20
「ねえ」
現在に意識を戻した松崎は、壁越しに坂井に問いかける。
「なんだ?」
「今なら、今なら智弘が何であんな行動をとったのか、冷静に見つめ返せる気がするの」
そう言われて、坂井は自分の足元を見た。座っていた教科書を払いのけ、冷たいフローリングの上に座りなおす。
「智弘は、わざと嫌われるような行動をとったんだよね? 私たちに悪評が及ばないようにさ」
坂井の答えは沈黙だった。正確には、黙秘と言ってもいい。本当の答えを俺は知っている。けれど、それは恵理子に話してもいいものだろうか。唯一、いや、正確には二人だが親友と呼べた人間の片割れに。
そろそろ、潮時なのかもしれない。坂井はそう思った。自分を偽って、嘘を吐いて生きていくのは。ちょうど、恵理子は知ろうとしてくれている。だったら、もう、話してもいいんじゃないだろうか。あの時からは長い時間が流れた。もう、割り切ることだってできるはず。そう思って坂井は口を開こうとした。
「ごめんね、聞きにくいこと聞いちゃったよね。今の言葉は取り消させて」
「いや、真実だ」
長い沈黙に耐え切れなくなって舌を翻した松崎に、坂井は期待されていなかった驚きの台詞をつぶやいた。それを聞いて、一瞬松崎が完全に固まった。ほっと坂井が息を吐き出す。
「本当だよ。わざと嫌われるように言った。そうやって嫌ってくれればいい。それで俺とのかかわりがなくなればいい。そう思ってやった」
「でも」
坂井の声は落ち着いていた。すごく冷静で、まるで自分のことを他人ごとのように話している。松崎はそんな気がした。
「それって、偽善でしょ」
言ってから、松崎はしまったと思った。坂井のため息を吐き出す音が聞こえる。けれど、坂井は声を荒げることはなかった。
「そうだよ。偽善だよ。何が善で何が悪とか知らないけどさ、完全に自己満足だよ。それくらい、わかってるさ。でも、それでいいと思った。実際、詩織も恵理子も、俺から、離れてくれたしな」
「そうだったんだ……」
優しげな智弘の声が松崎の心を揺さぶった。頭を落とし、指で何の形にもならない字を床にかく。
松崎は回想する。そう言えば、私、智弘のその台詞を一回も疑ったことなかったな。額面通りの意味で受け取って、智弘のことを最低なやつだと思って、今日瑞希さんに諭されるまで、口もききたくないと思っていた。智弘と親友だったことを汚点みたいに思って、思い出したくなかった。もう関係なんてないものだと思って、詩織や、他の友達と一緒に楽しんでた。智弘のことを聞かれることもなかった。これ、全部、智弘の思惑通りだったんだね。
「これは、詩織は知ってたの?」
「気づいてたよ。最初は騙しきれたみたいだったけど」
そうなんだ。私だけが気づいてなかったんだ。智弘がそんな行動をとった意味を詩織はちゃんとわかってたんだ。私だけが、盲目的に信じてたんだ。なんて馬鹿なんだろう。
「ねえ、なんで? なんでこんなことをしたの?」
「汚れ役をかぶるのは一人で十分だ」
「そうじゃなくて!」
松崎は叫ぶ。その声は、ドア越しの坂井を震え上がらせた。首をドアにもたげる。
「私にこんなことを聞く資格はないのかもしれない。でも、智弘には、不良に落ちる以外にも選択肢があったよね? なんでこんなことをしたの? 不良になんかなったの?」
ドア越しに坂井の頭がぶつかる音がした。空気が震えているような、そんな気がする。智弘が言葉を吐き出そうとしてその言葉が詰まって、そして空気がピリピリしてるような、そんな幻想にとらわれる。私は、地雷を踏んでしまったのだろうか。松崎は思う。
「……怖かったんだよ」
「え?」
「怖かったんだよ。だから逃げた。それ以外の選択肢なんて、俺にはなかったんだよ」
吐き捨てるように坂井は言った。それは、坂井にとって最も忌まわしい記憶のはずだった。けれど、今なら話しても構わない。なぜかそんな気がした。遠ざけようとしていたはずの恵理子が真実を知った。だからか、すべて話して楽になりたかった。そうやって胸に縋り付いて泣きたい。そんなことを思った。
「ずっと、ずっと怖かったんだ。俺はそんなに大した人間じゃない。大した人間にはなれない。ずっと前から分かってたんだ。でも、周りの人間は俺を天才として見てた。俺のことを大物だと思って見てた。期待されてた。でも、そんな期待、俺には重すぎた」
それは、松崎にとってとても驚きだった。そしてとても後悔する出来事だった。智弘はずっと怖がっていた。期待という名の重圧に。それに私は気づけなかった。逃げ出すほどつらかったのに。そう思うと言葉に詰まる。
「怖かったんだ。いつの間にか責任だけが増えていっちゃっててさ。でも、そんなのいつか耐えられなくなる。壊れる。それがすごく怖かった」
