に頷いている。おしんは私の配信のためにライブる!をDLし、ずっと見てくれている。あまり、真面目なコメントをしてはこないけど、たまに言う一言はいつも的を射たことを言ってくる。サジタリアスとは射手座のことだがそんなサジタリアスよりも、射るのは上手いかもしれない。その言葉が、時に私に鋭く突き刺さることもあるが、必ず優しさがある。コメントの大体は、小学生のコメントのような稚拙なものが多いが、稀にそう言った真面目なことを言ってくる。割合にしたら皆既月食の起こる回数とほぼイコールである。そんなおしんの言う通り、おそらく予定を合わせてくることは想像に難くない。それは理解してる。
「けどまぁ、時間が合わないだろうから大丈夫だと思うけど…待ち伏せさえしてなければね。」
サジタリアスの言葉をうまく咀嚼しようとしたけど、破片が残ったような気がした。どちらにしても、我々が予定を変更することはない。逆に言えばもう、気にしたところで仕方ないのだ。予定は遂行されてしまうのだから…。
平穏無事な暮らしがどれほどありがたいものか、この時私はきっとわかっていなかったのだろう。
------予定の前日、私は親友の伊吹楓に電話をかけてみた。
伊吹楓とは、大学来の親友で、互いに東京に出てきた所謂地方組だ。昔から音楽の趣味なども私と合うし、当時は一人暮らししていた家も最寄りが一緒で学校への行き帰りを共にすることも多かった。共にアルバイト先で彼氏を作り、互いの店に品定めしに行ったことは今では笑い話。そんな昔話を思い出して、1人の部屋でにやけていたことは秘密にしておこう。楓に電話したことに特に意味はない。わけない。妙にソワソワしながら呼び出し音を聴いていた。
「もしもし?梨々花?どうしたの?」
怪訝そうな顔が嫌で思い浮かんでしまうような、女性らしからぬ声の低さで楓は電話に出た。
「前に言ってた広告!明日まで掲載されててさ!明日見に行くんだ!その報告だよ!」
必要以上に明るく振る舞った私の高めの声を楓は見逃すはずもなかった。
「何?隠し事でもしてる?…あ!彼氏できた?」
ノンノンノン。そんなことあるわけないでしょ、と条件反射で返答している自分が妙に寂しく、虚しく感じた。だかしかしそんなことあるわけない。何故ならこのご時世(は関係なく)無闇矢鱈に出歩くこともあまり無いし、遊ぶのも女友達ばっかりだ。男の影なんて私に付き纏うわけも…いや、影レベルならあると言われればあるのだが。
と、色々考えながら私はしげるちゃんの話を、事細かに楓に伝えてみた。どう言う反応が来るか。楓ならあなたの考えすぎ!とか言ってくるだろうか。
「誰か他の人に相談した?今の時代、顔が見えてなかろうが何をされるかなんて、どこまで追いかけ回されるかなんて、本当にわからないよ。もちろん、そのしげるちゃん?がそれに該当するのかまでは私にはわかるはずないけど、用心しておくに越したことはない。何か起きてからでは、何もできない。そんな時に梨々花が何も対策していなかったともなれば、守りきれないよ、周りは。」
完璧すぎる模範解答に私は暫く言葉を失い、思考回路は停止していた。私が何も返答しなかったからか、楓は言葉を続けた。
「私は関東と言っても埼玉だから。いざと言う時に何もしてあげられない。当然土日は仕事。だからあなたの周りをよく見渡して。守ってくれそうな人には話しておいた方がいい。しつこいけど、何かあってからでは遅い。」
脳の思考回路は止まってしまっていたかと思っていたけれどちゃんと体に信号を送っていたようで、私の頬に一筋の光るものが流れた。ああ、よかった。私はまだ人間としての機能を失っていなかった。そう感じられたのは光るものが頬を伝ったからと言うわけではなく、それが流れるほど優しくしてくれる友人がいたと言うこと。その関係を築いてこれたことが何より私のしてきたことは間違っていないという証明になったような気がしたからだ。
本当にありがとう。そう言って私は電話を切った。楓の声が聞こえなくなった途端、現実へと帰還したような気がして妙に落ち着かなくなった。そんな時に、この前のサジタリアスの配信の最後の方で放った言葉を思い出した。
「今俺はこうして、家で1人寂しく暮らしてるけどさ、もちろん誰かと過ごしたら楽しいと思うけど、そのおかげでこうしてライブる!でみんなと出会ってさ。そりゃもちろん実際に会ってはいないけど。でもこうやって楽しい時間を共有してる。…って言うよりみんなが楽しい時間を俺にくれてる。だから、離れてても1人じゃないって思えるんだよね。無理かもしれないけど、みんなに何かあった時助けたいって思うし心配もするしね。それって友達でしょ?」
きっとこれは彼の本心だ。そういう嘘をパフォーマンスで言うような人ではない。それは私の配信に来る彼のコメントや彼の配信を見ていたらわかる。このライブる!で出会ってるはずなのに、既視感というか、前から知っていたような、学校の友達にも似た感覚。きっと私達は、「会ったことがない」だけ。それ以外は友達と何も変わらない。裏でおしんと連絡取って私の配信のことを話してくれていたり、私に直接連絡くれたり。確かにそれは友達みたいな存在なのかもしれない。本当に会ったことがないってだけ。彼の言葉は、会うということの大きさを安に示しているようにも感じた。今関わってるリスナーさん達ともし直接会うことがあったら、何か変わるんだろうか。変わらないだろうか。ただ、一方通行に仲のいい友達と私が勝手に思うのも烏滸がましい気がしていた。でも、そう思ったり思われたりすることは悪い気はしない。なんて思っていたら明日はどんな1日になるかなんて、普段ちゃんと考えたことないけど、もしかしたら、いつもより24時間が長く感じてしまうのかななんて不安だけが、頭の中で雲のように増えていった。
