笑え、私の小宇宙
長い雨が降っていた。数年後には火星への移住が始まるというこの地球で、三人は地球に「忘れ物」をしようと企んでいた。
三人は小説家だった。私と、彼と、彼女の三人。彼と彼女はそれぞれ既婚者で、当然、移住は人類にとって価値の大きいものからだ。未婚の小説家などという私は、凡そ数年遅れで飛ぶことになるだろう。その間に地球が滅びようと、政府は知ったことではない。移住計画に乗り出すのが、遅すぎたのだ。
「君は何を残すんだ」
彼は問う。私は首を振る。言うまでもないことであり、彼もまた、聞くまでもなかったと首を振る。彼女が首を振って、私の手元を指す。
「本、だよね」
灰の積もった地面は、足跡を残さない。風の一つで全てを消してしまう。私たちは灰と風の世界に生きている。その中の小説というのは、周囲から奇怪な目を集めるだけの、非生産族の末路であった。
強い風が吹いた。マスクを外していた私は、大きく咳き込んだ。手元を離れた本が、灰に落ちた。
本は風に流され、ページを一枚ずつ進める。その本は、こんな風に書かれていた。
星の綺麗な夜だった。雨で灰が流れた後の街は、足元がぬかるむ。ゴム靴の底は灰が固まってしまっていて、今更歩きやすいなどということはない。
私たちは三人で星を見に来ていた。月は建造物に埋め尽くされ、夜空にぽっかりと黒い穴を空けている。
「実は、この地球にね、本を残そうと思うんだ」
「残す? 持って行かないの?」
彼と、彼女が話をする中、私は第二の母星を探す。水の星と呼ばれるその星は、弱々しい光を届けていた。
火星、それがその星の名前だ。火の星と書いて水の星とは何とも不格好ではあるのだが、元々は水などない星であったというから納得できないことはない。
「持って行ったところで捨てられるだけさ。だったらいっそ、この星に埋めたいんだ」
「へえ。じゃあ、私も。あなたもどう?」
「え、ああ、ごめん聞いてなかった」
星に目を奪われていた私は、咄嗟に声を掛けられて焦った。焦ったあまり、ぬかるみを踏んでしまい、尻から地面に落ちる。
「何やってんの、ほら」
彼女に手を引かれて立つと、彼女の持つ本に気付く。
「その本は……?」
「本当に聞いてなかったんだね。これを残そうと思うの、地球に」
馬鹿げている、と思った。私たちは小説家だ。小説家の本望とは、自らの死後に作品が残されることだと、そう語り合った過去もあるというのに、どうしてそんなことを考えたのだろうか。私は激昂し、糾弾し始めた。
「地球は消えるんだ。君は自分の作品を死なせるのか」
「違う、そうじゃない。君は火星でも小説を読む人間がいると思うか。不要物とされて燃やされるに決まっている。時世を顧みぬものは愚かだとは、君の書いたことではないか」
「そうだ、そうだとも。それが愚かだと言っているのだ。火星では小説が不要? そんなはずがない。むしろ必要とさせるのが私たちの使命ではないか。君たちはあまりに自棄だ」
「やめてよ二人とも、喧嘩なんて何の意味もないわ」
私たちを抑える彼女の、その手に抱えられた本が落ちる。
乾いた土の上で、一筋の風が本を捲る。その本は三人が、灰に埋もれるその寸前まで書き続けた、地球の物語だった。