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その少年が警察署内にやってきたのは、十月二十五日木曜日の、午後十時半を少し回ったくらいのことだった。よろよろとした足取りで、青白い顔をしながら、倒れ込むようにその少年、坂井智弘はやってきた。Tシャツ一枚という見るからに寒そうな格好で、病人のようにやってくるその様は、裏口近くにいた警察署の職員たちを驚かせるに足る光景だった。そして、坂井は中に入ってくるなり、倒れこむようにしていきなり告げたのだった。
「人を、人を殺しました。俺を、俺を捕まえてください」
坂井はその場で取調室に連行された。手錠をかける際も、刑事たちに抵抗一つしなかった。むしろ本人の震えの方が心配になるくらいだった。
警察は、坂井の供述から、現場と思われる建物、坂井の隣の一軒家へと刑事たちを向かわせた。竹内時康も、そんな中の刑事の内の一人だった。
年齢は三十代半ば。妻子はおらず、ずっと独身、警官一筋を貫いてきた。その風貌はところどころに若さが見え隠れしてはいたものの、それはほんの一部であって、実年齢よりも上に見られることの方が多かった。苦労してきたらしきしわがや白髪があちこちに見受けられることもその原因の一つだろう。
さっきまで暗かった家が、警察のスポットライトによって明るく照らされる。その光景は、周囲の家からもはっきりとわかるほど、異質な光景だった。そもそも、午後十一時前に、家の全ての明かりがついている方がおかしいのだ。さらには、その近くにはスポットライトと、赤い回転灯を点灯させたパトカーが止まっている。誰がどう見てもここで何かが起こったのは明らかだった。
竹内は現場に先についていた警官とあいさつを交わし、岡崎と表札に記された家の中へと入っていく。その前には、他の同僚の刑事たちの姿があった。
「こちらです」
そう制服警官に案内されて着いたリビングキッチンに、その少女は倒れていた。見るからに痛々しそうに包丁が胸に突き刺さり、口の端から血がこぼれ出ている。白い余所行きのようなきれいな洋服に赤黒い血がしみ込んでこびりつき、見るも無残だ。同僚の刑事たちとともに、竹内は少女に向かって合掌する。まだ、十代の幼い少女の遺体だ。これから、友達といろんなことをして遊んだり、仕事をしたり、恋をしたり。いろんなことをして生きていくはずだったのだろう。けれど、ここで少女は冷たくなってしまっていた。
「被害者は?」
「この家に住む娘の岡崎詩織さん、十六歳です。都立芳風高校の二年生です」
「死因は?」
「胸を一突きされたことによる、失血死ですね。今のところ、死亡推定時刻は今日の午後十時前後と推定されます」
「了解した。遺体を運び出してくれ」
鑑識と同僚の刑事との会話を耳に入れながら竹内は思う。いつだって、誰かの遺体を見るというのは心苦しいものだ。殺人なんかの事件では特に。さらに言えば、岡崎のような、まだ年端も行かない将来ある若者の遺体が見つかるのは途轍もなく哀しい。なぜ、少女は死ななければならなかったのかと思ってしまう。こうして血を流して倒れてしまったのかと思ってしまう。
いつだって警察は後手だ。殺人事件を防ぐことはできない。それはもちろん、パトロールや啓発イベント、さらには、犯罪者を捕まえることで見せしめにする意味もある。けれど、そんなことを行っていても、個々の事件に関係できるはずがない。それを未然に防ぐなんてなおさらのことだ。警察にできることは犯罪者を捕まえるだけ。事件が起こる前は警察は無力だ。それを、竹内はよく理解していた。
けれど、よく理解していても竹内は思うのだ。どうして防げなかったのかと。どうして、少女の周囲を取り巻く殺意に、誰もが気づいてあげられなかったのかと。言い方は悪いが、被害者の因果応報のようなケースだってある。だけれども、何の罪もない、まだ十六歳の少女が、こんな形で殺されるなんて、あっていいはずがないと。どうして起こってしまったのだと、竹内は哀しい気持ちに囚われてしまうのだった。
それは、刑事としては必要なことなのかもしれない。きっと、犯人を追いかける刑事にとって被害者の怒りや、悲しみ、そんなものを糧にして捜査をするのだ。いたいけな少女の命を奪った犯人を許さない、そんな復讐のような、あるいは義憤のような気持ちがモチベーションには必要なのだろう。けれど、それでいて、怒りに身を任せすぎてもいけないのである。きっと、竹内の同僚で一番の友人の鈴木忠紀に話しかけたならこう言っただろう。人の死を割り切って生きていけなければ、刑事としてはやっていけないと。竹内も、理性ではそれが正しいことだと理解している。でも、感情として割り切ることは難しいのだった。そして、竹内はどうしても、被害者の哀しみから逃げられないのだった。
「おい、竹内、行くぞ」
鈴木の声に連れられて、竹内はしぶしぶ岡崎家を後にしていく。胸にぽっかりと哀しみの穴をあけたまま。警察官たちも、現場に誰も立ち入らないよう、見張りの警官二人だけを残して、岡崎家を立ち去って行った。
後には、白くかたどられたロープと、赤い血痕と、黒のナンバーだけが取り残されていた。