何も、言える気がしない。私は気づかなかったんだ。それで智弘を追い詰めたんだ。そんな私に、智弘のかけるべき言葉なんてない。そう思った。
「だから逃げた。逃げて、逃げて、不良になった。そうすれば、誰も俺のことを期待しない。不良になれば、期待から逃れられる。そう思ったんだ。そうでもしなきゃ、もっと能力があるんだからとか、頑張らないとだめとか、言われそうだったから。そんなの耐えられなかった。だから、俺は不良になることにしたんだ」
やっぱり、私に聞く資格なんてなかったのかもしれない。松崎は思う。あの時、ためらった時、聞くのをやめていればよかったのかもしれない。そうすれば、自分が追い詰めたなんて残酷な真実、聞かなくて済んだ。
いや、どっちにしても同じだったのかもしれない。いずれ私にも気づく時が来たのだろう。だったら、瑞希さんの言う通り、早いうちの方がよかったのかもしれない。けれど、傷つけたものはもう元には戻らない。私は、何がしたかったんだろう。体をドアに預けて意味のないため息を吐いた。
そんな松崎の心を知ってか知らずか、坂井は自嘲する。どうせ、俺なんて、詩織や恵理子とつりあう人間なんかにはなれなかったのさ。そんなことを思いたいような、自分を堕とすような台詞を言いたい気分だった。自分を堕とせば自我をその位置で保っていられる。そう思った。
「俺なんてしょせん逃げることしかできない臆病者なんだよ。どうだ、軽蔑しただろ?」
「そんなことない。智弘は十分優しいよ」
「そうか」
まったく心のこもっていない台詞。それが適当に脊髄反射的に言った嘘っぱちの台詞だってわかってる。でもそれがなんだかうれしい。そんな気がした。俺は、ずっと待っていたのかもしれない。自分が何を考えているのか、上辺だけじゃなく、ちゃんとわかってくれる人が欲しかったのかもしれない。
「ごめんね」
「何がだ?」
唐突に謝られて、坂井の頭の中には疑問符が浮かぶ。
「今まで、ずっと誤解したままだった。誤解したまま、智弘のこと、酷いやつだって思い込んでた。口もきこうとしなかった」
坂井はそんな声を聞いて天井を見上げた。
「そうだな。でも、それはお互い様だろ。俺だって、嫌われようとしたんだ。恵理子が謝るようなことじゃない」
「そうだね、それに関してはそうかもしれない」
そこまで言って、松崎は零れ落ちてきた涙を拭った。鼻声がドアに響く。
「でも、やっぱりごめん。私、智弘に許されないことした」
涙が口を邪魔する。それを拭いながら、叫ぶように松崎は言う。
「私、智弘に酷いこと言った。智弘がそんなことするはずないのに、そんなわけないのに、人殺しって言っちゃった! 詩織を殺したんだって思い込んで、許されないこと言っちゃった!」
その叫び声を、坂井は淡々と聞いていた。ドア越しでも松崎の泣き声が聞こえてくる。それが止むのを坂井は待っていた。
「恵理子、それも違うんだよ。恵理子の言ったことは、間違いなんかじゃないんだ。俺が、俺が殺したんだよ」
「でも、無罪だって」
「それでも犯人は俺なんだよ!」
ドア越しに坂井も叫ぶ。いつの間にか、目じりに雫がたまっていた。
「アリバイが、あったんだ。知らないうちに、アリバイが作られてたんだ。だから、釈放された。でも、俺が殺したんだ! 俺がこの手で、詩織に、ナイフを突き立てたんだ! 俺が詩織を殺したんだよ! 俺は人殺しなんだよ!」
ドン、という鈍い音が聞こえて初めて、坂井は自分が床を殴っていたことに気がついた。
そうだ、俺が殺したんだ。俺が、俺が詩織の胸に包丁を刺した。他の誰でもない、俺が、直接的に詩織を死に至らしめたんだよ。たとえ警察に無罪だって言われても、釈放されても、俺が詩織を殺したっていう事実は消えない。俺の罪は消えないんだ。
「だから、恵理子は別に間違ってなんかない。人殺しに、人殺しって言うのは間違ってなんかないよ」
そう言って坂井は染みだらけの天井を見上げる。坂井にはその染みが曇って見えていた。
「ねえ」
「なんだ?」
しばらくたった後、松崎の体感時間で三十分以上たったころ、松崎は話を切り出した。智弘の台詞がとても衝撃的で、もう何を信じていいのかわからなかった。縋り付くものがどこにもなかった。
「智弘が、本当に詩織を殺したのかどうかは私にはわからない。智弘は頑なだけど、私は詩織を殺すはずなんてないって信じたいし」
違うといいたかった。声を大にして、俺が殺したんだといいたかった。けれど、そう言ったところで警察が信じてくれないのは坂井には分り切っていた。きっと、恵理子も、そうなんだろう。俺の言葉を聞いていても、全部信じてるわけじゃない。そう思った。
「でも、もしも本当にそうなのだとしたら、教えて? どうして、どうして詩織を殺すなんて真似をしたの? 動機は何なの?」