------大丈夫。計画通りだ。問題ないだろう。あとは明日。実行に移すだけ。とは言ったものの緊張で眠れない、遠足前夜の子供のような気分だった。しかし、これをミスするわけにもいかない。今までのことが水の泡と化すだろう。決戦の場所は観光名所、横浜はみなとみらい。その主要駅である桜木町駅。このミッションのクリアは僕の未来を大きく変えることになる。所謂運命の瞬間だ。気持ちを確かに持って。挑むしかない。僕は自分の心を限界まで鼓舞して、落ち着かせようとしたけれど、逆効果だったかもしれない。しかしどんなに計画を密に練ろうと、本番がどうなるかなんてこと、誰も想像がつくはずがない。良い方に良い方に、と考えるよりは最悪な事態を想定しておこう。おそらく時間が合わないと向こうも踏んでいるだろう。それはそれで好都合だ。僕には時間はたっぷりある。あとは向こうの動き次第。高まる期待と不安がコーヒーに流したミルクのように僕の心に溶けていく。人が何かを成し遂げる時に、時間はどれだけ僕らの味方なのだろうか。費やした時間は必ず成果とイコールになるだろうか。答えはNOである。そこには当然時間に対して質が求められるからだ。闇雲に時間を使っても必ず成果に繋がる保証などない。現実はいつの時だって残酷であるものだ。だけど、時間が味方を全くしないわけではないから、人は僅かな希望に賭けるのだろう。費やした時間は戻らない。短かろうが長かろうが多少なりとも成果に繋がることもある。諦めるのも簡単だけど、求めた道を歩き続けることに対して使った時間を信じたい。今はそうするしかない。
それでも時に間違ったことをしてるのではないか、と思うこともある。間違いかどうかなんて、自分次第だ。もちろん、法に触れてはいけないけど、日々の選択肢は常に自分で決断しなくてはいけない。それを正解にするかどうかは他者に決断は委ねられないだろう。つまりは自分を信じるしか他ない。たくさんの感情や雑念が得体の知れない化け物のように心の中で蠢いているのが嫌というほどわかった。それは不安なのか、高揚なのか。今となってはわからない。だが、そんな自分を急かす様に太陽は今日も昇る。行くしかない、の覚悟を決めた瞬間でもあった。
------リリに会うんだ。僕は覚悟を決めて京浜東北線に乗り込んだ。早朝から向かうつもりだったが、それだと店も開いてないので、10時を目掛けて桜木町駅へと向かった。胸の高鳴りは隣の席の人にも聴こえていそうだった。哲也の言う通り会ってみないと何も始まりはしない、と言い聞かせて今日を迎えた。もう怖いものはない。リリの家の詳しい所在までは流石の僕もわかり兼ねるが都内であることは間違いない。そして友人と一緒に訪れることまではわかってる。その友人もおそらく都内に住んでることを踏まえて10時より前に訪れることは考えにくい。早朝に来て仕舞えば店は開いていない。ここから有名な中華街に行くには距離があるし、本当に広告を見てはい、お終い!となってしまうのはあまりに寂しい。折角神奈川、しかも横浜に来るんだ。女2人もう少し横浜を堪能したいと思うはず。ともなれば、10時以降に辿り着くように時間設定すると考えるのが妥当だろう。自分の計画の正当性を自分に訴えながら僕は広告が掲載されているスペースへと歩を進めた。日曜日の朝だからか、このご時世だからか、人の波はそこまで激しくなく穏やかだった。
正直、いくらリリの広告とは言え、これに関しては見てすぐ終わりだ。それ以上はない。どの角度から撮っても静止画だ。とにかく可愛いことは間違いない。それにイベント入賞によるものだと思ったら自分自身も嬉しくなってきた。それは流石に他のリスナーも思ってることだろう。あの頃を邂逅し1人で満足げな顔をしていた。写真も撮り終えた僕はひとまず、この広告を目視出来るガラス張りのカフェという秘密基地を探すことにした。しかし桜木町駅は商業施設と駅が併設されており、反対側から確認することは困難を極める、というのは事前に調べてあったので特に焦らなかった。そして目の前の商業施設の1Fに新たなカフェがオープンした。そこからなら駅を確認できる。これも確認済みだ。オープン時間から間もないそのカフェと歩を進め空席を確認した。ちょうど駅を確認できる席を確保して僕はそこで戦闘態勢へと準備を整えた。横浜の空は穏やかな青で我々を覆い尽くしている。この空がどこまで続くのかなんて考えたこともない。どうせ終わりなんてないから。僕の人生もその青空みたいなものか。どれだけ正解を探して考えて生きても、人は必ず間違う。答え探しにゴールが見当たらない。それでも人は限りなく正解に近いものを見つけながら生きてる。終わらない旅なのだ。自分にとっての正解が、誰かにとって間違いで、あり得ないことかも知れない。その恐怖さえ、人は理解してる。でも、自分が正解と思うことに突き進みたくなるのだ。思考は、思ったより単純だ。自分に正直に生きること、やっぱりこれに尽きる。色んなことが複雑に絡み合ったものも、解いていけば、単純なことへと収束されていくのだ。もしかしたらこの一切汚れてない澄み切った美空は、僕にそんなことを教えるために青いのかもしれない。そんなことを思いながら口に流し込んだコーヒーは思った以上に酸味が強かった。多分、エチオピア産の豆だろう。
------6月が夏の始まりを叫ぶかのような、茹だる暑さの中私は桜木町駅へと向かう準備をしていた。もうすぐ萌が私の家に着く頃だ。少し早い時間からの集合だけど、いかんせん桜木町は神奈川県。都内の自宅に住む私からすれば有り得ない遠さだ。今更距離の話をしても何も変わりはしないが、予定としてはランチタイムには桜木町に到着する。それ以上早くは起きられなかった。それにしても自分が載ってる広告をこの目で確かめるってどんな気持ちなのか。未体験のゾーンに心は少し落ち着かない。本当に落ち着かないのは、その理由だけなのかは…もう神のみぞ知るセカイだ。
また頭の中で色んな事象がどす黒い渦を巻いてきた頃、萌が到着した。インターホンの甲高い音で我に帰った。
萌を一旦家の中に招き入れ、身支度を整えていた。
「ねぇ、梨々花。結局あの件、誰かに相談したの?」
萌の言う、あの件が、しげるちゃんのことを指している事はわかった。ただ、初めてその話をした時と比べて、表情や声色は至って真面目だった。その目力に少したじろいでしまったが、私はかぶりを振ってそれに応えた。
「しげるちゃん、多分本気で私のこと好きだよね、っていう話は、サジタリアスの配信でも少し話にはなったけど、相談というか、そこまでのレベルではないかな。ただサジタリアス含めてその配信にいた人はみんな、そうだと思う、とは言ってたけど…。」
