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外が騒がしい。そのことに竹内は気づいた。それはそうだ、たった今、一番犯人とめぼしき人物の前で不可能と思われたトリックを解き明かして見せたのだから。けれど、俺が今からしようとしていることと比べれば、同僚の刑事たちに取調室の中に入らせるわけにもいかない、か。竹内はそう決意して、坂井を放ったまま、取調室の扉を開けた。
「おい、竹内、どういうことだよ」
開口一番話しかけてきたのは芳川だ。それを、軽く手を左右に振っていなす。
「すごいじゃないか、竹内君。これでもう、後は私たちに任せてくれ」
「一応、俺の方が先に分かったんですけど。竹内よりも早かったんですけど」
永井や竹内が好き勝手に口々に言う。けれども竹内はそれをまとめて無視して、きっぱりと言い張った。
「すいません、みんな取調室から出てもらえませんか? マジックミラー越しの方にも」
永井たちがぽかんとした顔をする。そこからいち早く立ち直った永井が怒鳴るようにして言った。
「どういうことだ!? 何が言いたい!」
「そのままの意味です。だから、俺と坂井智弘を完全に二人きりにしてほしいと」
「おい坂井! それが違反だってわかってて言ってんのか!」
冷静に答えた竹内に、激昂した芳川が怒鳴る。けれど、竹内は眉一つ動かさなかった。
「ああ、知ってるさ」
「だったらやめろよ!」
「竹内君。それならば、しない方がいいと思うぞ。君はアリバイを崩すという役割を十分果たしたじゃないか」
見境を失った芳川に、冷静ながらも静止をかける永井。対照的な二人の止め方のどちらにも、竹内の心はたなびくことはなかった。
「それはできません。俺は、どうしてもそうしなくちゃいけないんです。理由も、聞かないでください」
「おい、竹内!」
そう叫んだ芳川の肩を鈴木がつかむ。その横では滝川がおろおろしていた。
「竹内には、竹内なりの考えがあるんだろう。とりあえず、それだけでも聞いてやろうぜ。な、竹内?」
「ああ。たとえこれが違反だとしても、それをわかった上で、それでも俺はやらなくちゃならないんです。わかってくれとは言いませんが、今だけは見逃してほしいんです」
そう、管理官である永井に告げる。そうだ、俺は、ここで誰かを取調室に入れるわけにわいかないんだ。俺一人でやらなければ、その上で坂井に向き合わないといけないんだ。そう、竹内は思う。きっと、そうでなければ坂井は自分の口から話してはくれないだろうから。それに、残酷な真実は、誰も知らない方がいい。知る人物は、一人でも少ない方がいい。そう思った。だからこそ、竹内は真剣な表情で永井を見つめる。
「竹内君、もう一度問うが、理由を話す気は」
「ないです」
永井の質問にかぶせるように即答する。
「君のやってることはルール違反だ。場合によっては、処分されることだってある。それでも、君はその行動をとれるか?」
「はい、この通りです。お願いします」
そう言って、竹内はすっと膝をついた。そのまま、地面に両手をついて永井を頼み込む。
「ふざけるな竹内! 懲戒処分になるかもしんねえんだぞ!」
「芳川、その時は俺は潔く警察をやめる。それくらいの覚悟はある」
いきり立つ芳川に、竹内は土下座したまま答える。芳川の手がプルプルと震えた。
「お前、お前、ふざけんな!」
そう言うなり、芳川はその場を去っていってしまった。永井が考え込んでいる表情で固まっている。そこに、鈴木がだめ押しのような一撃を叩き込んだ。
「俺からも頼みます。どうか」
それを、永井は片手を出すだけにとどめた。
どうしようか。永井は思う。本当なら、自分が管理官を務める現場で、違反などあってはならない。けれど、竹内のあの必死の、覚悟を決めた頼み方は、尋常ではない。あれには、何か秘密があるはずだ。それも、知らない方がいい秘密が。だとしたら、竹内の言う通りにした方がいいのだろうか。それとも竹内が何か悪だくみをしているのか。そうなのか、聞いてみるか。
