一話 ある冒険者の引退
王都の中心部にある、戦勝記念広場は、春の陽気に照らされていた。
白い大理石が敷き詰められた広場は、チリ一つ無く掃き清められており、中心にある広々とした噴水からは、常に清らかな水が湧き出している。
その中心には、背中の羽根を大きく広げた女神と、彼女に導かれるように立つ勇者の石像が建てられており、この王都のシンボルとなっている。
この大きな広場の周囲には、ぐるりと円を描くように石造りの建物が建ち並んでおり、その一つ一つがこの国に於ける重要な機関や商会となっている。
広場を見下ろす丘に建っている象徴としての王城を除けば、実質的な国の中心は、この広場にあると言えた。
広場の周りに建つ役所や商会には、人々がひっきりなしに出入りし、特に大きな商会には馬車が鈴なりで納品の順番待ちをしている。
その中でも、ひときわ大きく立派な石造りの建物の前に、二つの人影が見えた。
一人はどこの街にも居るような平服を着た男。
もう一人は、これもいかにも商人と言った格好の若い男だった。
「ハリソンさま。申し訳ありませんが、商会長、副会長とも本日所要で外出しておりまして、本日は戻らないそうです。」
いかにも商人と言った丁寧な態度で、若い男が申し訳なさそうに平服の男に頭を下げる。
「そうですか……。それでは、今まで本当にお世話になりましたと言っていた。と、お伝えください。」
冒険者を引退して、故郷に帰る日を明後日に控えていたハリソンは、大変な世話になった恩人のヨゼフ・ベルンハーストに、最後の挨拶をしようと商館を訪れていた。
今までにも何度か手紙を送ったり、訪れてはいたものの、中々都合が合わず、結局この時まで、商会長とは会えず終いだった。
応対に出た若い商人は、終始ハリソンに対して丁寧な態度で接してくれていた。
ただ、普段は商会の副支配人か、商会長自ら応対をしてくれていただけに、ハリソンは少なからず落胆を覚える。
役立たずの冒険者に割く時間は無いのか…と、落胆した気持ちのまま頭に浮かんだ言葉にハッとして、ハリソンは、自分の傲慢さに恥ずかしさを覚えた。
ベルンハースト商会は、この国が必要とする物資の半分を一手に担っている。
その忙しさは殺人的とも言え、働いている者は、常に時間との戦いを強いられる。
商会長自身もら分刻みのスケジュールで動いているなどと言われていた。
最近は依頼の受諾から完了や経過の報告まで、弟子のローガンに任せきりになっており、ハリソン自身と直接会わねばならない理由は無い。
今までが特別だっただけだと、ハリソンは頭を振って考えを改める。
「すみません。お忙しいところ、ありがとうございました。」
ハリソンは、頭を下げる若い商人に礼を述べると、商館を後にした。
*
まだ日が沈むには少しだけ早い。
時間の空いてしまったハリソンは、いつもの時間に間に合いそうだと気が付いた。
ハリソンは、もう一人、街を離れる前に、是が非でも会っておきたい人の顔を思い浮かべる。
そして、広場からつながる大通りを抜け、南側に位置する歓楽街へと足を早めた。
陽が落ちて来て、まだ日中の暖かさが残る空気を、夜の冷たい風が吹き流し始めていた。
王都の中心を南北に走る大通りは、人々の喧騒と、店や露店から漂う雑多な香りに溢れており、ハリソンはその光景を目に焼き付ける。
明日は十五時からローガンたちが身内を集めた送別会を開いてくれる事になっていた。
この夕暮れ時の王都の見るのは、これで最後かも知れないと思うと、どうしても寂しさを拭いきる事は出来なかった。
今年、三十六になったハリソンは、それなりに名前が売れている冒険者の一人だった。