どこからかエネルギーを吸い取られてしまったような力の抜けた声で私は話をした。
「あ、でも、サジタリアスとおしんは、しげるちゃんのことでDMくれたよ。本当に平気?って。そこで少しやり取りしたけど、具体的に相談は出来てないかな。」
萌がそうなんだ、とため息混じりに言った。何となく目が怖い気がして萌の方を見ることは躊躇った。
そうこうしてるうちに、身支度を整え、いよいよ、家を発つ。ここから桜木町駅までは長旅だ。準備に時間を要したが、ランチタイムには到着出来そうだ。どこで食べる?せっかくだから中華街も行ってみたい!なんて他愛もない話をしている今の私達はこの後に起きる事なんて結局予想なんてしてないだろう。出来るわけもない。いくら敷かれたレールの上をのうのうと生きたとしても未来なんて予想できない。だからこそ、楽しいのだろう。そんな風に考えながら、都会の狭い空を見上げた。今日は穏やかな風が吹いている。この風に宛てもないように、私達にも決められた未来なんてない。
電車は軽快なスピードで私達を都外へと運んでくれる。最寄り駅から1番近いターミナルである新宿駅まで向かい、そこから湘南新宿ラインで神奈川方面までひとっ飛びだ。向こうで食べるご飯の話はいまだに続いており、どれも美味しそうに見えてしまい、決めかねている。都内から1時間くらい電車に揺られて、気付けばあまり見覚えのない所を電車は走っている。どうやら神奈川県に入ったようだ。電車は武蔵小杉駅に到着した。よくニュースで見たりしていたけど、実際にこのタワマン群を見たのは初めてだった。呆れるほどの数のタワマンがこちらを見下している。どう言う気分だい?上から見下ろすって言うのは。なんて思っていたら、電車は武蔵小杉駅を出発した。その後に新川崎という駅に止まったがこれは川崎駅の近くなのか?と、一瞬考えたけど、どうやら川崎駅は近くないらしい、と言うのは後から知った。そして新川崎駅を出発した電車の次の目的地は、いよいよ横浜駅だ。言わずと知れた神奈川の一大ターミナル。そして観光名所である。そんな横浜駅は、開業以来ずっとどこかしらを工事しており、完成しないことから日本のサグラダファミリアと言われていた。しかし五輪開催予定だった2020についに完成を迎えたのだ。地元でずっと見守ってきた人には姿を変えた駅に切なさを覚えつつ、ようやく工事が終わり未来への象徴として生まれ変わった横浜駅を見て感動したのではないだろうか。それなのに世界がこのような事態になり、世界中の人にこの素晴らしい駅を見てもらえなかったことを思うと、今日までこの駅の工事に携わってきた全ての人の想いが報われない気がした。神奈川の、横浜の未来を拓いたのは、黒船でもペリーでも誰でもない。間違いなくあなた達だ。胸を張ってほしい。素晴らしい建造物だ。そのような素晴らしい駅に降り立つことが誇らしい。ただ綺麗なだけではない。外から駅中央改札に向かう西口の階段からはプラットホームを眺めることも出来る。利便性だけでなく、駅としての顔を立てた、素晴らしい設計になっている。…というのを前の日に色々調べて少しテンションが上がったことを覚えている。まもなく電車が横浜駅に到着するというアナウンスが車内に響いた頃一通のDMが届く。サジタリアスからだった。
「リリ、広告の場所わかりにくいから気をつけてね」
まるで母親のようなDMだがありがたい。サジタリアスは神奈川に詳しく、広告も私より先に見に行ってくれていた。どうやら広告は桜木町駅のメインの改札である南口改札ではなく、北口改札に掲載されているようだ。でも、そこまで広い駅でもない。行けばわかるだろうけれど、とにかくそのDMに御礼を述べたところで、電車は横浜駅に到着した。さすが横浜駅。駅も広いし利用客数も都内主要駅に匹敵するレベルだ。完成されたサグラダファミリアは美しく聳え、今日も利用客の安全を見守っている。この土地の沢山のストーリーを着飾った横浜駅はそれはそれは立派で歴史を感じるものだった。が、私たちにその余韻に浸る余裕はなく、京浜東北線に乗り換えなくてはならない。京浜東北線は呼んで字の如く神奈川(横浜)から都内を通り、埼玉県の大宮駅までを結ぶ電車だ。しかしながら都内三大ターミナルである新宿渋谷池袋に停車はしない為、都内に住んでいて使わない人もいるかもしれない。埼玉県民と神奈川県民からしたら都内への道を繋ぐ重要な役割を担う。そんな青いラインの電車に乗り込んだら一駅。すぐに桜木町駅に到着する。長かった旅だがいよいよ目的地。高鳴る胸の鼓動を押さえつけながら私たちはその時を待った。萌もマスク越しにもわかるほどの笑顔だ。桜木町駅到着アナウンスがあり程なくして、電車は桜木町駅に停車した。
安堵の表情を浮かべながら駅へと降り立った私たちだった。記念に写真でも撮ろうとしたらまたDMが届いたのだ。
送信者を見たその瞬間にその手が震え、顔が強張った。誰もわからないはずの未来なのに、決められた未来へと誘われているような妙な悪寒がしたからだ。私のその反応に萌も空かさず反応した。何?どうかした?という萌の心配する声が聴こえているはずなのに耳はおろか体をすり抜けて向こうへと消えた。どうしたらいいのか、何もわからなかった。ただ、恐怖を感じていた。誰かに助けて欲しい。送り主はしげるちゃん。添付画像と一言。
「広告あったよ!可愛かったね!今日は桜木町で、あなたを待っていようかなんて、そう思ってるよ」
地獄は音も立てず、私に忍び寄ってきていた。
だがしかし、もう逃げることはできなかった…
------2020年、世界は一変した。
新型ウイルス感染による未曾有の事態に襲われた。
パンデミック、ロックダウン…。未曾有の事態は世界を震撼させ、終わりの見えない恐怖を我々に与えてきた。
怒り、悲しみ、憎しみ。慮ることさえ憚られるほど、沢山の人たちが涙を流した。想像の遥か先を行く絶望が人類を襲った。陰謀論も囁かれた。その真偽はどうだっていい。それでも僕らは命を繋いでいった。沢山の犠牲の上に立たされた残された命は、生きる選択をした。だから立ち止まるわけにはいかなかった。
目の前にある、大切な時間を、大切な人を、その全てを
