29
「……嘘、でしょ?」
竹内の読み上げた手紙を聞いて松崎が漏らす。けれど、そこには否定する人は誰もいなかった。竹内が坂井へのメッセージを読み上げる。その低い声が小さなつぶやきをかき消すような気がした。
「嘘だ!」
そう一声叫んで、松崎は取調室を飛び出した。どこへ行く当てもなく、警察署を抜け出して、ここじゃないどこか、自分がいないどこかへと逃げ出そうと、扉を思い切り開いて飛び出す。その横にいた青木には目もくれずに。
「あ、ちょっと! 恵理子ちゃん!」
慌てて青木はどこかへ行こうとする松崎を追いかけた。
青木が荒い息を弾ませる。市中をめちゃくちゃに走り回って、息が上がっていた。どこへ行くのかもわからぬまま、右に左に東に西に、行ったり来たりを繰り返してただ無意味に青木を疲れさせた。ペース配分が無茶苦茶で、青木は息が上がっていた。
結局、松崎の足が止まったのは昔三人でよく遊んだ公園だった。息も絶え絶えに、右から三番目のブランコに座り込む。それを、青木は声をかけるべきか、それともそっとしておくべきか迷い続けていた。一人ぼっちで白い息を吐きながら憂い顔で何かをつぶやく。そんな様子を見て、青木はそっとしておくことにした。
「ねえ」
白い息を吐きながら左手で錆びついたブランコをつかむ。一度汗で滑って、少し擦れた痛みが走ったが気にならなかった。息を整えて、上を向く。星はあまり見えなかった。光ったと思ったが、それはどうやら飛行機らしい。
「私たち、どこからおかしくなっちゃったんだろう」
答えのない問いを夜空に放つ。もうだいぶ空気が冷えてきて、冷たい風が頬に当たる。どうして死んでしまったのだろう。死ぬことを選ばなきゃならなかったんだろう。私に相談してくれなかったんだろう。そんな思いを込めて空に放つ。
「ねえ、詩織」
自分の吐き出したい気が白く上に上って消えていく。夜空に詩織の笑顔が見えた気がした。笑って、笑顔で手を振っているような、そんな気がした。
『きっと、近すぎて、遠すぎたんだよ』
はっとした。詩織の声が聞こえた。そう思って夜空を見渡す。けれど、見ていたのは十六夜だけだった。気落ちして、下を向こうとした松崎にまた幻聴が聞こえる。
『私と親友でいてくれてありがとう』
そんな声が聞こえた。うれしいと思う。でも、相手に頼っていたのは詩織だけじゃなくて、私もそうなんだ。私だって、詩織に頼ってた。ずっと、そばにいて詩織に助けられていた。だからこそ、もっと頼って欲しかった。もっと私に話をしてほしかった。
『あなたには心配してほしくなかった』
知ってる。よく知ってる。でも、私は心配だったのに。もっと、教えてほしかったのに。教えてくれればいくらでも力になれたのに。それなのに、どうしてあなたは逝ってしまったの。どうして、私たちはすれ違ってしまったの。
『智弘と仲良くしてください』
わかってるよ。誤解してた。智弘のことも、そして詩織のことも。私は何もわかってなかった。智弘とは、ひょっとしたら、もう一回仲良くできるかもしれない。いや、そうしたい。でも、私は、詩織と、できれば三人で一緒にいたかった。空を見上げてたかった。ずっと昔みたいに同じ料理を食べたり、勉強したり、遊びに行ったり。そんな関係でいたかった。
すっとそばにいたのに、近くにいたのに。私は気づけなかった。ずっと近くで辛い思いをしてたのに、すごい期待を受けていたのに、気づけなかった。馬鹿なのは詩織だけじゃない。私も、みんな、おお馬鹿だ。全員が全員、馬鹿だよ。本当に。近くにいたのに、気づけなかった。私のせいだよ。詩織が死んだのは。
『幸せを祈っています』
馬鹿なの。詩織も大馬鹿じゃん。詩織がいない状態で、どうやって幸せを探せと言うの。私の横にはいつだって詩織がいたじゃない。今更いなくなって、それで幸せになるなんて、無茶なことを言わないでよ。
冷たい。空気が冷たい。昨日よりも冷たい。なのに、なぜか妙に熱く感じる。気づけば、頬がすごく熱かった。涙を流していたらしい。ねえ、どうして涙が流れるんだろう。どうして、こんなにもコートが濡れるんだろう。
青木は見るのをやめた。刑事としては、少し心配ではある。深夜零時を回った人気のない公園だ。犯罪に巻き込まれないとも限らない。でも、ああやってすすり泣いて涙をこぼしている松崎を見ると、一人にしてあげたい、そっとしておいてあげたい。気が済むまで、涙が枯れるまで泣かせておいてあげたい。そんな感覚がこみあげてきて、後ろ向きに体を預けた。
昔よく乗ったブランコの座面をさする。どこから、違ったというのだろう。どこから、私たちは、おかしくなってしまったんだろう。そんなことを思った。すごく頭が良くて、ピアノも上手くて。天才だった詩織に智弘。期待しすぎた私たちが、詩織を追いこんだ。智弘も、期待されて逃げ出した。そのせいで、智弘が詩織を殺すことになるなんて。きっと、近すぎて、遠すぎたんだろう。でも、それでも、詩織には生きていてほしかった。ひょっとしたら、もっと違った結末もあったのかもしれない。なのに、なんで。なんで、こんな残酷な結末になってしまったの。
残酷だ。とてつもなく残酷だ。こんな結末になるなんて、この世界はどこまでも残酷だ。その証拠に、ほら、雨が降ってこない。雨が降ってくれていれば、土砂降りなら、涙を洗い流してくれそうなのに、シャワーのように洗い流してはくれない。心を溶かしてはくれない。天気は晴れだ。残酷なまでに晴れやかだ。私たちをあざ笑うみたいじゃないか。頼むから、雨でもなんでも降ってくれ。というか、私たちをずっと前に戻してくれ。できることなら、三人で夢を見ていたあの頃に帰してくれ。
けれど、松崎の願いが聞き届けられることはなかった。松崎のすすり泣きがいつまでも公園にこだましていた。それを、十六夜が何も言わずに見つめていた。