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黄色と黒の張り巡らされたテープに、とりつく少女の姿があった。高校生くらいの少女は警官を押しながら、岡崎の家に入ろうと叫ぶ。
「ここで何があったんですか! 詩織は無事なんですか!」
「部外者は立ち入らないでください」
警官が冷たくあしらおうとするが、少女はテープをくぐって先に進もうとする。それを警官は必死に止めようと腕を捕まえる。
「私は詩織の友達なんです! 中に入れてください!」
「友達でも部外者は入れませんから! 規則ですから!」
駆け付けた警官に羽交い絞めにされた状態で、なおも少女はもがく。周りから寄ってきた警官たちが、少女を道路へと押し返した。
「詩織! 無事だよね! 大丈夫なんだよね! 大丈夫なんだったら返事してよ! ねえ詩織ってば!」
ヒステリックに泣き叫ぶ。岡崎詩織は死んでいるという、残酷な真実を知らずに。きっと、何かあっても岡崎なら無事なはずだという確証も何もない希望を胸に。
けれど、回り続ける時計が電池切れで止まるように、何であろうと必ず終わりは訪れる。それはそう、唐突に、そして残酷に。不意に中から発せられたその一言が、薄っぺらな希望をいとも簡単に打ち砕いた。
「遺体搬入します。道を開けてください」
それを聞いた瞬間、少女は倒れ伏してしまった。足の先から力が抜けるように、路上に崩れさる。冷たく体を冷やすアスファルトに、温かい雫が染みを作った。
「詩織、ねえ、嘘だよね! 嘘だと言ってよね! ねえ詩織ってば!」
少女は泣き叫ぶ。けれど、灰色の袋に包まれた岡崎の遺体は何も語らない。何かを思うこともなく、ただ、司法解剖のために、事件解明の手掛かりのためだけに、無音で車の中へと吸い込まれていくだけだ。
「なんで、ねえ! なんでなの!」
詩織が、死んだ。昨日まで、いや、今日の学校の帰りまで元気にピンピンしていた、詩織が死んだ。ついさっきまで、Twitterをしていたはずの詩織が死んだ。また明日学校で、そう言っていつも通り別れた詩織が死んだ。この時間、詩織の家には詩織しかいない。でも、それはその時点では思い込みでしかなかったけれど、そう思うと、少女はいてもたってもいられなくなった。何とも言えない哀しさが、胃の底からせりあがってくる。親友が死んだ。その事実を受け入れられなくなって、受け入れたくなくて、少女は逃げ出した。ただ、ひたすらに、どこへとも当てなく。
「あ、ちょっと、君!」
警官たちの制止を振り切って走る。場所なんてどこでもよかった。いや、どこでもだめだった。ただ、ここにいたくなくて、いられなくて、少女は逃げ出した。
涙の跡が街灯に照らされて反射していた。
結局、少女が辿り着いたのは、かつて坂井や岡崎とともによく遊んだ公園だった。けれど、岡崎はもういない。坂井も、岡崎を殺したと自首している。四台あるうちのブランコの右から三台目の一台が、力なく揺れていた。
ざっざっという音と共に、街灯の影から影が揺らめく。二人組の刑事たちは、力なく項垂れていた少女の下へと歩み寄っていった。
「警察の滝川です」
「同じく青木です」
滝川紀通は五十路を過ぎたくらいのベテラン刑事だった。頭頂部が禿げ上がり、少し気弱そうな背の小さな男性だ。それに対して青木瑞希は、刑事としては珍しく女性で、しかも二十代くらいの若手だった。身長は高めで、穏やかそうな美人に見える。
警察手帳をかざす刑事たちに一瞥をかざすと、少女はか細い声で呟いた。
「……帰ってください」
「松崎恵理子さんですね」
「帰ってください。何も話したくありません」
松崎と呼ばれた少女は、刑事たちを拒絶する。自分の内側に引きこもるように。
「少々お話を伺いたいことが……」
「帰ってくださいって言ってるじゃないですか!」
うるさいとでも言うかのように松崎は叫ぶ。刑事たちを見上げた顔には、泣きはらした跡が残っていた。いや、今も泣いていた。涙を流しながら、松崎はその声を張り上げる。
「いや、こちらとしても、岡崎詩織さんの件でお話が……」
「じゃあ、聞きます! 詩織は死んだんですか! 殺されたんですか! だったらなんで! 誰が殺したんですか! 私にだって聞く権利くらいあるでしょ!」
胸ぐらを掴んで松崎が叫ぶ。自棄になったその赤い眼に、滝川は圧倒されていた。
「教えてくださいよ! そっちが聞くんだったら私だって聞いたっていいでしょ! ねえ、なんで! なんで詩織は死ななきゃならなかったんですか! っていうか詩織は本当に死んだんですか! それともほかの人なんですか!」
「そ、それは守秘義務が……」
泣きわめく松崎に、困惑したように滝川が言う。
「滝川さん、どうせ報道されるんだから話してもいいんじゃないですか」
「そうは言ってもなあ……」
「お願いしますよ! 教えてくださいよ!」
困惑する滝川に青木と松崎から追撃がかかる。
「わかった、わかったから、手を放してくれ」
言われてやっと松崎は手を放す。いつの間にか滝川の体が数センチ程、浮き上がっていた。
「といっても、俺も大したことは知らん。それでよければだが」
「構いません! 教えてください!」
必死の形相で滝川をにらむ松崎の姿は、滝川にある種の恐怖を覚えさせた。