守れなかった命の分まで僕たちは生きていく。
だから僕は歩き続けた。未曾有の事態のその中で、活路を見出していった。それが人類の強さなのだ。
でも同時に弱さでもあった。何かがそばに無いと、それがふと消えると、通常の生活さえままならなくなる。
僕らは会えない時間を通して実感していた。会えることの大切さ、そしてそれが「当たり前に」行われていた日々が、かけがえのないものだったということを…。
そしてその全ての可能性は、失ってからでは遅いということも。どんな理由があってそれが、例え、間違いと知っても、僕らは常に可能性へと走っているんだ。
そう、今も…。
------死を意識するほどの痛覚が、身体中を襲った。目の前にいるのは繁。この痛覚。腹部は鈍色に近い紅に染まっていた。僕は…あぁ、体内から血液が体外に流れていくのを感じる。意識が再び遠のきそうになる。
「テツ!!!!くそ…!!!」
友人の西条雄真の声が傷口に響く。
そうか。刺されたのか。
そのショックで記憶が飛びそうになったがこの痛覚、残念だが嘘ではない。痛みで他のことなど考えるに及ばない程だ。
くそ。こいつを友人と思い一縷の望みに賭けた俺が馬鹿だった。こいつは…こいつは…
ああ。この涙は何だ?痛いからか?悲しいからか?悔しいからか?多分全部だ。友人に刺されるなんて。もう最悪の事態だ。
「哲也ぁぁぁぁぁぁあ!!!」
その狂気に満ちた目は僕の知る、繁では無かった。
戻ってきてくれよ…繁…なぁ。
遠のく意識の中、僕はあの頃を思い出していた。
大西学院大学で、語学を専攻していた。
と言っても、外国語の中の日本語を学ぶ、いまいち外部からはピンとこない学科だ。
その頃よりは疎遠になったけど、繁は俺の良き理解者だと思っていた。しかし、昔からストーカー予備軍の片鱗を見せていたことも確かだった。
学科のマドンナ、仁科早苗に振られた時も、執拗に理由をメールで聞いたり、自宅も特定しようとしていた。そしてその目は怒りに満ち溢れ、酒と相まって手をつけられなかった。
変に孤独を嫌い、レポートを仕上げたい夜は当時繁が家を借りていた東長崎駅まで数人で呼ばれ、そのレポート作成に付き合わされ、先に寝れば叩き起こされる。
サークル合宿の大洗では延々自分の未来予想図を語り、俺に承認を求めてきた。いや、と怪訝そうな顔をすればされ返される始末。笑顔で肯定する以外方法はなかった。
内定がもらえない日々が続き途方に暮れた繁は面接先だった銀座で酒を飲み暴れていた。たまたまその日、有楽町で買い物をしていた俺と友人がその姿を見かけ、話を聞いてあげたい。おでんを食べながら世の中への不満を吐き出した彼だが、財布からお金は吐き出て来なかった。
羅列すれば問題ばかりに見えるけど、普段からそうだったと言うわけではないし、約束を破るとか、人の話を聞かないとか、友人関係を破壊するほどの人間ではなかった。
ただ、僕らの学年が上がるにつれて、件のような出来事が増え、僕の中で不信感も募ったことは間違いない。だが、友人であることも事実。だから僕は彼を心配していた。
ストーカーになる人の兆候を調べたり、彼がそうなりそうなら未然に防いだり、できることはやりたい、とは思っていた。だからこそ、僕はあの時、画面越しの美女相手の報われない恋の相談に乗った。
そして、会うことを提案した。そうすれば、普通の恋ができると思ったからだ。何とかして会える友人まで発展すれば、ただ純粋に恋愛出来ると思った。心のどこかで、リスクがあることは承知していた。でも、会えない相手に思い悩んで、繁がおかしくなったら、良からぬ方向に向かう気がしていたからだ。僕は繁の動向を見張ることにしたけど、最悪の結果になってしまった。情けない…判断ミス、いや、だとしたら何度、この人生判断を誤って来たのだろう。考えるだけで傷口が広がりそうだ。選択の連続。でもそれが正解かどうかなんて…わかるわけもない。でも、間違いって気付けるはず。選んだ道の正当性は、先に進んでみなければ判断できないところだと思うけど、何択かある中で、間違った道だとすぐに判断が付くものもあると思う。
痛みに苛まれる中で、それを今、繁に伝えたかった、と、また絶望的に深い後悔が痛みとともに僕を襲って来た。
------1時間前
私は桜木町駅についた。あの恐怖のDMに足は竦んでいた。
とっさにスクリーンショットをサジタリアスに送ったのは、多分気を紛らわすためだろう。
私と萌は桜木町駅北口改札を目指して、エスカレーターを降りた。
桜木町駅の構造は簡単で、改札は南改札か北改札しかない。ホーム階から降りて、どっちに行くかと言うだけの単純構造。その北口改札を出てすぐ、券売機の近くにその広告は掲載されている。やっぱり楽しみな気持ちもある。
件のDMの事は心に留め、私は広告へと急いだ。でもそれは、地獄へと一歩、一歩と、近づいているに過ぎなかったのだ。萌もその不安には気づく事なく、ルンルンって音が聞こえそうな笑顔で改札口へと向かっていた。
改札を出て、券売機を見つけてからは早かった。そのすぐ横のポスター掲載スペースにその広告は掲載されていた。
私達は「おおーーー!!」という感嘆の言葉を2人同時に放って、その感動を表現した。
君だって、すぐに人気者!いますぐ配信!ライブる!
その微妙にダサい決まり文句と共にイベントを勝ち抜いたライバーの写真が掲載されていた。それを見た時、本当に嬉しくて、それ以上言葉は必要ない程の感動に包まれた。私は幸せだ。幸せ者だと。1人ではここに辿り着けていなかったと思う。本当にみんなに感謝をしたい。ひとりひとりに手紙を書いて感謝を伝えたい。それくらいの想いが込み上げてきた。目には光る何かが浮いている。今、この光る何かは、ダイヤモンドより美しい自信があった。
萌も隣でもらい泣きしていた。頑張ってきた梨々花を傍でずっと見てきたから、と。
広島にいた頃から、ずっと、萌とは一緒だった。何する時も萌を誘って、事あるごとに一緒にいた。親友でもあり家族でもあり戦友でもあり。そんな萌には一生頭が上がらない。