ダンジョンの攻略を完遂したり、伝説級の魔物を討伐したりと言った、華々しい活躍こそ無かったものの、その堅実な仕事ぶりは、依頼者から絶大な信頼を得ている。
何より、彼が今まで誰一人としてパーティーメンバーを喪った事がない事は、冒険者の中でも特に評価が高かった。
ハリソンは、仕事を終えて家や酒場へと向かう人の波に流されるように歩く。
普段の鎧姿ではなく、平服を着たハリソンに気がつく者は誰もいない。
夕日に照らされ、金色に輝き出す王都の姿は、吟遊詩人が唄にするほどに美しい。
今まで何度も見てきたこの光景も、これで見納めかと思うと胸が締め付けられるような思いだった。
このまま街に居ても良いではないかと、何度も繰り返し考えた、引退して故郷に帰るという結論が、揺らぎそうになる。
ハリソンは、未練がましいとは思いながらも、引退を考える事になったきっかけから、もう一度だけ考えなおす事にした。
*
一ヶ月半ほど前、ハリソンのパーティーは、鍛練と実益を兼ねて、王都の北西にある、洞窟型のダンジョンへと来ていた。
このダンジョンに出現する魔物は、鉄等級の冒険者なら難なく倒せるものばかりだ。
ただ、その素材の需要が高いものが多く、また、その広大さゆえに他の冒険者とかち合ってしまう事も少ないため、腕試しの銅等級だけではなく、銀等級の冒険者たちにも良く使う者たちが居た。
魔物から採れるのは、魔力の結晶である魔石だけではない。その皮革や牙や爪、肉や骨に到るまで、人々の生活には欠かせないものだ。
今回は、道具屋から近々大規模な需要があると噂を聞いていたバジリスクの皮と毒腺の収集を第一の目的、また、魔法攻撃を使う魔物に対する、連携の確認が第二の目的としていた。
パーティーメンバーは、槍兵のカールに弓兵のリン、魔術師兼治療師のミリヤ、そして銀等級に昇格したばかりの、ハリソンの弟子である剣士のローガンである。
皆二十代そこそこの若者ばかりで、皆、ローガンがその実力を買って、仲間とした者たちだ。
ハリソンはこのパーティーで防御役を買って出ていた。
冒険者のパーティと言うものは、ずっと同じメンバーであるのは難しい。
怪我や結婚、家族との約束といった理由で居なくなり、徐々に若者へと代わって行く。
ハリソンのパーティとて、それは例外ではなかった。
パーティーの初期メンバーのうち、最後に残っていた弓兵のサントスが、田舎の老いた両親の面倒を見ると二年前に引退した後は、ハリソンが唯一の年長者となっていた。
*
ダンジョンに潜り、ハリソンたちの前にバジリスクが出現したが、あっと言う間に戦闘は終わる。
そして、倒れ伏すバジリスクからは瘴気が溢れ始めていた。
「各自、索敵と外傷の確認! 」
指揮を取るローガンから檄が飛ぶ。
戦闘終了後に、必ず行うルーティンで、素材の剥ぎ取り中を狙う魔物への警戒と、戦闘の興奮で気が付かなかった外傷を、手遅れになる前に発見する意味があった。
「すまない……ローガン。負傷一名だ。」
「誰だ!? 師匠はポーションの準備をお願いします! 」
ダンジョンの暗闇に響いたハリソンの声に、ローガンはハリソン以外の三人のメンバーを見渡す。
まさか、こんなモンスター相手に遅れを取る者が居るとは、思っても居なかった。
だが、誰もが自分では無いと顔を見合せていた。
「負傷者は……俺だよ。」
「え……っ……。」
自分の師匠であるハリソンが、下級ランクの冒険者でも倒せるレベルの魔物である、バジリスクに遅れを取ったことを、ローガンは一瞬理解が出来なかった。
「みんな……。本当にすまない。」
残念そうな表情を浮かべるメンバーたちに、ハリソンが謝る。
「……まさか……師匠、冗談だよな? 」
「冗談なんかじゃない。見ろ。」