「竹内君、一つだけ聞かせてくれ。君がそこまで、一人にこだわる理由は何だ? 坂井智弘に入れ込む理由は何だ?」
その言葉に、竹内は顔をあげた。恐らく、俺は今試されている。俺に、いったいどんな覚悟があってそれほどまでの行動をとるのか、その理由を問われている。きっと、ここが正念場だろう。ここで、永井を納得できるだけの理由を答えられなければ、きっと俺の願いはかなわない。けれど、だからといって、秘密を話すわけにもいかない。どうしたものか。悩んだ挙句、竹内は慎重に言葉を選ぶ。
「それは、それはきっと俺が刑事だからです。刑事の仕事は、犯罪者を捕まえて、検察に送ることです。決して、善良な市民を傷付けることじゃありません」
「そうか」
永井はその一言しか発さなかった。そのまま、考え込むように腕を組む。その様子を、鈴木ははらはら、滝川はおろおろしながら見守っていた。
つい最近取り換えたばかりの無機質なLEDが永井を見下ろす。十秒程度の時間が、引き伸ばされていく。眠りに至るときの没入感のようだ。ひょっとして今俺は眠っていないだろうな。そんな馬鹿な考えを払しょくする。
「わかった、好きにするといい。行くぞ」
そう言って、永井は腕をほどいた。鈴木や滝川を連れてその場を後にしようとしていく。
「ありがとうございます! 鈴木も、ありがな」
無言で去っていく鈴木の背中は、無茶しやがってとでも言っているように見えた。それを見送った後、竹内は一人、取調室の中へと戻っていった。
「恵理子ちゃん、早かったわね」
「私も、知りたいですから。どうして、詩織が死んだのか。親友として、知らなければいけませんから」
そう言う松崎を青木は警察署の裏口で待ち受けた。人影は二人以外の誰も見えない。
「恵理子ちゃん。先にもう一度だけ言っておくわ。あなたにとって、これは知らない方がいいことかもしれない」
「わかってます」
「ひょっとしたら、恵理子ちゃんを傷つけることになるかもしれない」
「それもわかってます」
低い青木の声に対して、松崎はじっと青木の目を見据えて返す。
「後悔するかもしれないわよ?」
「それも、覚悟の上です。知らずに後悔するよりは、知って後悔する方がましですから。それに、瑞希さんも言ってたじゃないですか。聞きたいときに聞かないと後悔するって」
じっと目を見つめる松崎の威圧に、一瞬青木は押しつぶされそうになった。
「そうね。確かに言ったわ。それじゃあ、案内するから、ついてきて。できるだけ、静かにしてね」
そう言って、少しだけ笑った青木だったが、表情も心情も真剣そのものだった。
幸いにして、取調室までの道のりには刑事たちの姿は見当たらなかった。見とがめられないのをいいことに、青木はマジックミラー側の扉を開けて松崎を中へと送る。
「それじゃあ、私はここで」
「あれ、瑞希さんは、一緒にいてはくれないんですか?」
少し心細くなったのか、松崎が言う。それに対し青木は軽く手を振って笑った。
「私は聞かないよ。その話に割って入る権利も、勇気もない。それに、竹内っていう同僚の刑事が言ってたの。知っている人は少ない方がいいって」
「それって」
青木の台詞を聞いて、松崎が思わず聞き返す。
「私もよくは知らない。でも、たぶんこの話を私は聞かない方がいい。聞いてもいいのは、智弘君に、詩織ちゃんと智弘君の親友だった恵理子ちゃん。あなただけ。あなたたちだけなら、聞いてもいい。他の刑事たちが聞いていない以上、私はそういうことだと思ってる」
「そうですか」
気落ち気味に松崎は言う。けれど、すぐにりりしい表情を取り戻して告げた。
「わかりました。私一人で聞いてきます。それでは」