桜木町駅の人通りがもう少し少なかったら、ハグしていたかもしれない。この感動の余韻にはいつまでも浸っていられそうだ。ずっと掲載してもらえないものかな、この広告、とさえ思った。萌も激しく首を縦に振っていた。ブリキのおもちゃの様だ。そんな仕草を見ながら笑い、釣られて萌も笑う。笑顔の連鎖はなんで美しいのだろうか。素敵なこと、素晴らしいことだ。幸せな気分になる。人の笑顔の力を再認識しつつ、たくさん、写真を撮り、その感動や笑顔をフレームの中に閉じ込めた。そして、そのフレームをも飛び越えてこの気持ちはずっと私の胸の思い出のフォルダの中に保存されるだろう。鍵を掛けて、忘れられない様に。沢山の人達が行き交う駅で私達は今、私たちだけの世界で生きている様だった。でもそれでいい。今この時は、私達のためにある時間だ。間違いなく。だから、思いっきり楽しんでいい。人混みの人の目も気にしなくていいんだ。努力が実ったのだから。誇っていい。胸を張っていい。そう私は自分をひたすらに讃えていた。人がどれだけ行き交ってても、何も気にならなかった。
ただ、その人混みの中に、悪魔が潜んでいたことに、この時気づいていれば…。
------広告の写真を撮り溜め、その1枚とDMをリリに送った。個人的にはこれだけでも相当なエネルギーを使ったが勤めて冷静を装い、エチオピア産のコーヒーの酸味に酔いながら、僕はその時を待っていた。人生が大きく動く分岐点を僕は今まさに迎えようとしてる。リリ。やっと会えるね。君も待っていただろう?なぁ、そうだよな?そう思えば思うほど鼓動は熱く、いや、暑苦しくビートを刻む。この胸の高鳴りを抑えたくて僕はコーヒーでは無く、セルフで注いでおいた水を一気に飲み干してそれを冷まそうとした。効果はあまり感じられなかった。自分の予想の中ではもうすぐリリが桜木町駅に現れると踏んでいる。今日はいつまでも待つつもりでいるけれど、早く来てくれるに越した事はない。全身から汗が吹き出てくる。緊張がぼくを覆い尽くした。コーヒーのおかわりサービスを行ってるこの店。僕はおかわりしようと席を立とうとした。そしてまさにその時だ。
見覚えのある美女。何度も見てきたその整った顔立ちはマスクをしていたってすぐにわかる。
僕にとって念願の瞬間と言える。あの人は間違いなくリリだ。リリが桜木町駅に現れた。いざ、現実に起こるとどうしていいかわからない。汗はさらに吹き出し、全身の鼓動は訳もわからない音を刻んでいく。とにかく僕はお代わりしようとしたその足でトレーを片付けて、店を出た。悟られないよう帽子も目深に被り、桜木町駅へと向かった。一体勝機はどのくらいあるのだろうこの勝負…そう悩み出したら窒息しそうになる。リリも僕のことを好きなはずだ。間違いない。相思相愛だ。これだけの期間、僕はずっと彼女に尽くしてきたのだ。嫌われるはずはまず無いし、邪険に扱うことも有り得ない。ならもうこの勝負、勝機以外何も無いだろう。僕は勇ましい足取りで確かに一歩、一歩と目的の場所へと向かう。
もしかしたら、今までの全てを失うのかもしれないという恐怖が無いわけではない。地道に作ってきた成功への道筋があったのだとしても、それを今日で全て0にする可能性も当然孕んでいる。昔からむこうみずなタイプではあったと自覚しているが、これほどぶっ飛んだのはおそらく今日が初で、今後もこのようなことをすることは、おそらく生涯無いであろう。僕にとって今日が終末の日になっても構わない。いや、世界が終わったら元も子もないのだけど。人を愛することをどれだけ知れたとしても、人に愛されない限り、与えられる愛を知ることはない。同じレールを走ってるとしても、同じ電車に乗っているのかはわからない。リリがいる世界で、リリと同じ時間を生きていたとしても、隣にいないなら同じ景色を見られてるとは言えない。だからつまるところ、時間を費やしてもただ画面越しに見てるだけでは何も始まらないということだ。共有できたこともあると思うけど…。リリに取っては、リスナーの1人。リスナーの中には前は配信を見てたけど、今はもう見に来ない人も沢山いる。だからライバーにとって試聴するメンツが移り変わっていくことは悲しいとしても、当たり前のようにあることだ。僕が配信を見なくなることがあったとして、始めは寂しいと思うかもしれないけれど、少し経って、新しいリスナーが増えたら、そんな気持ちも葬られる。呆気ないものだろう。散々時間も費やして、それなのにこんなに悲しいことってあるだろうか。言いたくないけど、投げ銭制だから、僕らは大なり小なりお金を使っている。それによってファンは階級を定められているのに。僕らの存在は確かにそこにあるのに。画面を隔ててるだけ、アプリを通して関わってるだけ。実体がそこにいないだけだけど、僕らの関係なんて、昨今の薄型のスマホなんかよりよっぽど薄っぺらい。繋がりが消えるとまでは言わない。DMもある。0になることはないだろう。だが、こんなにも同じ時間を共有しているとは思えないほど、僕らの関係など淡白なものだ。
僕はずっと、ずっと、ずっと、リリだけを見続けてきたんだ。他の誰にも負けない。サジタリアス?あんな糞みたいな新興勢力に屈することもない。それでも、リリは優しいから、そんな僕と彼ら雑魚を平等に均等に、対等に扱う。その優しさが魅力だが、悪い意味では雑魚がつけ上がる。僕とは立っているフィールドが違うことを弁えてもらいたい。同じところで戦えると思わないでくれ。テリトリーにもたちいったくるな。歴が違う。
そんなことを考えていたら段々と腹が立ってきた。リリが他のリスナーにうつつをぬかすことなど許されない。いや、許さない。僕は最古参だ。僕が1番なんだ。他が勝てるわけない。ずっと思い続けた。それを愛と言うのか恋と言うのか本当のところはわからない、そう、それは僕にはわからないのだけれど、でも想い続けてることには変わりはない。きっとそう、これは愛だ!愛でしかない。そしてこの大きさは誰にも負けない。
だから…手放すわけにはいかないんだ。僕のリリになってもらわないと割りに合わない。僕の…僕だけのものだ。
地面を踏みつける足がそこにヒビを入れるのでないかと言うほどに力がこもった。そして広告を見てはしゃぐリリのすぐそこまで辿り着く。さぁ、僕だけのリリになるんだ。
------ここは別の世界だろうか?