「…………。」
ハリソンの左腕には、ぱっくりと傷口が開いてしまっていた。
手持ちの上級ポーションを使えば、痕も残さず治す事が出来る。
ただ、今回は数を狩るつもりでいたので、出来るだけ荷物を少なくしていた。
そのため、ダンジョンに潜る際に決めてある、ポーションがパーティーの人数の三倍の数以下になった場合には即時撤退と言う、ハリソンが決めたルールに抵触してしまったのだ。
「まず、師匠は治療を……。皆は撤退の準備だ。」
これで良いよなと目を向けるローガンに、ハリソンは、ポーションを傷口に掛けながら、ゆっくりと頷いた。
まだもうちょっと行ける。そう思って二度と帰らなかったパーティは、枚挙に暇がない。
冒険者史上最強と言われたパーティが、慢心と油断からポーション切れを起こし、ダンジョンで全滅した事件は、ギルドや酒場で何度となく聞かさされる話だ。
ハリソンは、暗い顔のまま、倒したバジリスクの素材を剥ぎ取りに向かった。
「なあ、今日はどうしちまったんだよ。師匠。」
街に帰り、マッコイの酒場で全員で食事を摂った後、いつもの反省会が終わり、皆がそれぞれねぐらに戻った後、ローガンがハリソンに尋ねて来た。
「……いい加減、その師匠っての止めろ。もうお前の方が強いだろう。」
「俺にとっちゃ師匠は師匠だ。それ意外の何でもないよ。それに師匠って呼べって言ったの自分じゃんか。」
「それは俺の事をオッサンなんて言うからだぞ? あの時なんて、今のお前と変わらない歳だったってのに。」
「……話をはぐらかさないでくれよ。今日はどうしたんだよ。あんな大トカゲなんて、普段なら楽勝だろ? 」
おどけて見せるハリソンを、ローガンの青い目がしっかりと見つめる。
「……相手の攻撃も見えてた。反応も悪くなかった。……ただ、身体が付いて来てくれなかった。それだけだよ。」
「そっ……か……。師匠は体調でも悪かったんだよな? 」
「……そういう事じゃない。」
それ以降、ふっつりと会話は途切れた。
その後、ハリソンが、一週間ほど狩りには参加をしない事を決めて、会はお開きとなった。
*
ハリソンが引退を決めたのは、それから間もなくだった。
自分の能力が既にピークを過ぎ、後はゆっくりと衰えて行くだけな事を、ハリソン自らが認めてしまったからだ。
もし、自分が冒険者を続けるとしたら、今のパーティーメンバーは、彼を見放す事は考えられない。
そうなれば、まだまだ成長に衰えは見えず、いずれ一角の冒険者になるであろうローガンたちの足を、衰えたハリソンが、近い将来引っ張ってしまう。
だからこそ、ハリソンは身を引くようなつもりで引退を決めたのだ。
「そう…。だからこそ、俺はこの街を離れなきゃならない。」
ギルドやパーティメンバーだけではなく、依頼主である商会や貴族からも引き留められたが、ハリソンの決意は固かった。
引き留めようとした者も、思い詰めた表情ではなく、どこか晴れ晴れとしたハリソンを見て、説得を諦めたのだった。
全てを振り返り、自分の結論が変わらなかった事に、ハリソンは、安堵のため息を漏らした。
*
雑多な人々の喧騒に、ハリソンはふと我にかえる。
思い出に浸っているうちに、彼は東西大通りにある歓楽街の入り口へと、たどり着いていた。
ハリソンは、彼女…サンドラの顔を思い浮かべる。
こうして悩み事や、辛い事があった時には、いつも彼女が話を聞いてくれていた。
だからこそ、彼女の声を聞きたかったが、この一ヶ月と言うもの、会えず仕舞いでいた。
その店は、酒場や娼館が立ち並ぶ、王都の歓楽街の外れにある。
人がすれ違うのもやっとの狭い道を抜け、袋小路の突き当たりに、その扉が見えて来た。
