21
坂井は天井を見つめていた。
松崎が去ってどれくらいたっただろうか。体感時間では二時間ぐらいだけれど、もっと長かったかもしれないし、もっと短かったかもしれない。そんな中、坂井はベッドに逆向きに寝転がって、足を枕の上に投げ出し、天井を見上げていた。
雨戸からわずかに射す光が、ペットボトルについた水滴に反射して、天井によくわからない模様を映し出す。明かりの向きからして、どうやらすでに街灯がついているらしい。もうそんなに時間がたったのかと坂井は思った。
踏み荒らしたままの教科書、机の上に出しっぱなしの手紙、床に落ちた掛け布団。そんな乱雑な部屋の風景に、既に飲み干されたペットボトルに、少し水分の溜まった皿が追加されていた。雑然とした空間の中、坂井は手を頭の後ろで組んでぼうっとしていた。
「なあ、詩織。俺たちは、どこで変わっちまったんだろうか」
そんな無意味で無責任な言葉を放り投げた。当然ながら答えが返ってくるなんてことはない。天井に反射した光は少し無機質で、寂しかった。
冷たい。暖房のついていない部屋の空気が冷たい。ずっと暖めていない体が冷たい。思考回路が、電気信号が、何もかもが冷たい。そう思える部屋だった。
もしも。もしも、俺があの時、プレッシャーに耐えきれていたら、耐えようとしていれば、俺は、俺たちはどうなっていたのだろうか。そんな仮定を坂井はしてみる。
中学に入ってからも勉強をさぼらなかったら、俺は、どうなったのだろう。きっと、詩織の誕生日に詩織と恵理子と決別するようなこともなくて、詩織たちと一緒に誕生日を祝ったり、また三人でどこかに遊びに行ったりしたのだろうか。そうして、高校も一緒のところに行って、テストの点数で競いあったり、文化祭でたとえば演劇に精を出したり、そんな青春を送っていたのだろうか。充実した幻想を頭に思い浮かべる。
そこで、いいやとでもいうように首を振った。どのみち、どこかで堤は崩れ去るんだ。それが早いか、遅いかの違いでしかない。むしろ貯水量が多いほど、決壊時の勢いは激しくなる。ひょっとしたら無差別殺人なんかをしていたとも限らない。どうすればよかったなんて、わかるはずがない。
それに、俺は逃げ出したんだ。現実から、期待から、重圧から、何もかも。全部逃げ出したんだ。幸せを捨てたんだ。そんなやつに、ありもしない幻想を抱く資格なんてないのかもしれない。
そこまで考えて、坂井はふと思った。俺は、詩織のことが好きだったんだろうか。友達としてではなく、異性として。詩織に、恋愛感情を抱いていたのだろうか。
わからないというのが本音だ。詩織に、好意のようなものは抱いてはいた。ただそれが、親愛だったのか、恋愛だったのかと問われると、それがどうなのかはわからなかった。もともと恋愛経験も女性経験もないのだ。坂井にはその違いが何なのか、線引きは難しかった。
それに、と坂井は思う。もしそうだったとしたところで、何が変わったのだろう。俺が、詩織のことを好きだったとして、何が変わったのだろうと思う。きっと、何も変わらなかったんだろう。詩織のことが好きだとしてもそうじゃなかったとしても、結末は変わらない。俺は詩織を手にかけた。今の俺は人殺しだ。その結末が変わるとは到底思えない。
坂井は深いため息を吐き出した。薄暗い部屋は何も変わらない。時折走る車の音と、自らの鼓動を残すのみだ。それ以外に動きなんてなかった。
「なあ、詩織。皮肉なものだよな」
誰もいない暗闇に向かって坂井は自嘲する。
かつて、天才と呼ばれ競い合った二人の少年少女。仲もよく、将来を期待されていた、はずだった。けれど、今はその一人が死に、もう片割れが不良に落ちてさらにかつての親友を手にかけた。それを、皮肉以外になんと呼べばいいのだろう。かつて彼らを天才と呼んでいた人々は、どんな思いをするのだろう。
「俺たち、どこで間違っちまったんだろうな」
どこから、どこからおかしくなってしまったのだろう。坂井は自慢する。四年前の詩織の誕生日か、それより前の中一の頃か、それとも、昨日だろうか。いや、どれも違う気がする。どれもターニングポイントではあったけれど、決定的ではない。俺たちが今ここにいる運命を、決定づけたものじゃない。そう思った。運命の岐路は、どこまでさかのぼって行っても見つけられそうにない。
ひょっとしたら、最初から、おかしかったのだろうか。最初から、こうなることは予定調和だったとでもいうのか。だとしたら神様は、神様がいるのだとしたら、そいつはとんだろくでなしだ。もしそうなら、俺はそいつを許せそうにない。どこまでも、現実は残酷だ。
「なあ、本当になんでだろうな」
なんでこんなことになってしまったのだろう。こんなことにならなければならなかったのだろう。そんな思いを乗せた坂井の言葉は、けれど帰ってくることは決してなかった。