誰もいない。萌も。閉塞した謎の空間が桜木町駅に出来上がったかのようだ。目の前にはしげるちゃん、いやもう画面を通してない。本馬繁、その人ただ1人。
30歳過ぎても童貞のままだと魔法使いになると言うのはどうやら真実らしい。
いや、そんな冗談を言ってる暇も余裕も今の私にはないだろう。目の前には悪魔より恐ろしい、しげるちゃんがいるのだ。目を逸らしたくなる現実に辟易としながら、私は平和に終わる手段を考えていたのだ。
だけど…
「リリ!!さぁ早く僕のところに来るんだ!!」
彼の天に向けた咆哮が桜木町にこだまする。
彼の目はもう、常人の目ではないように見えた。
どっちにしてもここまで来たら普通も何もない。
ニュースタンダードさえも、今となっては普通だから、何が普通なのかわからない時代だけど、これは、この愚行は、間違いでしかない。
「リリ!何故こっちは来ないんだい?君は僕が嫌いなのかな?」
私は拳を握りしめた。何か言って、何をされ返すのかは未知の世界。不安はあったけど、声を出さないといけない。
「今まさに嫌いになりそうだけど!」
この言葉の刃は、相手の頬を微風程度の威力で掠めただけだった。それならそれで良いのだが、変に逆撫でしたようだ。
しげるちゃんはポケットの中からナイフを取り出した。
その衝撃に刺される前に驚きで心臓が止まりそうになった。
勇気ってこんなに空回りするのだろうか、どうしよう、どうしよう。
そんな状況の私よりも泣きじゃくりながら私の名前を連呼する、萌の声が、暗いだけの世界を切り裂くと共に私の耳をつんざいてきた。その金切声はより一層色濃く私に現実を突きつけてきた。
近寄れば私の人生は彼の腕の中で、逃げればこの命の鼓動ごと色のない世界へと落ちていくだろう。それはどちらが正で、どちらが否なのか。はたまたどちらが生で、どちらが死なんだろう。いや、この場合はどちらも正否でありどちらも生死だ。退路は絶たれた。もう私はどこにも逃げられやしない。
そんな時、たくさんの思い出のシーンがチャプターごとになり、ひとつひとつ私の脳内で再生され始めた。あぁ、走馬灯ってやつかな。
私の頬を自然と哀しい色の雫が溢れていく。どうして私がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ、と、運命を否定したくなっていた。
このまま茂ちゃんに刺されて私は死ぬのだろうか。短い命だった。やりたいことだってまだまだたくさんある。行きたいところだって。
走馬灯は流れ続けた。お母さんに手を引かれ歩いた商店街。肉屋のコロッケ頬張りすぎて火傷したっけな。
初めてお父さんとお母さんの絵を描いてあげた時。2人とも全然似てない私の絵を見て泣きながら喜んで。しばらく部屋に飾ってたな。幼稚園の遠足で整列して歩いた。その時手を繋いだひかり組のゆうとくんは多分私の初恋。
そして、4歳の時、妹の陽麻梨が生まれた。新しい家族の誕生にお父さんは泣きながらお母さんにありがとう、ありがとうと言っていた。
小学生になって、私は音楽が好きだった。歌うことが好きで合唱は誰より声を出してた。父兄が参加する発表会の録画ビデオは今でも多分、お父さんの宝物。
中学生になって所謂反抗期を迎えた。今思えば、それでも両親は全身から溢れる愛を私に注いでくれていたと思う。
初めて彼氏が出来たのも中学の時。サッカー部の河合くん。お互い、付き合うってどう言うことなのかわからなくて、そんなに長続きしなかったけど、初彼っていうことで未だに走馬灯に出演出来るほどインパクトはあったということだろう。おめでとう、河合。
反抗期を迎え、スクールカーストの上位で胡座をかきながら、下々の民たちを嘲笑っていた私は、どの角度からどう見ても性悪中学生だっただろう。
そんな私でも、いやだからこそ、結構モテていた。過去形なのがちょっと辛いけど…。
下駄箱にラブレターという、一昔前の学園ドラマのヒロインみたいなことも、当然あった。体育館裏に呼ばれたりもした。大した男じゃなかったから全員振ったけど。
走馬灯はところどころで家族との時間を映し出す。東京に出てきた私にとってこの映像が1番心を刺激してくる。
ああ、みんな元気なのかな?陽麻梨、ごめんね、お姉、ここで死ぬかもしれないよ。お父さんとお母さんのことよろしくね…。
走馬灯も然りだが、涙は永遠に止まることは無かった。
この現状への恐怖、そして未来への悲哀。私の感情では足りないほどのことが起きているように思った。
走馬灯は次、高校生編か。
高校に入った私はさらにカースト上位の性悪学生を極めつつ、大好きな音楽には本気で打ち込んだ。楽器から出るその音色と重なるハーモニー、私はそのアンサンブルに酔いしれていた。その中のひとつを自分が奏でているなんて、幸せしかない。私はフルートを吹いていた。どんな楽器もそうだけどとても繊細で、私の息遣いで、音が微妙に変わる。単純に息を吹いて、指を使えばいい音が出せるものではない。その奥深さに魅了されていた、高校生の私には、もしかしたら、スクールカーストなんて関係なかったかもしれない。
「リリ…リリ…はぁ…僕の…僕のリリ…」
しげるちゃんの声で我に返った時には、もうその男は目の前まで近づいていた。
------頼む間に合ってくれ。その願うことで足が速くなるなら苦労はないだろうが、少なからず願ってる間、この足が止まることはないだろう。
僕はおしん、いや、西条雄真と共に桜木町駅に来ていた。自分の中の不安が形になってほしくないから、見届けに来た。
とはいえ繁には顔が割れている。駅の改札を確認できる場所でその時を待つことにしていた。
僕はもともと、雄真に言われてライブる!を見るようになった。可愛いライバーいるからお前も目の保養にでも、と。本当にそれくらい軽い気持ちだった。
あの日、本馬繁にリリのことを相談されるまでは…。
「そういえばさ、俺、気になってたんだけど、なんでサジタリアスなんて長い名前でやってんの?」
いや、走りながら聞くことではない…。
突拍子もない雄真の質問に目が点になった僕はとりあえずその説明をした。
「いや、僕射手座だから。特に他にこれと言って理由はないけど…。」
言いにくいんだよ、サジタリアス、って!!と、歪んだ顔で雄真がこちらを見てくる。
「おしんだって、最初気づかなかったけどな。」
おしんの由来は、雄真を音読み訓読みを入れ替えれば、雄真になる、というものだ。
「それにしても世間て狭いんだな。あの本馬がまさか俺たちと同じリリのところのリスナーだったとは…ね。」
僕は全く同感、と言う意味で大きく縦に首を振った。
そう、僕、陣内哲也は、このアプリを始めるときに自分と雄真の関係は伏せていた。他人として振る舞い続けて来たのだ。もちろん繁にも内緒にしていた。とは言え配信すると、バレる可能性もある。アイコンは風景画でごまかし、年齢や出身などは少しずつ実際のものとずらして、それとなくごまかしてきた。幸い、彼が僕の配信を見にくることはなく、周りにもその関係が怪しまれることは一切なかった、と言うより今も気付かれてはいないだろう。しかし最初はまさかその繁だとは思ってもいなかったがそうしてるうちに、繁本人から黛梨々花の事を相談され、点が線になったというわけだ。
黛梨々花本人も、執拗な繁の粘着質コメントにある一定の恐怖を覚え、我々にも話を振って来た。
そうして、今日がXデー。彼等が会うとしたら広告を黛梨々花が見にくる今日しかないというわけだ。
見張っていた場所から何故走っているのか?