「まず、亡くなったのは、君の言う詩織さんだ。岡崎詩織、十六歳。君とは学校の同級生、という認識でいいのかな?」
「そう、ですか……」
それを聞いた瞬間、松崎は砂利の上にへたり込む。それを慌てて青木が支えた。
予想していたこととはいえ、岡崎の死は、松崎にとってとてもショックだった。あの時間、家には岡崎詩織一人だったとはいえ、そうじゃないかもという淡い希望を抱いていた。けれどそれは、今この瞬間、砂の塔のように脆く崩れ去っていった。
どこか、浮世離れした感じがした。詩織が死んでしまったというのが、自分のいない、どこか遠い世界の出来事のような、そんな感覚を松崎は覚えた。けれども、そんなことはなく、詩織は、岡崎詩織という人間は死んだのだ。松崎の親友の詩織は、もう戻ってこない。あの笑顔を再び松崎に見せることも、勉強を教えてくれることもない。それを、松崎はようやく理解した。けれども心はまだどこか、宙ぶらりんで流されていきそうだった。
「それで、容疑者だが、実は自首をしている。隣の家に住む、坂井智弘という少年なんだが」
「智弘が!」
驚いて松崎は顔を上げる。近くにいた青木が思わず耳をふさいだ。
「君は、坂井君を知ってるのかね?」
「ええ、まあ、一応」
苦々しげに松崎が吐き捨てる。
「坂井君とはどんな関係に?」
「あいつのことは聞かないでください!」
またしても松崎が叫ぶ。恐る恐る耳から手を放そうとした青木がまた縮こまった。
「もうあいつとは、知り合いでも何でもありませんから」
何かを隠すかのように、松崎は吐き捨てた。もう、智弘との過去は捨てたはずだったのに。あいつになんて関わりたくなかったのに。そんな思いがにじみ出ていた。
「えー、じゃあ、三つ目の答えだが、動機は不明だ。坂井は何も話してなかった。もっとも、これは俺たちが署を出た時点だから変わってるかもしれないがな」
「そんな……」
そう呟くと、松崎はよろよろとした足取りで立ち上がった。そのまま公園を去っていこうとする。
「恵理子ちゃん!」
呼び止めた青木に、松崎は力なさそうに吐き捨てる。
「なんですか」
「あの、詩織ちゃんのことを教えて欲しいの。どういう性格だったとか、周りからの評価とか」
「そんなの、他の誰かに聞けばいいじゃないですか」
そう言って、松崎は生気のない顔で振り返ることなく吐き捨てる。
「でも、恵理子ちゃんの近所に住んでたんだよね? それに、仲もよかったんでしょ? そんな恵理子ちゃんから話を聞きたいの! お願い!」
そう言って青木は松崎の正面から両肩をつかんで泣き落としにかかる。
「誰から聞いても同じですよ、そんなの」
「でも、お願い! 私たち話したじゃん、事件のこと。ちゃんと、君から、恵理子ちゃんから見た詩織ちゃんのことを教えてほしいの。お願いだから」
その押し問答は、公園の時計の針が十二の位置で重なるまで続いた。
「詩織は、とってもいい子でした」
日付が変わった直後、ブランコには揺れる三人の人影があった。一人は力なく項垂れ、一人はただ座っているだけで、もう一人は呑気そうに座ったまま足をぷらぷらさせていた。決して、何も考えずにブランコを漕いでいたわけではなかったが。
「ほんとに気立てのいい子で、勉強もできて、スポーツもできて、ピアノも上手くて、性格も……」
なんでだろう。なぜか知らないけれど涙が流れてくる。なんでなの、さっき、詩織はもういないんだってちゃんと理解してたはずなのに。なんでこんなにも悲しい気持ちでいっぱいになるの。ねえ、なんで!
心の中で松崎は叫ぶ。自身の抑えきれない衝動があふれ出して、涙となって頬を伝った。
「いいよ、無理しなくていい。そんなに頑張らなくていいからさ。ゆっくりでいいよ」
「は、はい」
青木が優しく声をかける。泣きじゃくる松崎は、零れる器の中から言葉を紡ぎだすように、ゆっくりと、しゃべり始める。
「詩織は、みんなから、好かれてました。決して、自分ができることを、威張ることもなく、驕るでもなく、みんなから信頼されて、期待されて、なのに、なのに」
とめどなく流れる涙が松崎の首筋を伝い、服に浸み込んでいく。十月の怜悧な風が、コートを揺らめかす。
「詩織は、すごい子でした。天才でした。みんなの期待を一身に受けて、それを決して裏切らずに、すごくいい子で、いつも明るくて」
青木が足の動きを止める。慣性で少しの間だけ、ブランコが無情に揺れていた。
「完璧な、私の親友でした」
「そっか」
ブランコから飛び降りて青木が言う。
「私たちにはあなたの悲しみはわからない。それは、詩織ちゃんの親友だったあなたにしかわからないと思う。でも、私たちは、あなたの傍にいることはできる。だから、辛い時、苦しい時は私たちに声をかけてね。いつでも相手になるからさ」
そう言って、青木はメールアドレス付きの名刺を松崎に渡した。松崎はそれをコートのポケットに入れて、涙を袖で拭う。既にコートの袖の色は変わっていた。
「智弘君のことは話したくないんだよね」
「ええ、あいつのことは、もう、話したくないです」
消え入りそうな声で松崎が言う。そんな松崎を、青木はそっと抱きしめた。
「大丈夫、辛いなら、話さなくていいから。智弘君のことは聞かないから、話しても大丈夫になったら、私に教えて。ね?」
青木の腕の中で、松崎が小さく頷いた。青白い十五夜の光が、涙の跡を照らしていた。