アニマと英雄
男が立つ高架下には愛想がなかつた。ただ生えた草、水の跡が残るコンクリート、掠れた標識と錆びて真つ赤になつたミラー、そのどれもに異邦人と呼ばれてゐる。男には異邦人の自覚があつた。誰かに呼ばれるまでもなく、彼は異邦人だつた。それは悲観的な自覚ではなく、むしろ静かな喧騒といつたふうな心の声だつた。
表示の掠れた道路に地響きが滑り、頭上を喧騒が走つた。男が顔を上げると、線路脇に女が立つてゐる。女の顔は逆光になつて見えなかつた。長い髪が顔のほとんどを覆つてゐるやうだつた。白黒写真のやうに、異様なほど、白い肌をしてゐた。逆光のせいか、あまりにも髪が黒ぐろとしてゐた。しかし、男は不思議とその女が怖くなかつた。むしろ、長年の知り合いに出会つたやうな心持で、やあと声さへかけ度くなつたほどだ。女は黙つて俯いてゐた。彼が高架下に立つてゐるせいで、彼は危く、自分が女に見つめられてゐるかのやうに錯覚しさうになつた。女の顔は逆光になつてゐたから、何かを見つめてゐるのかすら分からなかつた。男は女の見るものが何なのか知り度くなつた。
女の立つたところの真下まで近づいていつて、男はもう一度女を見上げた。やはり逆光になつてゐて、顔は見えなかつた。ただ、心なしか顔がさらに下を向ひてゐるやうに思つた。女がやはり見つめてくるやうな錯覚が起こりさうだつた。男の仰向けた顎先を水が滴り落ちた。彼には直感的にそれが塩だと思はれた。はじめ、女が泣き出したのかと思つた。しかしそれは違つた。顔も見えないのにどうしてさう思ふのかは分からなかつたが、男には女が泣いてゐるわけではないのが分かつた。その水は女の長い髪の先から滴り落ちてくるのだつた。ぽた、ぽたと落ちてくる水から、潮の香りがした。
男が腕を広げると、女は吸ひ込まれたやうに高架から落ちてきた。その冷たいからだを抱き止めたとき、男は自分が死んだことを感じた。抱き止めたはずの女は消え去り、水の滴る腕の中から潮の香りがした。
道路に地響きが滑り、頭上を喧騒が走つて行く。男は、異邦人のゐない高架下に奇蹟が満ちるのを感じながら、電車の走り去る音を聞いてゐた。
今心理学を勉強中なのでね……