「うん、じゃあね」
そう言って微笑みながら青木は扉を閉めた。扉が閉まった瞬間、顔がふっと緩む。そして、扉のすぐ横にもたれかかって天井の明かりを見つめた。これでいい、きっとこれは、松崎にとってもいいことだったのだろう。そう、自己暗示をかけながら。
「ありがとうございます」
開口一番、坂井は取調室に戻ってきた竹内に告げた。
「何がだ?」
「二人きりにしてくれたことです。開けっ放しだったので聞こえてましたよ」
そう言って、坂井は少しだけはにかんだ。
「俺は、俺がしたいと思ったことをしただけだ。守るべき秘密は、守ってやりたいと思うしな。それに、そうでもしなきゃ、君は話さないだろう?」
「ええ、まあ」
坂井は九割がた、この刑事を、この刑事ならば、信用してもいいかもしれない。そう思っていた。自らが犠牲になるのもいとわず、頭を下げてくれている。秘密を守ろうとしてくれている。だから、もし動機を聞かれたら、賭けに乗ってもいい。そう思えるくらいに。ひょっとしたら、俺はこのやりきれない思いをぶちまけられる相手を探していたのかもしれない。誰にも教えられないこの秘密を、葛藤を吐き出せる相手が欲しかったのかもしれない。そんなことも思った。
「でも、感謝しているのは、それだけじゃないですよ。俺のアリバイを崩してくれたことも」
「それに関しては、感謝されるいわれはない。俺の仕事は刑事だ。アリバイを崩すのだって、刑事の仕事の内だ」
「そう、かもしれませんね。でも、俺が感謝してることに変わりはありませんから」
「感謝する被疑者っていうのも変な話だがな」
竹内のその言葉に、坂井は少しだけ微笑んだ。けれど、すぐに右側を向いて、遠い目をしてコンクリートの壁を見つめた。
「いえ、いいんです。詩織を殺したのは、俺ですから。いくら何がどうなろうと、俺が詩織を殺したという事実に変わりはありませんから」
そう呟いた坂井を竹内はただ見ているだけだった。何を言うべきかわからなくなって、ただ肯定の言葉を返す。
「ああ、そうだな」
「刑事さんは、その台詞、否定しないんですね」
しみじみとした様子で坂井は言う。罪を犯した者は罰を受けなければならない。けれど自分は罪に問われない、罰を受けることもない。そんなジレンマから解放されて、少し心が軽くなったような、ほっとしたような、そんな気がした。威圧するような竹内の目が、少し、ほんの少しだけ、坂井にはうれしかった。
「さっき言ったはずだぞ。全部分かったって」
そう言うと、竹内は椅子にもたれかかった。にらみ合うように坂井も視線を合わせる。静かな部屋に、扉が閉じる音がほんのり響く。けれど、それは二人の耳には入らなかった。松崎がマジックミラー越しにいることに、二人は気づかなかった。そのくらい、集中している状態にいた。互いの一挙手一投足に注目していた。そんな中、マジックミラー越しに松崎は耳をそばだてた。
「坂井君、君が自首してきたとき、俺は君が犯人としか思えなかった。動機がないことを除いてね。だから、君の動機を調べた。君が、岡崎さんを殺害した動機を。だけど、調べれば調べるほど、どんどん遠ざかっていった」
「でしょうね」
竹内が息を吐く。そのタイミングで坂井が合の手を入れる。
「調べれば調べるほど、どんどんおかしくなっていってね。君には、動機だけが見当たらない。そんな状態になってたんだ。でも、トリックが分かったことで、すべてが変わった。君には、岡崎さんを殺す動機なんて必要なかったんだ」
ごくりとつばを飲み込む音が聞こえた。じっと、坂井は竹内の様子を見守る。一方松崎はといえば、まったく意味が分からず、竹内の次の言葉を持っていた。竹内は厳かに告げる。
「この事件、岡崎詩織さん殺害事件は、ずばり、嘱託殺人だ。違うか?」
その答えを聞いたとたん、坂井は観念したかのような表情をして言った。
「その通りです」