それでも、信じていなくても、仮定だけでも話を進めてくれるのは、どこかうれしかった。自分が許される。そんなわけじゃないけれど、少し近づけた気がして。
「すまない。それには、答えられない」
「どうして? 今更そんなこといいじゃない」
けれど、その質問に答えるわけにはいかない。この質問だけは、答えられなかった。
それを教えてしまえば、すべてが壊れてしまう。何もかも失って、それでも守りたかったものまで失ってしまう。聞いてくれたことはありがたかったけれど、坂井は答えることができなかった。許されないと思っていた。それを伝えられるのは、俺じゃない。
「だめなんだ! こればっかりは教えられないんだ! 恵理子には特に!」
「……私には?」
松崎が尋ねる。明らかに不信感を抱くような、そんな声だ。
「どうして? どうして私じゃだめなの?」
「きっと」
叫ぶような松崎に、坂井は優しげに声をかけた。
背中越しの松崎の感覚が分かる。きっと、俺たちは、同じところにいたんだろう。でも、俺たちにはこのドアは。このたった三センチの厚みは、大きすぎたんだ。
「きっと、俺たちは、見ている景色が同じでも、見えている景色は全く別ものなんだよ」
「どういうこと?」
「今は、それしか言えない。本当にすまない」
天井を見上げた坂井が申し訳なさそうに言う。近くの公園で遊んでいた時、きっと、俺たちが、三人が見ていた景色は同じだった。同じように、世界は広がっているように見えた。でも、今は違う。見ているものが同じでも、思っていることはバラバラだ。与えられて、演じている役はバラバラだ。思考回路が一致するわけがない。
「ねえ、私たち、もう元には戻れないのかな?」
「そうなんだろうな」
松崎がぽっと呟く。過ぎてしまったものは戻らない。死んでしまった人がもう何も為すことができないように、壊れてしまった絆も元には戻らない。よくわかってはいた。
「ねえ、私たち、やり直せる?」
「恵理子ならできるさ。きっと」
「ありがとうね」
その答えは、完全に望んでいたものではなかった。智弘の回答の中には、自分が含まれていない。それでも、少しだけ、昔のように話せたことが松崎はうれしかった。
「それじゃあ、私邪魔しちゃったね。あ、あと、ご飯くらい食べなさいよ。せっかくお母さんが作ってくれたんでしょ?」
そう言って、もう昼を過ぎたにもかかわらず手の付けられない朝ご飯を見やる。メニューは食べやすいようにしたのかおにぎりが三つだった。その横にはペットボトルに入ったミネラルウォーターも添えられていた。
「俺に、人殺しの俺なんかに、そんなもの食べる権利があるのかな」
「馬鹿言ってんじゃないわよ! お母さんの思いを無下にする気? それに、詩織だって智弘に苦しんでほしいなんて思ったはずがない!」
ぼやくように言った坂井に、松崎はドアに向かって叫び返した。本が崩れる音がする。
「そうか。そうかもしれないな。一応、いただくことにするよ」
「そう。しっかり食べなさいよ。それじゃあ、またね」
その言葉に、坂井は無言だった。きっと、またねなんて言えなかったんだろうと松崎は思った。決して、心が通じたわけじゃない。むしろ、全然違うんだということを思い知らされた気がした。それでも、松崎の心はどこかすっきりした気分だった。長年背負ってきた重い荷物から解放されたような、そんな気がした。
カチャリ
松崎が去って少しした後、教科書や雑誌が崩れ落ちる音がして、閉じられていたドアが開いた。そこから最低限の長さだけ手を伸ばして、朝ごはんの乗った皿をつかんだ。それからペットボトルの水もつかんでドアを閉め、再びカギをかけた。
朝ごはんには、昼ごはんにさえも遅すぎる時間。けれど、坂井の食欲はあまりなかった。
一つ目のおにぎりを頬張る。中身は鮭だった。海苔も何も巻いていない、ただ白ご飯で鮭フレークを包んだだけ、形もいびつなおにぎりだった。
それをあっという間に平らげ、水をあおるようにして飲む。一気に五百ミリリットルのミネラルウォーターが半分以下までに減った。
零れだした涙を拭って、二つ目のおにぎりに取り掛かる。思わず口から声が零れた。
「ちくしょう、ちくしょう」
そんなことを言いながらも、貪るようにしておにぎりを口に含む。冷え固まった米に染みこんだ涙ごと喉に押し流した。
「なんでだよ、なんでこんなにうまいんだよ。ちくしょう。うまいよ。おいしいよ」
涙を流しながら、最後の一つを口に含む。朝炊きあげられて、もうすでに冷え固まった米。市販の鮭フレークを混ぜただけのおにぎり。それなのに、口に含むと、とてもおいしくて、無性に涙があふれてくる。それでいて、そのおにぎりはどこかしょっぱかった。