ハリソンも、初めての時は、どうやってここにたどり着いたのか覚えていない。
たしか、酒場で意気投合した、名前も知らない商人に、美味い酒が飲みたいならと言って教えてもらった覚えがある。
ただ、その記憶は朧げで、本当にそんな事があったかすら怪しい。
なにより、その商人に礼を言おうと手を尽くして探しても、そんな商人を見たことがあるものは何処にも居なかった。
ハリソンはいつものように、音もなく開く分厚い木の扉を押し開ける。
「いらっしゃい。」
ドアが開いたのをどこで気がついたのか、カウンターの奥にいたバーテンが声を掛けて来る。
この店は、若い女のバーテンダーが一人で切り盛りをしている。
どこから集めて来るのかは解らないが、世界中の旨い酒がところ狭しとカウンターに並べられており、そんな酒を静かに楽しむ。そんな店だった。
いくら治安が良い王都だとは言え、女性が一人で酒場を開いているのは、ずいぶん無用心だとハリソンも思った事はある。
だが、酔っぱらいがここまで来る事はまず稀で、たまに迷いこんできた者が居たとしても、暗い店内のどこかから人が立ち上がり、招かれざる客をつまみ出す。
テーブルに立てられた燭台のキャンドルに照らされた、客たちのその横顔は、有力な貴族であったり、高名な剣士であったり、はたまた暗黒街の顔役だと噂される男だったりした。
ハリソンも一度だけ酔ってマスターに絡む男を店の外に送り出した事があった。
その若い冒険者は、ハリソンの顔に気がついただけで震えあがり、二度とこの店に近寄る事は無かった。
そうしてこの店は、いつもと同じ、グラスが触れあう音と、小さな囁き声だけが聞こえる静かな空間へと戻る。
今日も何人かの客が居るようだったが、薄暗い店内ではその顔は良く見えず、テーブルの向こうから、低い話し声と、静かにグラスが触れあう音がするのみだった。
そこだけ仄かに明るくなっているカウンターの向こうで、バーテンがグラスを拭きながら視線を店の奥へと向けた。
その視線の先、カウンターの一番奥、いつもの場所に彼女は居た。
どうやら帰り支度でもしているのか、ちょうどバッグを肩に掛けようとしていた。
バーテンの視線を感じたのか、その影がハリソンへと振り返った。
「あら、ハリソンさん。久しぶり。」
彼女の顔が、明るくほころぶ。
ハリソンは、この一ヶ月と言うもの、全く聞く事が出来なかった声に、胸が高鳴るのを感じていた。
狭い店内に置かれたテーブルの間を、縫うように歩いて、その影の傍へと向かう。
「やあ。サンドラさん。ずっと姿を見なかったけど忙しかったのかい? 」
「そうね、ちょっとバタバタしてたから……。陽が落ちてもみえられないから、今日は来られない日なのかと思って、もう帰ろうかと思ってたところ。良かった。やっぱりタイミングが良いね。私たち。」
カウンターの奥から、ゆらゆらと店内を照らす蝋燭の灯りに、彼女の笑顔が照らされる。
歳の頃はハリソンよりも少し下くらい。背中まである髪が、蝋燭の淡い光にキラキラと輝き、強い意思を秘めた切れ長の目が、真っ直ぐにハリソンを見つめていた。
「もう帰りかい? 君に話したい事があるんだ。この後、ちょっと時間をもらえないかな? 」
「……わたしも……あなたに伝えたい事があるから……。あまり遅くならないなら大丈夫。」
「助かったよ。ありがとう。」
ハリソンは、柔らかく微笑む彼女の言葉に、胸に手を当てて頭を下げ、最大限の謝意を示す。
「どうしたの? そんなに大げさな……。また何か失敗でもしちゃった? 」
「いや…違うんだ…。良かったよ。ずっと君に会いたかったんだ。」
サンドラのいつもと変わらない微笑みを見て、ハリソンは自分の心の支えが溶けて行くのを感じていた。