妙な胸騒ぎを覚えたからだ。それは黛梨々花からは、繁からのDMのスクリーンショットが送られて来て2人で寒気を覚え、更にたまたま、繁が「長細い何か」をポケットに忍ばせるのを目撃したから。それはおそらく鋭利な刃物に違いなかった。いや思い過ごしならそれで構わないのだが、本当にそうだった場合、取り返しのつかない大惨事になりかねない。だから2人で止めるべく、桜木町駅へと、30代らしからぬ全力のダッシュで向かっている。
僕達は、繁の後を追うような形で駅へと到着した。
2人が何やら話しているが、駅利用客は何事もないように通り過ぎて、それぞれの何気ない日常を謳歌している。この後起こることなど誰も想像も予想もしていないからだ。僕自身も出来ていない。想像の域を出ない机上の空論のような出来事が目の前で繰り広げられたとき、人は思考を止めるものなのだと、このとき僕は思った。
何やら2人で話をしていた時に、繁がポケットに手を入れた。駅の柱の両端から事態を見守っていた僕らの心臓の鼓動が激しくなる。その音は駅を覆う騒音をもかき消すほど。
そして繁はゆっくりとポケットからナイフを取り出してそれを黛梨々花に向けた。
辺りがようやく事態を飲み込んだように騒然とし始めた。
「哲也まずい!!」
優馬のその声はもう背中で聞いていた。
僕は無我夢中、繁たちの元へと走っていた。ここで足踏みしてしまったら、色んなものを失う気がしたけど、走って止めに入り、解決できる策も特に脳内にストックされているわけではなかった。
少しずつ、黛梨々花との距離を縮めていく繁。
周りのモブを牽制するように「近づくな!!」と言いながら、足を引きずる様にそろりそろり間合いを詰める。
ジリジリ、ジリジリと、後退りしていく黛梨々花。もう、すぐそこは行き止まり。悲しくも行き止まりの壁には自らの笑顔が飾られていた。
もう後ろは壁だと気付き絶望感を露わにした。
「助けてよ!!!!」
最後の力を振り絞るかの様に涙でぐしゃぐしゃにした顔で黛梨々花が懸命に叫ぶ。電話を手に持つ者や、走って駅員を呼ぼうとする者はそのナイフと、圧倒的な恐怖によって制圧され群衆は足がすくみ、誰も止めに入れないし、助けを呼ぶ事はできない。
間に合うか……!!
「リリ!!」
黛梨々花のライバーネームを叫ぶ声が2つに重なったその刹那、僕も繁も、黛梨々花への距離は0だった。
------------------これは走馬灯?
それにしても直近すぎやしないか?なんてことを思っていた僕を目覚ませるかの様な痛覚が身体を襲う。
刺されたんだっけ…。感じた事のない痛みだ。
僕は医務室の様なところで寝ていた。
駅の医務室のようだ。何より助かったみたいだから
一安心というところか。目の前には医者らしき人が座っていた。しかし、雄真はおろか、黛梨々花や、繁の姿は見当たらなかった。
ドアが2つある。1つは駅員室、もうひとつは駅に繋がるドアだろう。1つのドアから駅員さんが出てきた。
「駅長の相良です。よかった。目を覚ましてくれたようですね。」
安堵した表情が妙に安心した。僕はなんとか生きていた。生死を彷徨ってこの世に帰ってきた。
「早速で大変申し訳ありませんが、書類を書いていただきたくて。」
あぁ、と、少し戸惑いながら返事をし、ベッドから立ち上がる。少し痛む気はしたけど、歩けないほどではなかった。
僕はそれでもゆっくりと痛みに耐えるようにドアへ向かった。ドアノブに手をかけたその時だ。
「哲也!!!!」
「サジタリアス!!!!」
ふた通りの僕を呼ぶ声が確かに聞こえた。
もうひとつのドアからだ。そのにいたのは、雄真と黛梨々花だった。
「おお、2人とも無事だったんだ!よかった。ちょっと書類書いてくるから待っててくれ。」
2人の無事を確認して、本当は心の底から喜びたかったけど、グッと堪えて諸々の手続きを終わらせようと思った。
感動のハグはその後でもいいだろう。
僕はドアノブを捻り、ドアを開けた。
「そっちへ行くな!!」
「ダメ!!こっちに来て!!」
2人はえらい剣幕でそう叫ぶ。なんだ?ハグが先なのか?
僕の半身はもうドアの向こうに乗り出していた。
でもドアの方を向いた時もまだ、2人のあの剣幕が脳をよぎった。2人はずっと僕の背中に向かって叫んでいる。
「あぁもう。うるさいな」
そう言って僕は彼らの元へと向かった。
だけど今度は駅長の相良さんが僕を呼ぶ。
早く、書いてもらわないと困る、と。
それもそうだ、とは思ったけど、ここは感動のシーンなはずだ。生きてもう一度2人に会えた喜びまで邪魔される理由はないだろう。
そんな風に思って僕は相良さんの言葉を背中で受けて背中で返事をしたまま、彼らの方へと向かう足を止めなかった。
彼らのところに辿り着いた途端、2人して僕の腕を引っ張り、ドアの外へと誘ったのだった。
----------や!つや!哲也!!おいクソチビ!
わかりやすいストレートな悪口が聞こえた。
「うるせぇ!」
そう怒鳴り散らすと、そこには医者と、雄真と黛梨々花がいた。ここは、医務室…ん?
「哲也!!……良かった…良かったかな…目を覚ました…良かったよ…うっ、哲也ぁ…」
子供のように泣きじゃくる雄真。いや、さっきも話しただろう。
「丸3日。昏睡状態で目を覚まされなかったんです。友人のお二人の懸命な呼び掛けにあなたが答えたんです。今日たった今目を覚まされたんですよ。」
あの医務室のシーンは、僕の魂が三途の川を渡ろうとしていたのか。そのことに医者の言葉で気が付いた。
2人が懸命に僕を呼んでくれたからあの時僕は駅員室に行かず2人のところに駆け寄ることが出来た。おそらく、駅長について行ってたら、僕はこの世にはいなかった。あの世へ行ってだと言うことだろう。
「サジ…いや、哲也くん。ありがとう。本当にありがとう。」
黛梨々花だった。良かった。彼女も無事だった。
「あの時、間一髪、私を守ってくれた。」
--------
リリの名を叫んだはいいが、間に合わない気がした。
懸命に手を伸ばそうとしていたところに、リリも手を差し出してくれた。
咄嗟に僕はその手を握りしめ、思い切りこちらに引き寄せ、変わるように元リリがいた位置へと自分が向かった。
そして、本馬繁のナイフは僕の腹部に刺さった。
「このくらいにしてお…け。繁…。」
痛みに耐えながら繁を説得しようとした。
だけど…
「哲也ぁぁぁぁぁぁあ!!!」
その狂気に満ちた目は僕の知る、繁では無かった。
戻ってきてくれよ…繁…なぁ。
心の痛みと体の痛みと闘いながらこのモンスターをどうするか、考えていた。
「哲也!!くそっ…!!」
雄真の声だ。僕のことはいい、早く、早く繁を…!
