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坂井智弘は震えていた。見るものが見たら不審がるほどに震えていた。いや、病人だと思ったかもしれない。坂井の顔は青ざめていたのだから。
「詩織は、許してくれるかな」
坂井はかつての親友の名を呼ぶ。かつてともに天才と呼ばれ、競い合った少女の名を。けれど、その答えが返ってこないことを坂井はよく知っていた。それでも、空に向かって問いかける。
「許してくれよ、詩織。やっぱり、俺は、耐えられない」
明かりのついていない暗がりの中、自分の部屋で震えていた坂井は、そっと音をたてないように部屋を出た。部屋の中には教科書や雑誌が散乱し、封のしてない茶封筒が無造作に机の上に置かれている。その晩約束があったが、そんなものはもう、坂井にとってはどうでもよかった。すっぽかす予定の約束より、自らの過去、自分が犯してしまったこと。それをどう清算するか、それだけが坂井の頭の中を占めていた。
「詩織、すまない。不本意かもしれないけど、こうさせてくれ。本当にすまない」
すまない、すまないと坂井はうわごとのように繰り返す。いや、実際うわごとを言っていた。その姿はどう見ても異様でしかない。実際、彼がだれにも見咎められることなく目的地へたどり着けたのは、目的地までそこまで距離がなかったとはいえ、幸運だったのだろう。
共働きで、まだ両親の帰ってきていない、暗いリビングを通り抜け、坂井は玄関へと向かう。そこには肉を焦がしたかのような、そんな嫌なにおいがはびこっていた。まだ換気扇をつけたままにしてあったにもかかわらず。そんな空気も坂井を暗くさせる。
「俺は、やっぱり裁かれなくちゃいけないんだ。俺がしたことは許されないんだよ。そうでもしないと俺が壊れてしまいそうなんだ。だから、だから許してくれ」
真っ黒なスニーカーに足を通し、坂井は玄関の扉を開けた。十五夜の光が坂井の青白い頬を照らす。その姿は、真っ暗な坂井の家とその隣の家の雰囲気と相まって、一層不気味に思えた。冷たい風が坂井を震え上がらせる。
十月の下旬という寒空の下、凍てつくような十五夜の下を、坂井はコートも羽織らずに、長袖のTシャツ一枚のまま歩く。人気のなくなった公園の時計は、午後十時半を指していた。
「俺は、俺の罪に耐えられない。だから、詩織、ごめん」
震えながら坂井は歩く。その震いは寒さからくるものではなく、坂井自身の強迫観念とでも言えるものから来ていた。街ゆく人々にはそれは寒さで震えているように見えただろうが、それは言うなれば、恐怖の震えだった。
坂井の喉はからからだった。普通ならば、迷わずに水の一本や二本を買っていたところだろう。けれど、坂井は煌々と夜道を照らす自動販売機には目もくれなかった。それだけ坂井の心理状態はひっ迫していたのだ。そんなものに向ける余裕など、持っていなかった。
それに、坂井は財布を持って出ていなかった。家の鍵も持っていなければ、普段から持ち歩くスマホさえも家に置き去りにしてきた。着の身着のまま、取るものも取らず、約束を破り、坂井は熱病にうなされたように震えながら目的地へ向かう。
「詩織、すまない。許してくれ」
うわごとのように懺悔の言葉を述べながら。目の焦点も、どこか狂っていた。
陰りない雲が、冷たく十五夜の街を照らしていた。