と、目で訴えたそれを雄真は敏感に察知した。
雄真が何とか繁を羽交い締めにした時、周りにいた人達も、勇気を振り絞り、一斉に繁に飛びついた。
1人がナイフを奪い遠ざけることに成功した。
黛梨々花が僕のもとへ駆け寄ってくる。
「サジタリアス、ねぇ!!しっかりして!!」
その呼びかけに僕はうまく返事ができなかった。
その時また繁が叫ぶ。
「リリ!!そんな男に構うな!1番君を愛してるのはこの僕だ!!!」
もうこの世のものと思えないほどの狂気じみた笑顔の繁はあの頃の面影など残してはいなかった。
繁の方を強く睨みつけ、黛梨々花は言い放った。
「愛も恋も、一方通行でも成立すると思う。好きと言われて嫌な想いする人も少ないと思う。でも…人を傷付けてまで手にしたものは、きっと愛じゃない。」
黛梨々花の力強い言の葉が横浜の湿った空気を切り裂いた。
その途端、力が抜けた様に本馬繁は黙り込んだ。
遠くからサイレンの音が聴こえてくる。いや、すぐそこなのか?そこから僕は意識を失った。
---------
何事もなく日々が通り過ぎていけば、どれほど楽なのか。それをこの長い長い1日で痛感した。
いやむしろ、自分達が何気なく過ごしたと言うだけで目まぐるしく世界は変貌を遂げているのかもしれない。
刺されたとは言え、旧友に最後言葉をかけることもなく、彼は塀の向こうへ行ってしまう。
悪いことと認識している。それを許すつもりもない。
だがかけがえのない時間を過ごした人間が傍から消えてしまうのは、あまりに現実というのは残酷なものだ。
病院の屋上で生ぬるい風にあたりながら物思いに更けていた。
そんな折、屋上のドアが開く鈍い音が聞こえた。
振り向くと黛梨々花がこちらを向いて手を振っている。
そして僕の横に来た彼女は突然話し始めた。
「あのさ、5月の15日、池袋のカフェにいたよね?」
もう半月ほど前のこと。覚えてもいない。が、よく行くカフェが池袋にあるのは間違いない。
「多分あの時、私、見てるんだよね。あなたのこと。だから実は画面通す前から私達出逢っていたんだよ。サジタリアスさんは、会ったこと無いと思っていたみたいですが。」
まさか。そんな偶然あるものか?
否、どんなものも全て偶然なのかもしれない。
カフェで付近に座ってる別の客と、今後関わりがないということは、何も証明しようがない。同じタイミングでまた、同じカフェに行くかもしれない。
電車や駅、そう言った類も全て。少なからずその瞬間、同じ場所にいたわけだから。また同じ場所を利用する可能性など、いくらでもある。そう考えたら、偶然もまた自分のすぐそこにあるように思えたのだ。
「その偶然見かけた僕の友達が、偶然リリの配信を見てて?その配信に偶然、僕も行くようになって?ドラマの見過ぎだぞその展開!」
少し恥ずかしい気持ちを紛らわすように2人で笑い合った。
偶然の産物が、ここまで大きな事件をも巻き起こしている。人1人の、いや、2人、3人の人生が大きく狂うことにもなりかねなかった。
「結果として、しげるちゃんの偶然は、起きてほしくなかった偶然だったけど、こうやって守ってくれる人にも出会えていた。その偶然には感謝しないといけない。会ったこと無いって思ってた私を守ってくれてありがとう。」
少し目を潤ませて黛梨々花はそう言った。
「なによりもリリが助かって本当に良かったよ。身体張った甲斐があったわ。」
人生最大に格好つけたけど、本当に自分も含め無事で良かった。それに尽きる。僕は話を続けた。
「出逢い方なんでどうでもいいよ。もう出逢っちゃったんだから。少なからず画面通してでも時間を共有したんだ。僕の友達が迷惑をかけたことは謝っても許されないかもしれないけど、誰かのために命賭ける経験もそうそうないし、後悔もしてないよ。」
そう言い終えたあと、黛梨々花は喜んだような表情を見せた
。その笑顔を見るために刺されたと思えば痛みも消える。
さっきより少し冷えた風が2人を包んだ。
--------
陣内哲也の言葉が胸に響いた。
出逢い方なんてもう、気にしても仕方ない。
画面越しって言ってるけど、確かに、私たちを
隔てているのは、その画面かもしれない。
けど、それに対しての後ろめたさとか、そう言ったものが最終的には1番の隔たりだったのかもしれない。
人はイメージで決めつける。
あれはダメだ、これもダメだ。って。
そんなことに意味なんてあるのだろうか?
その先にあるものに辿り着こうとはしないのだろうか?
人と人とが距離を取る時代。心まで離れてしまうのだろうか?そうなったら、私はそれこそ人類も終わりだと思う。
自分の目の前にあるのは可能性だけだ。
その道を行く選択をすることに、怯えちゃいけない。
色んな人の人生が画面を通して交差している。
それだけでもすごいことなのに。会ったこと無いからって、遠ざけても仕方なかったのかもしれない。
もちろん、何が正解かわからない。でも、ライブ配信を始めたことに後悔など一切ない。
だって素敵な人にたくさん出逢ったから。
画面越しだけど、画面越しだからこそ、出逢えた。
配信を通さず日常を送っていたら出逢うことはなかっただろう。
その人達が私に続きの人生を与えてくれた。命懸けで。
誰かのために必死になることを教えてくれた。
そして、心の距離の意味を教えてくれた。
会ったことあるから無いから、じゃない。
どれだけの時間を共有してきたのかが大事なんだ。
しげるちゃんも本当はそれを伝えたかったのかな?
やり方を間違えただけなのかな?
そんな風に優しい考えには今なれないけど
そうやって許すことは愛なのかもしれない。
目の前で呑気に伸びをする陣内哲也。
駆け寄って、傷口あたりをさする。
「おい!やめろバカ!いてぇから!!」
この傷は残ってしまうかもしれないけど、私の心にも今日という日と、あなたの勇姿、ずっと残ってるよ。
なんて、恥ずかしいから言わないけれど。
陣内哲也の手を引いて、病室へと戻る。
私は怪我も大したこと無いからこのまま帰宅できる。
病室で西条雄真と3人でくだらない話をして盛り上がって、頃合いを見て私はまた明日来ることを告げて病室を後にした。
夕暮れの横浜の空のオレンジがとても美しい。
きっと、病室でサジタリアスさんは退屈だろうな。
家に帰ったら少しだけ配信をしよう。
画面越しの、素敵な出会いを信じて。
fin
どんな出逢い方をしたら、正しいと言ってもいいのだろうか?僕にはそれが全くわからない。逆を言えばらどれが間違いと言い切れるのかもわからない。なのに決めつけてダメと言い切るのは早計なのではないか。
どんなことも、「可能性」でしかない。否定をしてその道をぶった斬ればもう終わりだ。可能性の芽を自分でどんどんどんどん潰して、袋小路に追いやられる。
裾野を広げてみて視野を広く持って。世界の景色が変わるはずだ。この物語を読んでそれに気づいてくれたら是、幸い。